日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「間違い主義」と「アブダクション」について(1)

〇このところ、「自分にたてこもらない(他者体験)」ということを考えている。最近、まど・みちおの戦争協力詩についての一連の報道に触れていくと、「間違い主義」のことにつながっていった。

 

 それについて、鶴見俊輔は、次のように度々取り上げている。メモからいくつかあげてみる。

「アブダクションは「ソクラテスは人間である。ソクラテスは死んだ。」という二つの事実をもとに、より広い法則「人間は死ぬ。」を導く。しかし「死ぬのはソクラテスだけである。」という結論も出しうる。このようにアブダクションは常に間違う可能性がある。これをパースは間違い主義として重要視し、この間違うということが人間としての実在感の根源的な根拠だ、間違った自分が存在していることを通じてのみ、自分の存在を確認することができる。デカルトに対する根本的な反論である。」

「マチガイ主義(fallibilism) 絶対的な確かさ、絶対的な精密さ、絶対的な普遍性、これらは、われわれの経験的知識の達し得ない所にある。われわれの知識は、マチガイを何度も重ねながら、マチガイの度合いの少ない方向に向かって進む。マチガイこそは、われわれの知識の向上のために、最も良い機会である。したがって、われわれが思索に際して仮説を選ぶ場合には、それがマチガイであったなら最もやさしく論破できるような仮説をこそ採用すべきだ。」

「わたしの場合、人間の究極の問題として、自分がまちがっているという可能性は、科学的に考えて排除することはできないというのが、基本的な考えかたです。」
「あとで修正するかもしれないけど、今考えてることはこういうことです』という表現は、可能性に満ちている。」
(海老坂武・鶴見俊輔『シリーズ鶴見俊輔と考える5この時代のひとり歩き』SURE、2008年など)

 

「脱走兵のことでは、小田も私も予測をまちがったわけだけれども、そもそもべ平連というのは、フアリプリズム、まちがい主義なんです。このフアリプリズムという言葉、もともとはプラグマティズムの創始者の一人、チャールズ・パースがつくったもので、まちがいからエネルギーを得てどんどん進めていく、まちがえることによって、その都度先へ進む、それが何段階かのロケットにもなっていくわけです。こういう連動の形というのは、日本では明治以降の百数十年間起こらなかった。(略)

 マルクス主義というのは、You are wrong でしょ。あくまでも自分たちが正しいと思っているから、まちがいがエネルギーになるということがない。
 しかし、思想の力というのはそうではなくて、これはまちがっていたと思って、膝をつく。そこから始まるんだ。まちがいの前で素直に膝をつく。それが自分のなかの生命となって、エネルギーになる。たとえば吉本隆明と私を比較してみると、吉本さんの本はすご いエネルギーがあるんですよ。なぜかというと、吉本は戦争中皇国少年だったから、戦争が終わったとき、自分はまちがったと思って膝をついたんだ。膝をついた者のエネルギーが吉本思想のエネルギーなんです。そのエネルギーでいくつもの体系をつくっていく。私 は吉本のようには膝をついていません。私は“一番病”のおやじから非常に早くに離れたから、ファシストにはならずに、戦争が負けたときにも膝をつかなかった。」

「私はI am wrong だから、もしそれらから「おまえが悪い」といわれても抵抗しない。この対立においては、結局決着はつかないんですよ。私がYou are wrongの立場に移行することはないし、You are wrongは私の説得には成功しないから。」
(鶴見俊輔『言い残しておくこと』(作品社、2009年の第二部「『まちがい主義』のベ平連」)

 

 厳密にいうと「I am wrong」 も「You are wrong」も、どこまでもそうなる可能性のことで、言い切ることはできないが、「自分を見つめていくこと」と「他者に矢印を突きつける」あり方は、極端に違ったものになる。

「他者に聞きたくなる、確かめたくなる」と「他者に言いたくなる、正したくなる」

「いろいろと見直すきっかけになる」と「嫌な感情を持ち続ける」

「他者に支えられ、支えたくなる」と「他者を従わせる、あるいは無視をする」などの違いとなる。