日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎自我意識にたてこもらない他者体験

〇わからないものをそのまま受け入れる

 最近、とても嫌な思いがしたことがある.いろいろ振り返ってみると、これと同じような感情はだいぶ前のことになる。ここ10年の暮らしでも、いろいろなタイプの人と関わったが、そのようなことが思い当たらなかった。あるいは、忘れてしまえるようなことだったかも知れない。日常の暮らしで、たまに、これ嫌だなと思うことがあっても一過性のものである。

 自分でも嫌になるこのような感情は何なんだろうという思いがある。

「自我意識にたてこもらない他者体験」という表現に出会って、これについて考えている。

 

 コミュニケーションとは、AがBに信号を送り、それを受け取ったBに何らかの変化が生じ、BがAに信号を送り返す、それを受け取ったAに何らかの変化が生じる。その一連の課程をコミュニケーションと思っている。

 

 コミュニケーションについては、その時、それぞれの憶測、捉え違いがありながら、また自責・他責感を入れずに、忌憚なく思ったままを出し合うことが欠かせない。

 おかしな見方であれば、「それ違うよ」といえばいいだけだと思う。それが気楽にできなければ、まともに話し合う気にはなれない。

 

 そこでは、ことばのやり取りだけではなく、沈黙、顔(気配)を感じることも含めて、あるいはことば以上に、それが大きな信号となる場合がある。言葉の使用が未熟な乳幼児期の親子、困難な障害を抱えた人との間でもコミュニケーションが要となる。

 メールやネット上のやり取りは、顔が見えないので、もう一つ弱い感じはあるが、その過程の醸し出すものがあるので、匿名や誹謗中傷でない限り、コミュニケーションとなる場合がある。

 

 わたしたちは、自分が織り上げた意味連関を通して、他の人、ものごとを見ている。他の人も、その人の見方で私、ものごとをとらえている。それ以前に、自分自身のことも、織り上げた意味連関でみているので、程度の違いはあるけれど、とらえ方は絶えず「ずれ」を伴っている。そのくいちがいが強くなると「誤解」「曲解」となる。

 特に言語は恣意的だ。例えば、世界の民族によって虹の色の見え方が違う。日本では七色、欧米では六色が多く、二色のところもあり、虹を全く知らない民族もある。様々な要因による解釈図式で違ってくる。

 日本には雪を表現する言葉が英語に較べて多いが、エスキモーは日本語の何倍も雪を表現する言葉を持っているらしい。その理由は、生活環境がそれを必要としたからだ。

 どの地域のどの言語を採り上げてみても、「一般的意味(辞書に使われている意味)」と、その時々の「個別の意味(その人が言いたいこと)」を持っている。

 例えば、平和を守るためには戦争は避けられないと言ったりする。幸福・自由・民主主義・・・等々使う人により異なった意味合いになる。これは、地域、文化レベルだけではなく、一人ひとりも違うし、同じ人が使っても、文脈によって正反対の意味になったりする。

 そのような違いがありながらも、コミュニケーションや話し合い、あるいは、黙って見守ることが人と共に暮らしていくときの大事な要素であると思っている。そのために、どのような観点が肝心要となるのか。

 

 最近、夫婦、娘と三人で話をすることが多い。当たり前だが、一人ひとり感覚、とらえ方がだいぶ違っているが、全く気にならないどころか、ひたすら面白いのである。

 親しい間柄や家庭のような微温的な雰囲気に限らず、他者とは、私のとらえきれない全く異質なものだという観点の上で、コミュニケーションには、「思いを一つにする努力」ではなく、「まず、認め合っている」ということが大切なのではないだろうか。

 

《まず、分かる、理解するというのは、感情の一致、意見の一致をみるというのではないということ。むしろ同じことに直面しても、ああこのひとはこんなふうに感じるのかというように、自他のあいだの差異を深く、そして微細に思い知らされることだということ。いいかえると、他人の想いにふれて、それを自分の理解の枠におさめようとしないということ、そのことでひとは「他者」としての他者の存在に接することができる。ということは、他者の理解においては、同じ想いになることではなく、自分にはとても了解しがたいその想いを、否定するのではなくそれでも了解しようと想うこと、つまり分かろうとする姿勢が大事だということである」(鷲田清一『大事なものは見えにくい』「ひとを理解すること」角川文庫)》

 

 鷲田さんは、いろいろなところで人と共に生きていくのに、大事なことを述べている。

 他者を理解するということは、なにか共有することを見いだすということよりも、ふれればふれるほど、それぞれの差異、特異性が際立ってくる経験を反復することから始まる。そのための姿勢が、わからないものをそのまま受け入れる、そのうえで了解しようとし続けることにあると言っているようだ。

 自我意識にたてこもるとは、ある種の警戒心が働いているのだろう。「認め合う」というのは、自分から応じるというのが大きなポイントとなるのではないだろうか。