日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎書評:100分de名著 パスカル『パンセ』

 

 この著書、番組は、読みたいと思っていて読んでいなかった名著と言われる本や作家を簡潔に紹介してくれ、著者もそれなりの人が選ばれているし 選ばれた著者もしっかり書いているものが多いので、原典に手が出しにくい今の自分にとってありがたい。

 この番組は見ていなかったが、100分de名著パスカル『パンセ』を読んだ。

 

 著者の鹿島茂氏は「考えること」こそがパンセの精髄だとしている。

 それも「考えること」の功罪を明確にした上で人間とは良い意味でも悪い意味でも考えざるを得ない動物であるとパスカルが考えていたと主張している。

 

 パスカルが生きた時代のヨーロッパでは、科学が著しく進歩し、キリスト教に基づく世界観に疑問の声があがり始めていた。そして人間の理性が、世界の真実を明らかにするという思想が急速に広まっていた。

 

 しかし世の中を冷静に見つめていたパスカルは、理性こそ万能だという考えには、危うさがあると確信するようになる。

 

「人間はおごってはならない」と考えたパスカルは、人間の弱さを明らかにするため、日々考えたことをメモに書きとめた。それをまとめたのが「パンセ=思索」で、そこには震災を経て、現代文明のもろさがあらわになった今こそ、改めてかみしめたい言葉があふれていると述べる。

 

 だが、具体的な日常の例題にてらして、パスカルを紹介する、鹿島の論の進め方はそれほど面白くなかった。

 

 むしろ、福岡伸一氏の巻末の寄稿「世界は常に更新されている。だから考え続けなければならない」は、デカルトとの対比で科学技術や現代文明の限界を述べていて、興味深く読んだ。

 

 福岡は専門としている分子生物学など、最先端科学の世界に身をおいているが、科学万能という考えに偏重する現在にこそ、『パンセ』に書かれた思想や世界観が再評価されるべきと述べている。

 

 そして、デカルトはすべての面においてパスカルと対照的な存在であったという。

 デカルトの「人間の理性は万能である」に対しパスカルは「限界がある」といい、世の中のことについて、デカルト「全てに原因と結果がある」、パスカルは「偶然によって左右される」といい、そして何かに迷ったとき、デカルト「あくまでデータ重視、パスカル「時には直観を信じる」という考え方をした。

 

 

 福岡はデカルト的思考の偏重する現代社会で次のように述べる。

「17世紀に、デカルトなどの思想が出てきた上に、私たちの近代社会、現代社会が成り立っている。私たちはデカルトの考え方を採用して、パスカルを捨てたんです。

 実際のところ、世界がものすごく複雑でよく分からない。しかし、その中には精密な因果関係があって、それを突き詰めれば世界が必ず理解できる、というのがデカルトの世界観です。でもパスカルは必ずしも合理的な因果律を突き詰めただけでは全部のことは分からない、と」

 

 デカルトの考え方はこの世界は全部因果関係で成り立っていて、メカニズムとして理解できる。それは私たち生命体でも、精密な機械のようなものだと見なすことができる。だから、因果関係を解き明かせば、すべてが分かり、制御ができると考えた。

 

 しかし、生命の謎は解明されていないで深まるばかりだ。

 そして、デカルトの機械論考え方には自然とか、生命に対する謙虚さが欠けているといい、次のように論を進める。

 

「例えば、私たちは受精卵から出発して、分裂し、あるものは脳の細胞に、あるものは心臓の細胞に、あるものは皮膚の細胞になり、というふうに分かれていって、人間ができる。そのプロセスは全部プログラム化されているという考え方がある。しかし一方では、その場その場で臨機応変に、細胞が相互作用、空気を読み合って発生的にできるとする方が本当の自然の見方でしょう。正しい見方が多々ある」

 

 

 福岡は「過去の自分はもはや同じ人間ではない」で次のように述べる。

  デカルトの『方法序説』の、コギト・エルゴ・スム、「我思う、ゆえに我あり」のアンチテーゼとしてパスカルの「時代は苦しみを癒し、争いを和らげる。なぜなら人は変わるからである。人はもはや同じ人ではない」(パンセ断章122)という。

 

 自然も社会も人間も偶然に左右されるから、変わり続ける。すべてを知ることはできない。未来のことも誰にも分からない。だからこそ、人間は驕ってはいけない。絶望の淵にあっても、希望を忘れてはならないという。

 

 福岡はこれまで科学の限界を痛感してきた。世界には複雑な要素があまりにも多く、全ての因果関係を突き止めることは不可能ともいえるからだ。「パスカルは“人間には分からないことがある”という事実を前に、人間のおごりをいましめた」という。

 

 福岡は「世界は完成することはない」で次のように述べる。

 現代社会の中心に据えられてきたデカルト的思考には限界があり、現代社会のさまざまな問題となって現れている。

 

 そしてパスカルのことばに触れて、何かを完成するのではなく、未完成であるという状態が考え続けるための唯一の契機になっているという。

 

 

▼パスカルのことば 『パンセ』より

《人間は一本の考える葦にすぎない。自然のなかで最も弱いもののひとつである。しかし、それは考える葦なのだ。人間を押しつぶすためには、全宇宙が武装する必要はない。蒸気や一滴の水さえ人間を殺すに足りる。しかし、たとえ宇宙が人間を押しつぶしたとしても、人間は宇宙よりも気高いといえる。なぜなら人間は自分が死ぬことを、宇宙の方が自分よりはるかに優位であることを知っているからだ。宇宙はこうしたことを何も知らない。だから、私たちの尊厳は、すべてこれ、考えることの中にある。私たちは考えるということから立ち上がらなければならないのだ。ゆえによく考えるよう努力しよう。ここに道徳の原理があるのだ。(断章347)》

 

※100分de名著 パスカル『パンセ』(NHK、2012年6月)。

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参照:100分de名著パスカル『パンセ』の番組プロデューサーN氏の「おもわく」より。

パスカル『パンセ』

 原発事故やユーロ危機など、今ほど人間の理性の限界が明らかになった時代はありません。そこで「100分 de 名著」6月シリーズでは、理性の落とし穴を鋭く指摘し、物事を謙虚に受けとめることの大切さを記した名著、パスカルの「パンセ」を取りあげます。

「パンセ」は、フランス語で「思想」を意味します。「人間は考える葦である」「クレオパトラの鼻が低かったら世界は変わっていただろう」など、様々な名言が散りばめられています。

 著者のブレーズ・パスカル(1623-1662)は、思想家であると同時に科学者でした。計算機の発明や大気圧の研究で知られ、気圧の単位・ヘクトパスカルにその名を残しています。「パンセ」は科学者の視点で、人間の心の特徴を分析した書と言えます。

 パスカルが生きた時代のヨーロッパでは、科学が著しく進歩し、キリスト教に基づく世界観に疑問の声があがり始めていました。そして人間の理性が、世界の真実を明らかにするという思想が急速に広まっていました。

 しかし世の中を冷静に見つめていたパスカルは、理性こそ万能だという考えには、危うさがあると確信するようになります。「人間はおごってはならない」と考えたパスカルは、人間の弱さを明らかにするため、日々考えたことをメモに書きとめました。それをまとめたのが「パンセ」です。そこには震災を経て、現代文明のもろさがあらわになった今こそ、改めてかみしめたい言葉があふれています。

 なぜ人間は同じ過ちを繰り返すのか—「パンセ」は、まるで科学の法則のように、合理的で冷徹な視点にたって、人間の心の特徴を明らかにしています。番組では、パンセを読みときながら、私たち人間の限界と可能性について考えます。》