日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎混沌とした心理の中に(遠藤周作『人生の踏絵』(新潮社、2017)を読む)

〇『人生の踏絵』は、『沈黙』の創作秘話をはじめ、海外小説から読み解く文学と宗教、愛と憐れみ、そして人生の機微と奥深さを縦横に語った講演録で、小説を書く作家の心構え、その作品を読むときの大事な視点など、考えさせられる内容が縦横無尽に語られている。

 

『キリシタン時代とか踏絵とか、自分たちにとってははるか遠い時代のように思っていたけれども、私たち一人ひとりにも「時代の踏絵」、「生活の踏絵」、「人生の踏絵」があったことがわかりました』との書き出しで、次のように述べる。

 

「人間の中には矛盾し合うようないろんな要素が存在しますね。そんな人間のある部分的なものにだけソロの楽器を鳴らすような、人間の一部分にだけ応ずるような宗教は本当の宗教ではないのではないか』(p40)、などとキリスト教関連の小説などに言及している。

 

 遠藤は、「ドフトエフスキーが『悪霊』を書いているとき、作中人物が作者の思惑と違う方へ勝手にどんどこどんどこ歩き回り始めたと、『作家の日記』か何かで読んだことがあり、それが本当の小説家がいい小説を書いているときの感覚でしょう」と述べている。

 村上春樹も何かで「主人公が勝手に動き出すのを待っている」というように語っていたと記憶しているが、この辺りも面白いと思った。

 

 また、イエス・キリストについては次のように言う。

「聖書には、イエス・キリストが魅力あるもの、美しいものを追いかけて行くところが一ページもないことです。イエスは汚いものとか、色あせたものにしか足をむけなかった。当時の社会で最も卑しめられていた娼婦やひどい病気に苦しんでいる人などと会ってはきちんと慰めてあげた。(中略)みんなの日常生活の苦しさや悲しさや煩わしさをイエスは背負って、自分の十字架にして、それを最後まで捨てなかったということに非常に感動する。」

 

 特に印象に残った箇所を見ていく。

〇混沌とした心理の中に

「現実のわれわれが何かの行動をする時、決してただ一つの心理だけで起こしはしませんよね。われわれの心には、いろんな心理が絡み合っていて、その結果、何らかの行動をしますよ。(中略)この原因はある種の木の根っこみたいに、いろんなものが絡み合い、一緒になっている。それをいちいち分析することは不可能ですよ」(p62)

 

 人間の内面は一筋縄では捉えられないものであり、二十世紀に入って、フロイトなどの精神分析やドフトエフスキーの小説の翻訳などもあり、ある心理のもとに動いていく人物を追っていく従来に見られた小説とは違って、少なからずの小説家は「Aという心理からⒶという行為をした」という書き方はできなくなり、主人公などの無意識、その奥のドロドロした部分にまで焦点をあてつつ物語を書いていく。

 

 ドフトエフスキーの小説で、男が人を殺した後、教会へ行って敬虔なお祈りをする。そうした矛盾した心理がそのまま投げ出されている。カミュ「異邦人」で、太陽の光が目に入った。汗が目の中に入った。引き金を引く。撃ったとは書いていない。外側の行為だけで書いている。それは行為の理由を単純な心理では描けないから。などと分析している。

 

「心理は分析できるでしょう。しかし、内面の暗夜の中へ入っていけばいくほど、つまり表面的な心理の奥へ降りていって無意識になると、もう分析ができない。さらに心理や無意識の向こうに、キリスト教でいう魂の世界というものがあるならば、これはさらに混沌として、われわれには分析不可能でしょう」(p73)

 

 上記のことを踏まえながら、モーリヤック『テレーズ・デスケルウ』、グレアム・グリーン『事件の核心』、アンドレ・ジッド『狭き門』などを分析していく。

         ☆

 

 よく、こういうことがあったからこうなったと、因果関係を短絡的に結び付けて見がちになるが、「ある体験をした」ことにともなって「実際にある異様な行為(殺人など)をした」の間には、本人も自覚していないような、無意識、さらにその奥のドロドロしたものがその人の来し方につきまっとっていて、ある行為に及ぶのではないでしょうか。

 

 小説作品に限らず、世間で話題になった事件や、さらに日常生活に起こってくる自分自身に起こることも、そのようなことが多いのではないでしょうか。

 

 どのようなことも、当事者本人が意図しない無意識、さらにその奥の魂の部分があり、また、時代状況や育った環境にも大いに影響を受けるだろうし、それも含めて、因果関係というか広々した時間意識でみることの大事さを思う。

 

 本書の最期に、遠藤はこれから書こうとしている小説に触れながら、次の言葉で締めくくる。

《ゆっくり考えて頂きたいことは四つあります。

 まず、道徳や常識からハミ出してしまうもの、社会から拒絶されてしまうものが人間の中にはある。それは捨てられないから、意識の下に抑え込み、隠してしまいもする。しかしそれはマイナスではなく、プラスのものを人間に与えてくれるのではないか。

 二つ目は、抑え込まれている自分、隠されている自分こそ、本当の自分ではないか。外面に出ている自分は、必ずしも本当の自分ではないのではないか。

 三つ目は、外側の道徳や社会的約束から見て、いくら汚くて、いくらよくないことでも、真に宗教的な倫理から言えば、別の考え方がありえるのではないか。

 先ほど名前を挙げた河合隼雄先生が、「神も仏も、道徳的に正しい人間ばかり相手にしていたら嫌になってくるだろう。歌舞伎町をうろうろしているような人間の方が興味を持たれるんじゃないか」と仰っていました。

 自分しか知らない自分、自分も気づかない自分こそ本当の自分ならば、そこに働きかけてくるのが宗教ではないか。道徳的に正しいことをする、世間から褒められることをする、というのも大事なことだけれども、神や仏にとっては、そんなことはどうでもいいのではないか。抑え込まれている自分、外面ではない自分、道徳や世間や社会から否定される自分こそが、神や仏が語りかけよう、助けよう、愛そう、抱きしめようとする対象ではないか。これが四つ目です』(p188)》

 

参照:カミュ『異邦人』(窪田啓作訳、新潮文庫、2014年)より。

《この激しい暑さが私の方へとのしかかり、私の歩みをはばんだ。顔のうえに大きな熱気を感ずるたびごとに、歯がみしたり、ズボンのポケットのなかで拳(こぶし)をにぎりしめたり、全力をつくして、太陽と、太陽があびせかける不透明な酔い心地とに、うち克とうと試みた。砂や白い貝殻やガラスの破片から、光の刃が閃(ひらめ)くごとに、あごがひきつった。私は長いこと歩いた。(p75)

 海は重苦しく、激しい息吹を運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾(ろう)する轟音とともに、すべてがはじまったのは、このときだった。(p77)