日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎沈黙の灰の中から呼び起こし(遠藤周作『沈黙』を読む)

※マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙』を観る機会があり、その後遠藤周作の小説『沈黙』を読んだ。

 

〇小説『沈黙』

 寛永14(1637)年の島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい中、隠れキリシタンが僅かに残る江戸期日本に、二人のポルトガル宣教師(パードレ)が潜行してくる。そのうちの一人、セバスチァン・ロドリゴが物語の主人公である。

 二人が日本に密航するきっかけは、二人の師でかねがね尊敬おくあたわざるフェレイラ師が、日本で棄教したという情報が伝わったからであった。

 

 二人は旅の途上のマカオで出会ったキチジローという日本人を案内役に、長崎にたどり着き、隠れキリシタンが潜むいくつかの集落で、洗礼を授け、告悔を聞き、ミサを行うが、やがて当局の知るところとなり、二人は別々に逃亡するが追跡の果てに逮捕される。彼らの逮捕は、キチジローが絡んでいた。

 

 陰の主人公と思えるキチジローは、たびたび登場し、裏切ったり幾度も踏絵を踏んだりして、自分の弱さを泣き叫ぶ。かたわらその都度、ロドリゴに告悔を求めて付きまとう奇妙な隠れキリシタンであろうとする。この描き方に物足りなさも少し覚えたが、物語の進行に面白さと深さを添えている。

 

 たくさんの隠れキリシタン・農民も逮捕されるが、彼らは次々と残酷な方法で処刑される。柱に括りつけられたまま海水に付けられ、潮の干満によって徐々に体力を奪われていく処刑、流れの速い海流に放り込まれて殺す処刑、深い穴に宙吊りのまま放置されて苦しみながら死ぬ処刑など。

 

 当時、踏絵を踏むくらいなら、死ぬほうがましという一途な信者が多かった。そのまま首をはねても、あっけないし、信者のいさぎよさばかりが強調されるとまずいということで、穴ずりという拷問にかけることなど、踏絵も始まる。糞尿の上に逆さ吊りをして、踏むと宣言しないと、顔を糞尿の中に入れたり、上げたりを繰り返す。

 

 ロドリゴはそのつど「いま一番神の奇跡が必要な時に、神はなぜ沈黙のままなのか」と問う。これは神の実在に対する根本的な問いである。小説の中でこの問いが、繰り返し繰り返し出てくる。「あなたはこんな時になぜ沈黙しているのですか?」と。

 

 そして棄教し、今は日本名・沢野忠庵になり、天文学などの翻案などでこの江戸期日本で有用とされていたフェレイラ師に出会い次のように言われる。

 

〈「この国は考えていたよりも、もっと怖ろしい沼地だ。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

「この国の者たちがあの頃信じたものはわれわれの神ではない。彼らの神々だった。それを私たちは長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた。」〉

 

 フェレイラの言葉は一語一語、ロドリゴ司祭の耳を棘のように刺す。

 

 その後、ロドリゴが踏絵を踏まないと、穴吊という拷問にかけられた農民たちを救えないという曲面で、フェレイラはロドリゴに対し次のように言う。

 

〈「お前は彼等よりも自分が大事なのだろう。少なくても自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが恐ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが恐ろしいからだ。」そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱くなって、「わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜わしだって今のお前と同じだった。だがそれが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよという。もし基督がここにいられたら」〉

 

〈「教会の聖職者たちはお前を裁くだろう。わしを裁いたようにお前は彼らから追われるだろう。だが教会よりも、布教よりも、もっと大きな。ものがある。お前が今やろうとするのは------」〉

 

 フェレイラと出会ったときや踏絵を前にしての二人の会話は、キリスト教、宗教史について無知な私にもさまざまなことを考えさせられる、迫力のある描写が続く。

 

 結局ロドリゴは踏絵を踏むことになる。

〈司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。〉

 こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

 

 その後、ロドリゴは日本に帰化し、名前も岡田三右衛門へと変えて、日本で一生を終えることになる。

 

 物語の最後に、ロドリゴは、次のように語って神への理解をより深めようとする。

〈今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。〉

            ☆

 

 併せて詠んだ遠藤周作『人生の踏絵』に小説『沈黙』のことも語っている。

 それを読んだ後に、『沈黙』を再読すると、いろいろな場面が、より立体的に深まって見えるような気がした。

 

 遠藤が長崎で踏み絵を見た時、そこには脂足で踏まれ磨滅したイエスの顔と、その横にべったり残った黒い足指の跡。そこから三つのことを考えた。

「あの足跡を残した人はどんな人だったのか?」「踏絵を踏んだ時、どういう気持ちだったのだろうか?」「私がその立場に立たされたら、踏むのか?」

 それが「沈黙」執筆のきっかけとなる。

 

 そして、『沈黙』は、〈迫害であっても信念を決して捨てない〉という強虫の視点ではなくて、私のように弱虫の視点で書こうと決める。「弱虫が強虫と同じように、人生を生きる意味があるのなら、それはどういうことか------。」これが主題の一つとなる。

 

 遠藤は言う。殉教した立派な人のことは日本のキリシタン史に書かれているのだが、踏絵を踏んで転んでしまった人のことはほんのわずかしか残っていない。どうしてないのか。

 

〈彼らは汚点だと思われて軽蔑され、見捨てられた人間だからです。まだフェレイラやキアラ(※小説ではロドリゴ)はかろうじてある。あのベタッとした脂足の跡を踏絵に残した人たちは、もう死んでから何百年も経ちましたけれども、彼らには何もないのです。彼らは本当に声が無かったのか、歴史が沈黙し、教会が沈黙し、日本も沈黙している彼らに、もう一度生命を与え、彼らの嘆きに声を与え、彼らに言いたかったことを少しでも言わせ、もう一度彼らを歩かせながら彼らの悲しみを考えていくというのは、政治家でも歴史家でもなく、これはやはり小説家の仕事ですよ。〉

 

〈彼らを沈黙の灰の中から呼び起こし、沈黙の灰をかき集め、彼らの声を聴きたい。そういう意味で『沈黙』という題をつけた。併せて、そういう迫害時代に多くの嘆きがあり、多くの血が流されたにもかかわらず、なぜ神は黙っていたのかという「神の沈黙」とも重ねた。〉

              ☆

 

「いくつかの問い」

・島原の乱など、江戸期日本の独自の解釈とはいえ、これほど多くの隠れキリシタンを産み出した時代背景はどのようなものなのか、それの伝統がどのように受け継がれたのか?

・キリスト教が世界的に広がったのは、人類にとってどのような意味合いがあるのだろう。

・キリスト教や宗教史に無知であることを抑えて、なおかつ、理想を高く掲げ信じて、問い直しをしない人のかたくなさ、融通のなさ、不可思議さを思う。

・人生において、異質な人たちと共に生きていくのが肝要だと思うが、キチジローのような人をどのように受け入れるのか、今の私には心もとない気がするのだが。

・優れた小説は大きな問いかけを孕んでいて、それをどれだけ自分の問いに引き付けるのかが大事ではないのか?