日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎孫の成長記録(姉2歳2ヶ月、弟4ヶ月)コミュニケーションの基本。

※〈教育やケア(子育てや介助・介護)は、その相手である一人ひとりの思いに濃やかに耳を傾けることからはじまり、また相手がいつの日かみずからの足で立つ、みずからをたてなおすのをじっと待つ、ということがとくに大きな意味をもついとなみである。〉(鷲田清一「受け身でいること」)

 

〇お姉ちゃんとのコミュニケーション。

 お姉ちゃんは話す言葉も増え、わが家にくると「これはなんだろう? どうなっているのだろう? あれはなんだろう?」と、次々にパワフルに動き回っていて、実に微笑ましい。

 

 手先もだいぶ器用になり、好奇心旺盛でいじくりまわしたり、分解したりして、ときにはこわすこともある。

 

 ボールペンを分解して、元に戻らないようになり、妻が「あーあこわれてしまった」というと、ペンの芯をもって、「まだかけるよ」という。

 しまったとの様子はなさそうだが、何かを感じているようだ。

 

 幼児はいろいろなことに挑戦し続けることで、身体・脳が活性化しそれへの対処の仕方、解決への仕組みを獲得し覚えていく。好奇心を覚えていろいろなことに挑戦し続けること、大きな危険への配慮をしながら、その自発性を受容する周りの人たちによって育っていくのではないのかと思っている。

 

 どちらにしても見守ることは欠かせないが、大したことにはならない。

 

 わが家に来ると、絵本とお気に入りの本を出してきて、読んでくれと催促する。

 

 まだ小さい頃は、本の中身よりも、面と向かって読んでもらっていることに楽しさを感じているようだった。徐々にここという場面に反応するようになる。

 

 お気に入りは星野道夫『悠久の時を旅する』で、人や動物の息遣いが聴こえてくるような写真が満載された魅力的な書である。

 

 まだ文字は読めないが、気にとまった写真に「これはなーに」と聞き、妻が適当に創作を交えて話しをすると、そこから対話らしきものに発展することもある。

 

 

〇弟とのコミュニケーション。

 弟は徐々に首がすわってきて、体重も増えて、抱き抱えるのは大変と妻はいう。

 わたしはそれをするような体ではなく、赤児を抱くようなことはできないのでよく分からないが、妻は見るからに大変そうだ。

 

 妻は、「今日はご機嫌だね」「そんなに悲しいの」「おしっこしたのかな、すぐにかえるよ」など、しきりに声掛けをして、作業もおり込みながらあやしている。しかも楽しそうである。

 

 はたで聞いていて、すごいなと思う。わたしにはとてもまねできないし、二人の子供を育てた体験、性格的なものもあるのだろう、感心しながら聞いている。

 

 孫のほうはよく分からないだろうし、反応らしきものも、それほど感じられないが。

 

 内田樹は「コミュニケーションの基本は親子関係」と述べている。

〈コミュニケーションの起源的な形態は、まだ人語を解さない赤ちゃんが、親から語りかけられる経験です。この語りかけを通じて、赤ちゃんは表情筋の使い方を学び、身体運用を学び、感情を学び、観念を学びます。いまだ言語を解さない赤ちゃんに向かって母親は熱心に語りかけます。これはコミュニケーションと呼ぶほかない。というか、これ以上に濃密なコミュニケーションを見出すことはむずかしい。でも、このとき赤ちゃんは、親の語るコンテンツはまったく理解していません。

 

 コンテンツが理解できなくてもコミュニケーションは成立します。母語をまだ一語を理解できない赤ちゃんでも、ひとつだけはっきり理解できることがあるからです。それは「このメッセージの宛て先は私だ」ということです。

 

 実際には、「メッセージ」という概念も、「私」という概念も赤ちゃんにはありません。でも、「宛て先」ということは身体的実感としてわかる。自分の顔をまっすぐみつめて、息のかかるほど近くから、やわらかい波動が送られてくる。何か「温かいもの」、生きる力を高めるものが、自分に触れてくることはわかる。〉(『内田樹による内田樹』より)

 

 二人の孫の育ちと妻の対応ぶりを見ていくと、このことは実感として伝わってくる。

 また、このようにして、ひとに対する基本的な信頼感が培われていくのだろう。

          ☆

 参照・内田樹「コミュニケーションの基本は親子関係」

〈コミュニケーションの起源的な形態は、まだ人語を解さない赤ちゃんが、親から語りかけられる経験です。この語りかけを通じて、赤ちゃんは表情筋の使い方を学び、身体運用を学び、感情を学び、観念を学びます。いまだ言語を解さない赤ちゃんに向かって母親は熱心に語りかけます。これはコミュニケーションと呼ぶほかない。というか、これ以上に濃密なコミュニケーションを見出すことはむずかしい。でも、このとき赤ちゃんは、親の語るコンテンツはまったく理解していません。

 

 コンテンツが理解できなくてもコミュニケーションは成立します。母語をまだ一語を理解できない赤ちゃんでも、ひとつだけはっきり理解できることがあるからです。それは「このメッセージの宛て先は私だ」ということです。

 

 実際には、「メッセージ」という概念も、「私」という概念も赤ちゃんにはありません。でも、「宛て先」ということは身体的実感としてわかる。自分の顔をまっすぐみつめて、息のかかるほど近くから、やわらかい波動が送られてくる。何か「温かいもの」、生きる力を高めるものが、自分に触れてくることはわかる。

 

「私が宛て先である」というこの身体感覚が、コミュニケーションの原点であり、「自我」という概念の生成の起点だと僕は思います。そこからしかコミュニケーションは始まらないし、主体も立ち上がらない。

 

 僕たち全員が、まったく母語を知らない段階からスタートして、短期間のうちに、母語の語義を理解し、文法構造を体得し、音韻を操るようになります。これはほとんど奇跡と呼んでよいと思います。でも、この奇跡を経験せずに成長したものはおりません。

 

 ということは、「宛て先」さえ正しく照準されていれば、コミュニケーションはもうほとんど成立しているということになります。コミュニケーションの成立要件はひとことで言えば、「これは私宛のメッセージだ」という身体的な直感です。それだけです。それだけで足りる。語の一義性であるとか、論理の整合性とか、滑舌の明瞭さとかいう条件はすべての副次的なものにすぎません。〉

(『内田樹による内田樹』(140B、2013)―『先生はえらい』p61より)

 

・鷲田清一「届く言葉、届かない言葉」

〈話の中身以上に、母親の声がじぶんに向けられているということが大事なのではないか。つまりは、ことばの意味より、じぶんに語りかけられているというシチュエーションのほうが、テキスト(物語の意味)よりテクスチュア(母親の声の肌理)のほうが。子どもはおそらく、じぶんが、いわば独占的に、母親の意識の宛先になっているという状況に浸っていたいのである。

(中略)

〈もっぱらわたしのみを宛先としている声。そういう声のやりとりのなかで、ひとはまぎれもない〈わたし〉になる。

〈わたし〉を気づかう声、〈わたし〉に思いをはせるまなざし。それにふれることで、わたしは〈わたし〉でいられる。気づかいあうこと、それは関心をもちあうことである。〉(『大事なものは見えにくい』より)

 

※鷲田清一『大事なものは見えにくい』( 社会福祉法人埼玉福祉会,2017)