日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎再帰的な性質「リカージョン」について

〇人間の脳を特徴づけている再帰的な性質「リカージョン」について、池谷裕二論を参照しながらあげてみる。

「言語の構造の一つの特徴は、リカージョン、つまり「再帰」にある。—-再帰とは、「タロウ君は、ジロウ君が、ハナコちゃんがお人形遊びをするの、を邪魔したこと、をいけないと叱った」 主語をA,述語をBとすると、「A(A’(A”B”)B’)B」となる。重要なことは大きなAとBの中が「入れ子」構造になっている。これを再帰と言います。再帰ができるのは人間だけです」(池谷)

 

 人間が「再帰」という概念を理解したことで「他者視点」でものが見れることになったのだが、その能力獲得のステップについて、かくれんぼを例にして説明している。

「3歳児でも、説明すればかくれんぼのルールはわかる。僕が鬼になって、手で顔を覆って『もういいかい』というと、『まーだだよ』と返ってくる。しばらくすると『もういいよ』と言うから振り返って見ると、隠れていないんですよ。そこにいるんです、3歳の子。では何をしているかというと、目を閉じて待っているんです。自分から相手が見えなければ、相手も自分が見えないと思っているんですね。つまり他者視点でものが見えていない。—-3歳児はまだ再帰ができない。4歳児になると少しずつ再帰ができるようになる。—-こうして徐々に他者視点を身に着けていく。これは言語が発達しないと起こらない」(池谷裕二・鈴木仁志『和解する脳』講談社、2010より)

 

 このように「再帰」ができない、言語発達が不十分だと、自分の立場でしかものが考えられなかったり、自己中心的になったりしがちになる。これが出来ていないと他人との関係性をよく認識できず、「和解」も出来ない大人になってしまうということで、二人の論は展開していく。

「再帰」とは、言語の分野では、どんなに主語・述語が「入れ子」になっていても、文の意味を理解できる能力のことを指す。人間が「再帰」という概念を理解したことで「他者視点」及び、自分自身も「第三者的な視点」でみる、調べることができるようになった。

 二つ例文を作ってみる。

・私Aは(友人A’が「知人A”が書いた文章B”」を批評していたB’)のことについて考えたB。 これは主語A、述語Bが、「A(A’(A”B”)B’)B」の順番で書いてある。 私Aは→考えたB。 友人A’→批評していたB’。 知人A”→書いたB”。

・私Aは(僕A’が「俺A”が書いたブログB”」をよくないと思ったB’)のことについて考えたB。

 

 ただ注意しておきたいのは、再帰ができるようになるのは言語発達から始まるが、他者視点で見れるようになるには、言語運用をはじめ、いくつかの面での知的な成熟が必要ではないだろうか。

 調べるというのは、どこまでもそのような視点がないと、深まってはいかないと思うが、言語発達についてはある程度いけるようになっていても、はたしてどれほど身についているのだろうか。

 ここでは、自分自身を第三者が見るような視点もとりながら、みていくことの面白さを考えてみる。あることを考え、感じた自分の捉え方を、一旦括弧に入れる。どうしてそのように考えたのか。別の観点から観たらどう見えるのか、どうしてそのように感じたのかなど距離をおいたところから捉えなおしてみる。

 普段の日常生活では、ほどほどにしていることが多いし、突き詰めてみていくのも限界があるとしても、対人関係の場面、特に意見が食い違ったとき、全く理解できないようなことに出会ったとき、など。このような視点を持っていることは大事だと思う。

 また、自分の見方、考え方がどのように形成されてきて、自分を含む状況の中で、どこに向かう道筋のどの地点にいるのかを「俯瞰的」に把握できる力を培って行くことは、よりよく生きていくために必要ではないだろうか。

 

【参照資料】

※『和解する脳』の中で、池谷裕二は、「すなわち脳一個だけを観察していてもヒトの心は理解できない。少なくとも二つの脳の干渉によって『心』が判る。こうした発想から脳研究者は『社会脳』という標語のもとに脳科学を進めようとしている。」との発言がある。社会脳の分野に限らず、自閉症や発達障害の研究分野でも「心の理論」がしばしば取り上げられる。以前の講演から、その部分を抜粋する。

〇「かくれんぼ」は三歳まではできないと言われています。大体は四歳ぐらいになってできるようになるらしい。三歳くらいになるとそのルールはわかる。鬼がいて鬼が目隠しをしている間に隠れるというルールですね。それは分かる。

 しかし、三歳ぐらいまでの子どもは、自分が見えないと相手も見えないと思うようです。だから鬼が、「もういいよ」というのを聞いて、目をあけてみると、目の前に手で目を覆った子どもがいるそうです。自分に見えないと相手も見えないと思うようです。

 それが四歳くらいになると、自分に見えなくても相手には見えるかもしれないということが分かってくる。つまり相手の立場にたって考えるという働きは通常四歳くらいにならないとできないと言われています。

 

 これに関しては、幼児段階の「心の理論」としてよく取り上げられます。

「心の理論」とは、相手が何をしたいのか、何を思っているのか、何をしようとしているかといったような、相手の「心」の状態について考えること、そして、相手の心に関する理解をもとに、相手がなぜこのような行動をとっているのか、次に何をしそうなのか、自分はどのように対応すればよいのか、といった理解や予測を行うことです。

 また、「誤信念課題―相手は何々と思っているに違いないという信念」とセットで発達心理学の知見として一般的な見解です。

 ところが、近来の脳研究者の実験によると、一歳半ぐらいの幼児でも、相手の立場にたって考えることができるとの実験データが出てきたそうです。その辺りのことは、幼児によっても様々な遅速があるのと、この理論そのものが帰納法的な推論であり、一つの仮説として見たらよいかと思います。

 ただ、一般的に三歳から四歳ぐらいにかけて、言葉の習得もかなり進んできて、相手の立場になって考えられるようになる、どうして三歳まではできなくて四歳になると出来るようになるのか、これは非常に面白いと思います。

 自分が見えなかったら、鬼にも見えないというところから、自分は見えないけれど鬼には見えるかもしれないと、鬼の気持ちになって考えるという、そういうことが出来るようになるのは、ちょうど四歳くらいらしいです。

 自分がどう思うかだけではなく、ほかの人はどんな風に考えているかというのは社会性を身に着けていくのに大事な要素ですね。他人視点を身に着けていくのは、どうも言語がある程度発達しないと起こらないらしいです。

(講演『子どもの育ち―よい関係の中で育つ、育てられる―』2015/1/17ブログより)