日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎間違いを素直に認める。(73歳の誕生日に思う)

〇昨日73歳の誕生日を迎えた。何人かの人から声かけてもらってありがたいと思った。 最近病が進み、足つきがヨタヨタ、ろれつがヘロヘロで、 ますます身体のギクシャク度が増してきているが、今やれることに向き合うだけと思っている。

 見方をかえればよくこの歳まで生き・生かされて来たともいえる。

 

 それはそうと、大阪の吉村知事も17日が誕生日らしい。確率的に0.3%ほどで、誕生日といっても親からそう言われ信じているだけで、取り立てて感慨があるわけではない。しかし吉村氏については、それほど知っているわけではないが、その態度に好ましいものを感じ注目している。

 吉村氏自身の発言に対し、国の西村経済再生相から「強い違和感を感じています」の遺憾の表明があり、それへの謝罪のコメントは特に印象に残っている。

「西村大臣、仰るとおり、休業要請の解除は知事権限です。休業要請の解除基準を国に示して欲しいという思いも意図もありません。ただ、緊急事態宣言(基本的対処方針含む)が全ての土台なので、延長するなら出口戦略も示して頂きたかったという思いです。今後は発信を気をつけます。ご迷惑おかけしました。」

 

 世間では何かあると、それらしき役割の人がでてきて「責任を感じています」、「誠に遺憾に思っています」など頭をさげて表明しているが、何んとなく胡散臭さを感じることが多い。

 それに対して、吉村氏はその発言に責任を負っている真摯な態度を感じる。(※どこまでも印象にすぎません)誰しも間違い、あやまち、勘違いはあり、その対処の仕方にその人の人格が現れてくるわけで、間違い、あやまちを素直に認めるのは大事だと思っている。特に責任ある立場の人や政治家には欠かせないことだとも思っている。

 

〇「間違い」に関して、鶴見俊輔はたびたび取り上げていて、次の文章は印象に残っている。
〈マルクス主義というのは、You are wrong でしょ。あくまでも自分たちが正しいと思っているから、まちがいがエネルギーになるということがない。
 しかし、思想の力というのはそうではなくて、これはまちがっていたと思って、膝をつく。そこから始まるんだ。まちがいの前で素直に膝をつく。それが自分のなかの生命となって、エネルギーになる。たとえば吉本隆明と私を比較してみると、吉本さんの本はすご いエネルギーがあるんですよ。なぜかというと、吉本は戦争中皇国少年だったから、戦争が終わったとき、自分はまちがったと思って膝をついたんだ。膝をついた者のエネルギーが吉本思想のエネルギーなんです。そのエネルギーでいくつもの体系をつくっていく。私 は吉本のようには膝をついていません。私は“一番病”のおやじから非常に早くに離れたから、ファシストにはならずに、戦争が負けたときにも膝をつかなかった。」
「私はI am wrong だから、もしそれらから「おまえが悪い」といわれても抵抗しない。この対立においては、結局決着はつかないんですよ。私がYou are wrongの立場に移行することはないし、You are wrongは私の説得には成功しないから。」
(鶴見俊輔『言い残しておくこと』作品社、2009年より)

 

 厳密にいうと「I am wrong」 も「You are wrong」も、どこまでもそうなる可能性のことで、言い切ることはできないが、「自分を振り返り見つめていくこと」と「自分を顧みることをせずに、他者に矢印を突きつける」あり方は、極端に違ったものになる。
 

 マルクス主義に限らず、なになに主義や独自の理想を掲げた集団というのは、そうなりやすい面がある。

 

 人間の究極の問題として、自分がまちがっているという可能性は、科学的に考えて排除することはできないと考えている。

 どんな人でも間違いや過ちはあり、人間のできることは、間違いや過ちを謙虚に認め、そこから冷静に分析し学び、少しずつ方向を改めてゆきながら、むしろ間違いや過ちから学ぶことで、生き方がより豊かに、深くなっていくのではないだろうか。