日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「責任」とはなんだろう。(認知症事故賠償訴訟に触れて)

〇「認知症事故賠償訴訟」の判決について

 平成19年、愛知県大府市のJR共和駅の構内で、認知症の91歳の男性が電車にはねられ死亡した事故で、JR東海は振替輸送にかかった費用などの賠償を求める裁判を起こし、1審と2審はいずれも家族に監督義務があるとして賠償を命じていた。3月1日の上告審判決で、最高裁第三小法廷(岡部喜代子裁判長)は、「介護する家族に賠償責任があるかは生活状況などを総合的に考慮して決めるべきだ」とし、今回のケースでは監督義務はなかったとの初めての判断で、家族の賠償責任を認めない判決を言い渡した。(「共同通信」など参照)

※「認知症事故賠償訴訟 JRが敗訴」(2016/3/1 NHK NEWSweb-ニュース詳細) で、様々な角度からの見方が丁寧にまとめられている。

 

 福祉活動のなかで認知症の人に関わったり、援助事例を同業者と一緒に検討したり、軽度ではあったが要介護の認知症であった義母を見ていくなかで、よく話題になるのは徘徊のことである。

私が関わっていた範囲では、同業者たちは身体的な拘束をほとんどせずに、それぞれが自由に動けるようにとの配慮に心をおいていた。それに関わっている家族のことは、細かいところまで分からないが、大変な困難を抱えながら暮らしている人が多かったと思う。

 時々、悪質な事業者や同業者のことが発覚して話題になるときもあり、何んともいたたまれない思いが湧いてくる。なかには、おざなり、無視、酷いことをしている人もいるだろうが、支援に心血を注いでいる人、家族も少なからずいる。その人たちの意欲を殺ぐようなことは極力したくないと思っている。

 それなので、今度の判決には一応納得している。だが、「介護する家族に賠償責任があるかは生活状況などを総合的に考慮して決めるべきだ」というのはもっともらしいが、解釈の仕方では、「家族の中で高齢者と密接に関わる人ほど責任を負うリスクが高まり、病院や介護施設なども責任を負うリスクが出てくる」おそれがあり、この「責任を負う」ということに、しっくりいかないものを感じている。

 法制度で、刑法でも民法でも当事者の責任能力を巡って判断がなされることがある。さらに民法では、責任無能力者の監督義務者等が原則として責任を負うことになっている。これが、徘徊の恐れがある人を見ている家族や介護施設などでの、大きな圧迫となっている。

 

英語の「責任」リスポンシビリティ(responsibility)は直訳すれば、リスポンドできるということ、つまり他者からの求め、訴えに応じる用意があるということで、欧米の人たちは伝統的に、人としての「責任」を、他者からの呼びかけ、うながしに応えるという視点からとらえてきた。 

 日本語の「責任」という言葉には、国家の一員として、家族の一員として、というように組織を構成する「一員」として果たさねばならないイメージがつきまとう。それは匿名の役柄につきまとう責任であって、この私が、いまだれかから呼びかけられているという含みはない。(鷲田清一『語りきれないこと』など参照)

 私にとって「責任」とは、顔の見えない匿名の第三者から促されるものではなく、だれかから呼びかけられていると感じたことに、自分のこととして応えていくことと思っている。つまり、日本語にまつわる「責任」というようなものではなく、どこまでも一人ひとりが、感じ応えていくものだと考える。

 

 9年前に九〇歳を超えて、二人だけの暮らしが困難になった妻の両親と暮らすようになったのも、だれ一人として「責任」などと問う人がいない中で、いろいろな状況を鑑みての私たちが選んだ判断だった。

 今回の判決について、「日本認知症ワーキンググループ」の藤田和子共同代表は、「今回の判決を機会に、家族だけに介護の責任を負わさず、認知症であっても安心して外出できる地域にすべての自治体がなるよう、具体的な取り組みを進めることを切望しています」として、認知症に対する理解や社会的な支援を求めている。

 法制度の課題もあるが、家族で衰えた人を見ていくのは、そのような体制や余力がある人にとっては大事にしたいことではあるが、認知症の徘徊がまつわるようなケースでは、家族だけで見ていくのは無理であり、地域社会の協力が必要となる。

 現状では、家族もろとも困難抱えているケースも少なからずある。とにかく家族は自分たちだけで抱えないで、地域の関係者、福祉関連の人たちへの働きかけをしていくことは欠かせないと思っている。しかし、どこに相談したらよいのか迷っている家族にも出会う。

 そのような意味でも、参考として「認知症事故賠償訴訟 JRが敗訴」などに触れていくことを願っている。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160301/k10010427311000.html

 

【参照資料】

※「認知症事故賠償訴訟 JRが敗訴」から抜粋。

・専門家「新たな法制度含め考えていく必要」

 最高裁判所の判決について、損害賠償の問題に詳しい東京大学大学院の米村滋人准教授は、「認知症の人の家族に負担をかけるような判断をすべきではないという1審や2審への批判を重く受け止めた判決だと思う」と話しています。また「最高裁は、家族だけでなく、社会全体で責任を負う方向で問題を解決しようと、『認知症の高齢者と密接に関わりを持ち、監督できる立場にある人が責任を負う』という枠組みを示したのではないか」という見方を示しました。

 一方で、「きょうの判決によると家族の中で高齢者と密接に関わる人ほど責任を負うリスクが高まり、病院や介護施設なども責任を負うリスクが出てくる」と指摘しています。そのうえで米村准教授は、「今回の判決ですべての問題が解決するとはいえない。少子高齢化の時代に、認知症の人が関わる事件や事故の負担を社会全体でどのように負っていくべきなのかしっかりと議論して、新たな法制度を作ることも含めて考えていく必要がある」と提言しています。

 

・認知症の当事者で作る団体「認知症への理解を」

 今回の判決について、認知症の当事者、およそ30人で作る「日本認知症ワーキンググループ」の藤田和子共同代表は、「認知症だと外出は危険だという一律の考え方や過剰な監視・制止は、私たちが生きる力や意欲を著しく蝕み、これから老後を迎える多くの人たちも生きにくい社会になることを懸念しています」と話しています。そのうえで、「今回の判決を機会に、家族だけに介護の責任を負わさず、認知症であっても安心して外出できる地域にすべての自治体がなるよう、具体的な取り組みを進めることを切望しています」として、認知症に対する理解や社会的な支援を求めています。

 

・介護する家族は

認知症の高齢者と離れて暮らし介護にあたる家族からは、責任を問われる可能性があるならば安心して介護をすることができないといった声が聞かれました。

 大阪・松原市に住む会社員、山口省三さんは(67)月に3回程度、東京で1人暮らしをしている母親の貴美子さん(95)の元に通って介護を続けています。おととし認知症と診断された貴美子さんは、週3回訪問看護のサービスを利用していますが、夜間は1人になるため山口さんは緊急の連絡に備え携帯電話を常にそばに置いているといいます。先週、2週間ぶりに母親の元を訪れた山口さんは、数日分の食料を買って冷蔵庫に入れ母親の様子を確認しました。山口さんが最も心配しているのが、一緒にいない間に母親が火事や事故を起こさないかということです。おととし、母親が台所のガスコンロをつけっぱなしにして鍋を焦がしてしまったのをきっかけに電気で調理をするIHの機器に替えました。はいかいに備えて、母親がいつも持ち歩くかばんに住所や名前が分かるキーホルダーをつけています。

 山口さんは、「自分のように仕事などの都合で離れて暮らさざるをえない家族は今後増えると思う。24時間見守ることができない家族の介護には限界があることを理解してほしい」と話しています。そのうえで、今回の判決が家族に監督の義務があるかどうかは生活の状況などを総合的に考慮すべきだとしていることについて、「家族の責任が問われる可能性があるなら安心して介護を続けられない」と話していました。