日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「間違い主義」と「アブダクション」について(2)

〇何か考えていくときの方法として、帰納法、演繹法と並ぶ第三の推論法として、アブダクションがある。最新の科学成果を駆使して、具体的に語ってくれる池谷裕二に面白さを感じている。。

 アブダクションとは、 起こった現象を最もうまく説明できる仮説を形成するための推論法のこと。 仮説形成とも訳される。 アメリカの哲学者パースがアリストテレスの論理学をもとに提唱し、帰納法、演繹法と並ぶ第三の推論法として、新たな科学的発見に不可欠なものであると主張した。(「コトバンク」)

・ウィキペディアの「論理的推論」は次のようにまとめている。「アブダクション(仮説形成):アブダクションは「前提条件」を規定することを意味する。この推論は「結論」と「規則」を用いて、「『前提条件』は『結論』を説明することができるだろう」ということを裏づけることである。例えば、「芝生が湿っている。雨がふると芝生が湿る。したがって、雨がふったに違いない。」診断専門医や探偵は通常、この種の推論にかかわっている。」

 これに添ってみていく。芝生が湿っているのは、誰かが水をまいた、雪が降ったなどと、必ずしも雨とは限らない。しかし、このような推論で判断している、それをもとにあれこれ考えていることが多いのではないか。

 先日取りあげた糖尿病と糖質制限食について、賛成・反対に拘らず、そのような推論で展開していると思っている。

 

・アブダクションについては、池谷裕二の話が分かりやすいと思っている。

【ネズミは四角形が出たならば右のレバーを押す、三角形が出たら左のレバーを押す、というのを覚えることができます。これを覚えたネズミに、今度はさっきとは逆に右のレバーを押して四角形を出しましょうというのをやらせようとすると、できないんですね。サルでも赤色を示して「赤」という文字を覚えさせた後、逆に、文字を見せて、並んだ色の中から赤色を選ばせると、選べない。つまり「AならばB」を覚えた動物は、それが「BならばA」と逆に考えることができないんですね。これができるのは、ヒトだけなんです。

 でもね、ちょっとよーく考えてもらいたいんです。ヒトは間違っているんです。論理学で、必要条件・十分条件って習いましたよね。「AならばB」であっても「BならばA」とは限らないと。

「山田先生は、数学の先生である。」であれば、 「数学の先生は、山田先生である。」か?

 これ間違いなんですよ。つまり動物のほうが正しい。私たちはなぜか「AならばB」と聞くと「BならばA」だと勘違いして、ほとんど盲目的に信じてしまうんです。

 いま風評被害と呼ばれているのも、とんでもない例で、まさに逆を信じちゃってるわけですね。たとえば、海外で問題になった「日本の製品は、放射能を含んでいる」っていうのは風評被害ですね。放射能を含んでいる物質は、確かに日本から来た可能性があるけれど、その逆は真ではない。それなのに「放射能ならば日本」と聞くと「日本ならば放射能」とやってしまう。このことは十分考えなければいけないと思います。同じように「中国製=悪質」というのも、かなりまずいことだと思います。

 

 一方で、じゃあ、これができることのすばらしさって何だろう?──それは、厳密にロジカルな思考だけでは、何も新しい考えは生まれないということなんです。論理的に正しい推論の代表は演繹法ですね。これに対して帰納法というのがあります。卵が1パックあって、中の1つを割ったら腐っていた、もう1つ割ったら腐っていた、3つ目のも腐っていた……すると人間は「このパックの卵は全部だめかな」と思う。でも、他の卵が腐っていると考える論理的な根拠はないし、本当に腐っているかどうかは、すべて調べてみない限りわからないですよね。でも、私たちは自然と推論する。これが帰納です。この推論の源をたどれば「AならばB」であれば「BならばA」と考える人間の癖から来ている。サイエンスというのもおそらく、この勘違いがあるからこそ成立する学問なんです。

 さらにこの帰納の一種で、示唆的な事実を選び取って仮説を構築する「アブダクション」という拡張的な推論形式があるんですけれども、人は小さな子供でもこのアブダクションやっちゃうんですよね。たとえば言語を覚えはじめのアメリカの子供は、動詞の過去形の背後にあるルールを勝手に推測して「-ed」を付けます。だから「make-made-made」などの不規則動詞を、「maked」などと言い間違えたりするんです。ということは、人の場合、教えられたから推論するんじゃなくて、かなり本能に近い部分でアブダクションの能力を持っていると考えることができます。

 さて、実はこのアブダクションができるってことが、人間の脳を特徴づけている再帰的な性質「リカージョン」と関係があります。このリカージョン、帰納・アブダクションを持ったから言語ができたのか、言語を持ったからリカージョンができるのかというのはわかりません……どちらかというと、私は言語以前かなと思っているんですけれどね。

(researchmap「『“風評”』とリカージョン」(インタビュー池谷裕二)

 

「・科学は基本的に帰納を排除するが、司法の現場では、帰納をすごく重要視する。人間は、ほとんど癖と言っていいくらい、帰納が大好き。でも、科学は帰納をやるとミスる。演繹のほうが100%正しい。

・多くの人は、科学者は仮説を証明するために実験していると勘違いしている。本当は、仮説を否定するために実験をしている。「反証可能性」こそが科学の大前提」

(『和解する脳』池谷祐二、鈴木仁志著、講談社、2010などから)

 

 演繹は、AならB,BならC、CならDと論を詰めていく。それは100%でないと演繹とならない。数学のように人為的な約束のもとにある以外、現実の世界ではかなり難しいのではないか。科学者はそれを目指しているが、仮説そのものは、どこまで行っても「帰納・アブダクション」である。

 このように見ていくと、人が何かを考え煮詰めていくとき、帰納・アブダクションで見ていくことが殆どで、むしろ、間違い多き人の限界をわきまえ、(1)でとりあげた鶴見俊輔が「間違い主義」のエネルギーに度々言及しているのは、魅力ある見方だと思っている。