日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎書評:養老 孟司『無思想の発見』(ちくま新書、2005)。

〇本書は、日本人は無宗教・無思想・無哲学だと言われているが、さて無思想とは、どのような事態か。

 

 もしかするとそれは、「ゼロ」のようなものではないのか。つまりゼロとは、「なにもない」状態をあらわしつつ、同時に数字の起点でもある。ならば、「思想がない」というのも、ひとつの「思想」のあり方ではないか。

 日本の風土が生んだ「無思想という思想」を手がかりに、養老 孟司が現代を取り巻く諸問題を読み解く。

 

 日本では思想とは現実に影響を及ぼさないものである。現実とは世間のことである。その世間もまたある種の思想である。双方とも人が見聞きし、考えたものである。つまり脳の中での解釈のことだからである。これらは相互に補完的である。

 

 また、本来の意味における思想は日本にはないことを、丸山真男、山本七平、加藤典洋、らを引用して言う。別の言い方をすると、思想がないという思想、と表現する。それらを明治維新以降、あるいは第二次大戦の敗北以降の日本の変わり身の早さを例としてあげている。

 この『思想なんかないという思想』、そんな「無思想」という日本の思想を評価しなおしている本とでもいえる。

 

 それと関連して、仏教でいうところの「色即是空」の「空」は、数はないが数字の一つと同じような意味と考えれば、それとゼロを表すす「無」によって、仏教は全ての世界を説明しているのではないかとの考察もある。

 

 養老氏の脳科学の視点からの考察が改めて面白かった。いくつか見ていく。

・自分というものの二重性:「意識」としての自分と「身体」としての自分。

「わたし」は確固と存在しているわけではない。「自分という主体」があると考えだしたのは、ここ数百年の「西欧近代的自我」に過ぎないのではないか。

 

・「意識」の特徴は「同じ」という「強い機能=はたらき」である。

寝て目が覚める。すると、「同じ自分」に戻ると「意識」する働きがある。毎日目を覚ますたびに、「わたしは一体誰なんだろうか?」とは思わない。常に、「同じ自分」に戻る。

 

・「感覚」の世界は「違い」によって作られ、「概念」の世界は「同じ」によって作られる。そこを結びつけているのが「言葉」である。

 わたしが「ネコ(猫)」と言うとする。貴方も、「概念」として「同じ」ネコを想像する。しかし、目の前にあって触れる「感覚」の世界としての「ネコ」は全て「違う」。

 そんな「同じ」と「違う」を結びつけるものが、「ネコ」という「言葉」であるという。

 

・意識(秩序)と無意識(無秩序)は補完関係にある。

意識とは秩序活動である。意識と無意識は相互に補完関係にあり、秩序と無秩序は相互に補完関係にある。

 

・科学とは、「違い」を表す「感覚」世界を基礎として、「同じ」世界を見なおす作業に過ぎない。

 わたしらは意識中心にものごとを発想しているが、実はわたしらが寝ているとき、起きているときと同じ程度のエネルギーを脳は消費しているらしい。

 

 また、仏教でいうところの「色即是空」の「空」は、数はないが数字の一つと同じような意味と考えれば、それとゼロを表す「無」によって、仏教は全ての世界を説明しているのではないかとの考察もある。

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〇思想について

 精選版 日本国語大辞典」によると【思想】とは次のようになっている。

  • 心に思い浮かべること。思いをめぐらすこと。また、その考え。
  • 哲学:(イ) 思考されている内容。広義には意識内容の総称。(ロ) 統一された判断体系。
  • 社会、人生などに対する一定の見解。

 体系的に考え抜かれたもので、その思想が行為行動にかなり影響されている意味での〔思想〕(※便宜的に括弧つきの思想とする)は日本ではあまり育たなかったといえるかもしれないが、養老氏のいうように、思想のない社会はないし、まったく思想のない人もいないだろう。

 

「無思想人宣言」をした大宅壮一も、〔思想〕は大虚構であるとした司馬遼太郎も彼らなりの考え方の枠組みもしくは癖はあり、かなり多くの人に共感された。

 

 日本人一般についても、その人の言動を左右している考え方はあり、それを養老氏は「世間」という。

 また、この思想以外は認めようとしない原理主義的な思想体系は根付かなかった。

 ただ、時に応じてコロコロ変わる一貫性のなさは問題だが、これをさまざまな角度から深めようとしたのが、本書『無思想の発見』だと思う。

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 参照:第7章「ゼロの発見」より

 ※第7章「ゼロの発見」に本書の要点がある程度語られていることと、脳科学者の養老孟司の見解がよく現われていると思い、一部抜粋して引用する。

 

ゼロに等しい

  数学でゼロを発見したのは、インド人だと習った。それは大変な発見だった。おかげで、数の世界は大きく広がり、計算はずいぶん単純になった。ローマ数字や漢数字しかなかったら、いかに不便か、だれでもわかると思う。

「思想なんてものはない」。これは思想におけるゼロの発見である。ゼロは二つの意味がある。一つは数字としてのゼロである。マイナス1.ゼロ、プラス1、プラス2と数字を並べていくとき、ゼロは「数字の中の一つの数字」に過ぎない。他方ゼロと言う数を一つだけ取り出して、その意味を考えて見るなら、それは「とりあえず、そこに数がない」ことも意味している。

「思想なんてものはない」つまり「無思想という思想」はその意味でこのゼロに等しい。これ自体が一つの思想であるとともに、「とりあえずそこには思想はない」とうことを同時に示しているからである。

 これが矛盾でも何でもないことが、数字のゼロが証明している。それはむしろ数字をはるかに豊かにした。日本の無思想も無宗教も無哲学も、決してニヒリズムではない。数字のゼロだと思えばいい。

 そこから思想の大きな可能性が開けるはずである。

 とりあえず、思想がないと、それを補完するものとしての現実が発生する。それが世間」という現実である。ここで「ハテ、話がわからん」と思った人は、思想か現実か、どちらかに依存しないと生きられないという前提を忘れているだけである。すでに述べた「世間=思想」という定義でいうなら、その区別の必要すらない。

 

現実とは何か

「現実とは、その人の出力=行動に影響を与えるもの」

と定義したことがある。その意味では、百円玉も、オウム真理教の教義も現実である。ただしこの定義では、現実は「人によって異なる」ことになる。それが「唯一客観的な現実のみがある」ことを信じる現代人に通用しにくいことは、はじめから分かっている。思想も世間も、それがその人の行動に影響する以上は、その人にとっては現実だ、と私は規定する。

 そこでは世間に対立すると見なされている両者の間に、じつは違いがない。思想と現実を同じように脳の機能とみなし、

「だから同じだろ」

と言う考えを認めない考え方のほうが、おそらく世界中で、きわめて、一般的であろう。それは単に脳の存在をいまだに認めたくないということに尽きる。

 

思想は隠せない

 あちこちですでに述べたことだが、もう一度、脳の働きを要約しよう。

 脳には感覚から入力があって、運動や行動が出力する。その間に位置する情報処理装置が脳である。この処理装置の中で、意識という妙なものが発生する。なぜそんなものが生じるのか、物理学からでは説明されていない。しかし、ともかく発生していることは事実だから、それは認めるしかない。

 脳は情報に重みをつける。重みをゼロにすれば、それはその脳に生じる意識にとって「現実ではない」、その重みがゼロでなければ、多かれ少なかれ、入力は出力に影響するはずである。

 出力は行動だから、これは外部的に観察できる。ゆえにその人にとっての現実は、多くの場合、観察可能である。つまり客観性を持つ。たいていの場合には「やることを見てりゃ、なにを考えているかわかる」のである。

 脳が何故意識を持ち、その結果として思想を持つか。物理的には分からない。しかし、上記のような図式(図式省略)で説明することはできる。入出力のあいだに挟まった脳と言う情報処理装置は、やがて、自分の内部に入出力を「回し」始めるのである。それが「考える」という作業である。

 脳は複数の、ある程度「独立した」部分に分けられる。その間で、外部との入出力と直接には無関係に、情報のやりとりが生じると思えばいい。

 思想が「表現に顕されなければならない」というのは、思想が五感では捉えられないからである。言葉にするか、行動にするか、芸術作品にするか、表情か何であれ、ともかく筋肉の動きとして外に出さなければ、他人はそれを把握できない。

 人間は思想を隠し通すことができるかは、難しい問題である。

 私はじつは、それはできないと言う意見である。思想は所詮外に顕れてしまう。ただし、とりあえずそれを「ごまかす」のは、日常生活では普通である。それに長けた人を政治家という。どうごまかすかというと、まず自分の意識そのものをごまかす

 自分をごまかしっぱなしで、一生が過ぎてしまう人も多いはずである。それを幸福な人という。

 ここでもう一つ、解説しておかなければならないことがある。それは入力つまり感覚世界と、内部的な意識と関係である。五感で捉える世界を概念世界と呼ぶことにする。それとは別に、意識と出力つまり、行動との関係があるが、これはいまの話の筋からは、説明の必要はない。

 

感覚世界と概念世界

 感覚世界、つまり物体の世界を一つの楕円で示し、概念の世界を、その上に位置する。もう一つの楕円で示す。両者の重なりが「言葉」である。

 言葉という道具は、この二つの世界を結ぶ。感覚の世界は「違い」によって、特徴づけられる。概念の世界は、他方、「同じ」と言う働きで特徴づけられている。説明はこれで終わりだが、いくらなんでも簡単すぎるかも知れない。ここで大切なことは、言葉自体は「同じであって、違うものだ」ということである。だから言葉は「違う」という感覚世界と「同じ」という概念世界を結び付けることができる。

 私の声とあなたの声は違う。ゆえに私がネコといい、あなたがネコというとき、それは「違う音である」にもかかわらず、言葉の上では、それは「同じネコ」という言葉」として、把握される。

 文字についても、まったく事情は等しい。何度文字を書いても「全く同じ字」なんか、書くことはできない。「英語の正しい発音」なんてしている人達に、この話を理解してもらうのは、意外に難しい。英語の発音の「正しさ」は、発音する側にあるのではない。「聞く側」にある。聞く側が「あいつはネコといっているのだ」と了解すれば、、それで終わりである。それをイヌだと聞いたんでは、まさに「話にならない」のである。

 概念の世界は「なぜ同じ」なのか。

「脳の中ではすべては神経細胞の興奮つまり、電気信号だから」と答えるしかない。それに対して「感覚器だって、電気信号を使うという意味では、同じじゃないか。感覚世界だけに何故違いが生じるのか」

 という反論があり得る、とはいえ、耳で、光は捉えられなし、目で音は捉えられない。その「違い」を脳は区別している。そう述べるしかない。というより、脳にとって、そうした入力器官の違いこそが、もっとも基本な「違い」なのである。そもそも大脳、中脳、後脳という脳の大区分自体が、進化的には、嗅覚、視覚、平衡覚(後に聴覚が加わる)に関係している。そこから生じる「違いの」世界を、上記に感覚世界と呼んだ。

 概念世界にも「違い」はある。「白馬は馬にあらず」という古代中国の議論はそれである。ここでは「白馬」と「馬」という概念の違いが問題になっている。しかしこの「違い」は「どちらも要するに馬だろう」と片付けることができる。両者の違いについては、「白い」以外の性質を考慮に入れる必要はない。ところが「あの馬」と「この馬」の違いは、そうはいかない。この場合は違いも類似点も無限に列挙することが可能だからである。

 私なりの解答を与えるならば、この場合「馬」と「白馬」は概念世界に属し。「あの馬」「この馬」は、感覚世界に属する。それだけの事だろう。

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