日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎自我意識にたてこもらない他者体験 

〇異質な他者と

 25日のブログで、「エマニュエル・レヴィナスは,自我意識にたてこもらない他者体験を,『他者の顔』と表現した。そして,「顔を前にして応答する」ことは「顔に対して責任を負う」ことであるとして,リスポンシビリティ(応答可能性=責任)の両義性に注意を喚起する。」と、松浦寛の記事からとりあげた。
この中の、「自我意識にたてこもらない他者体験」が大きな要のような気がした。同時に、どのようなことなのだろうかと、気になり始めている。

 自我意識とは、自分の思考や行動は、いついかなる時も、自分が主体的に行っていると意識だとみている。そこにたてこもらない他者体験とは、私の思考や感情にたてこもらない、自分の認識の範疇にとりこもうとせず、まっすぐそのまま他者に向き合うことではないかと思った。

 駅のプラットフォームから線路に落ちた人を助けた、川に落ちた子どもを高校生が救ったなどと話題になることがある。このような局面でなくても、日常的に、あっと思って手を差し伸べるような体験は誰にでもあるのではないだろうか。

 そのような体験を普段の暮しの中から思い浮かべると、出産から乳児段階での子に対する母親の在り様を思う。分かるとか分からないとかの判断なしに、その子の顔(気配)から反応していることが多いのではないだろうか。その過程で、その子の成長に欠かすことができない人に対する信頼感が培われていくとともに、母親も成長していく。

 

 私のいくつかの体験に照らしてみると、極度の精神疾患をはじめ困難な状態に直面している人の援助では、そのことの連続となるときもある。どこまでもとらえきれない私が、それでもひたすら相手に向き合うことから始まる。少なくとも、自分の思いにたてこもることでは、ケアとはなり難い。

 このようなことに限らず、そもそも他者とは、私のとらえきれない、全く異質なものだという観点が、どのようなときでも発揮されているのか、自分の身についているのだろうか。逆に他者との出会いで、自我意識にたてこもることも多いのではないかとも思う

 日々おこってくることに対して、ほとんど習慣化した捉え方で感じ、考えている。そして、他者との関わりで、そこにギクシャクしたものを覚えるときに、やり過ごすか、なんとか私の理解の範疇に収めようと、私の作りあげた意味連関の網の目の中へ秩序づけようとする。本来的に異質な他者を自分のうちに取り込もうとする。認識したものを所有し道具化する、物のように。

 このことをじっくり見ていきたいと思っている。

 

 さしあたりここでは人を物化(道具としてみる)する例を考えてみる。戦争は、他者を物化することで成り立つ。器物以上にもっとも恐怖をかき立てられるものとして。無差別殺人もそのようなケースが多い。特定のだれかではなく。誰でもいい物化したヒトである。

 日常的になっている、自社の製品を売りこもうとするコマーシャル、宣伝。自分たちの思想を広げようと拡大に熱意をふるう人にも、同じようなことを感じるときもある。

 どんなに優れた製品と思っていても、どんなに高邁な思想だと感じていても、最終的に関心を抱いてくれればよいので、相手は誰でもいいのである。せいぜい、どうしたら相手に伝わるのかを考えあぐねようが、どこまでも一方通行ものであり、ヒトを物化したものとしてみていることが多い。

 ただ留意したいことは、なんとか他者に、知ってほしい、伝えたいというところからの発信がある。自分の知っていることは些細なもので、そのような情報から数々の恩恵を寄与されている。

 その違いは何だろうか。伝える基盤をどこに置いているのか。応答の関係になっているのか。少なくとも、共に考えようとしている、自分でも発信しながら問いを重ねている姿勢にあるのかもしれない。

 

【参照資料】

※岩田靖男が中高生に向けて書いた『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書)からとりあげる。

「認識するとは、あるものを一定の普遍概念によって把握することであり、言い換えれば、型にはめることである。理性としての私が認識という態度で世界とかかわるとき、私はあらゆるものを普通概念によって整理統合し、私の張り詰めぐらせた意味連関の網の目の中へ秩序づける。それによって、私はすべての存在者を自我のうちに取り込むのである。この取り込みにより、私は認識されたものを道具化する。認識された事物がたとえ何億光年かなたの星雲であったとしても、認識された以上それは私の理性のうちに取りこまれたのであり、したがって、なんらかのしかたで私に利用され、私の道具となる可能性のうちにおかれた、と言ってよい。

 ヨーロッパの哲学はギリシャの初端以来根本的に無神論であった、とレヴィナスは言うが、それは、ヨーロッパの哲学が基本的に理性に真理の基準をおく哲学であったからである。理性は認識しえないものを、すなわち、根本的に自己とは異質なものを認めない。理性とは同化の力であり、全体化の力であり、それによって自己を貫徹する力であるからである。

 だが、この全体化の態度は、じつは、貫徹できないのだ。それは、他者に直面するからである。他者に直面したとき、私は冷水を浴びせかけられ、無言の否定に出会い、自己満足の安らぎから引きずり出される。私の世界が完結しえないことを思い知らされるのである。もちろん、自分の思いどおりにならない他者をさまざまな暴力によって排除し抹殺することはできる。しかし、そのような殺人は全体化を完成したのではなく、むしろ、全体化が不可能であったことを証しているのである」  (岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』岩波ジュニア新書、2003より)