日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎現在の自分と向き合う

〇適度に不安定な自分で
 以前のブログで自閉症やアスペルガー症候群といわれている人の対人関係の取りづらさについて取り上げた。関係の取りづらさについては、対人関係だけでなく、自分と自分自身についての関係の取り方も大きな課題となる。

 当たり前だが一人ひとりには様々な面がある。私をみても、善良な面、ぶざまな面、やさしい面、冷徹な面もある。全て私の要素であり、性格である。

 また、時と場合と気分と相手によって、無意識的に、その中のどれかの要素が混ざり合って現れてくると思っている。「居心地のいい自分」も「居心地の悪い自分」も両方「自分」であり、後になって、あれはどうだったのかと思ったりすることもある。

 もちろん、年齢を重ねることや自分の心身の状態、あるいは周りとの関係によっても多かれ少なかれ変わっていく。

 また、老齢化に伴い、意志力と身体の運動性との乖離が大きくなり、逆に想像力、空想力、妄想、思い入れなどは一層活発になる人も多い。

 そして、そのような多面的な自分を知り、自覚して。居心地よいところは伸ばし、居心地悪いところはほどほどに付き合い、困ったり、悩んだり、不安になったりするようなときこそ、自分との折り合いを上手につけて、心地よく生きていけるような力をつけていく。

 

「人間の自我の安定というのは「適度に不安定であること」によって担保されている。『オレはすみからすみまでオレらしい』というような堅牢な人格統合のされ方はたいへん脆弱である。人間の自我というのは欲動のマグマの上に浮いた『浮島』のようなものであるから、多孔的な柔構造をもっていて、急激なショックや異物の混入があっても、なんとなく『ゆらゆら』しているのが機能的にははるかに健全なのである。」(内田樹の研究室2007)、に全面的に納得である。

 

 50歳を過ぎてから介護など福祉関連の活動を始めてから、様々な高齢者に接してきて、自分と自らの心身状態との折り合いを付ける(受容、和解)ことの大事さを感じていた。

 私も60歳代になって、あちこち身体的な衰えを感ずるようになり、なんとなく落ち着かない気分の増えてきたこともあり、そのことをより一層感じるようになった。

 ここに来て脊髄小脳変性症になって、ますます歯がゆさを覚える。

 

 介護関係で高齢者に接してきて、また、父母や義父母を見てきて、「この程度ならまだやれるはずだと思い込んでいる自分、あるいはそう思いたい自分」と「やれることが減っている現実の自分」にはギャップが出てくる。心身がある程度健康な時は適当な折り合いをつけながら暮らしていくのだが、老齢化により身体が弱ってくると、頭や想像力で考え感じていることと、実際の行為・行動の距離が益々大きくなり、その間の調整がつきにくくなる。

 他のだれかに言われるまでもなく、自分自身によって自己評価が下がることが、もっともつらく、受け容れ難いのだろう。
このことは高齢者に限らないが、特に高齢期は身体的な衰微が目に見えるように進むので、それに伴って精神的な不安感がさし迫ってくるようだ。

 しかし、老齢化よって身体が衰えていくというのは自分で作り上げた一番良い状態の基準から見た思い込みであり、「身体」は生まれてから何れのときでも、刻々と変わりながら、自分の状態とまわりの状況との平衡状態を保とうとする働きをしている。

 過去の自分というのは、現在の自分から見たら「他者」のようなものと思う。生きるとは変化するということであり、まさにそれが生命活動なのだろう。

 まさにそのように考えるが、それでも心の隅に不安の塊を感じるのも事実だ。