日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「自立主義的生活規範」と「自律」について。

〇「自律」は、自分の考え、行為を主体的に選択すること。それに対して、「自立」は他に依存しないで、自分の力で判断したり身を立てたりすること。

 

 ちなみに、広辞苑では次のようになっている。

【自立】:他の援助や支配を受けず、自分の力で判断したり身を立てたりすること。ひとりだち。「経済的に―する」

【自律】:①自分の行為を主体的に規制すること。外部からの支配や制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること。

 

「自立」は、「ひとりだち」という意だが、現社会では「経済的に自立する」との考え方が強いものになっている。それは、自立主義的生活規範を産み出すものになっている。

 

 例えば、現社会で働くことは、その成果として収穫する、換金して稼ぐあるいは給料をもらい経済的に自立して自らの生活を成り立たせていく。その結果として、人として一人前に扱われるように思っている人も多いだろう。これは根強い思い方になっている。

 

 働きたいけれど、身体的に、精神的に、能力的になどいろいろな理由で、働くことが困難な人たちがいて、経済的な自立がかなわない人が少なからずいる。

 

 そして、「働かざる者食うべからず」という表現にみられる労働観は、現状では十分な所得が得られない人たちや、労働市場に入れずにいる人たちを、働きが足りないのだから仕方がない、努力が足りないのは自己責任だと思わせてきた。

 

 武道家の内田樹は次のように述べている。

〈ひとりひとりおのれの得手については、人の分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意な人にやってもらう。

 この相互扶助こそが共同体の基礎となるべきだと私は思っている。

 自己責任・自己決定という自立主義的生活規範を私は少しもよいものだと思っていない。 

 自分で金を稼ぎ、自分でご飯を作り、自分で繕い物をし、自分でPCの配線をし、自分でバイクを修理し、部屋にこもって自分ひとりで遊んで、誰にも依存せず、誰にも依存されないで生きているような人間を「自立した人間」と称してほめたたえる傾向があるが、そんな生き方のどこが楽しいのか私にはさっぱり分からない。

 それは「自立している」のではなく、「孤立している」のである。(『ひとりでは生きられないのも芸のうち』より)〉

 

 また哲学者の鷲田清一は、こんなことを言っている。

〈「自立」とは他人の力を借りずに、ひとりで生きられるということではない。たとえ社会的サービスが充実していても、じっさいに動いてくれるのは機械ではなく他人だ。

 人間がひとりでできることはきわめて限られていて、食堂で何か食べるときには、調理するひと、配膳するひとがいるし、音楽に浸りたいときには、曲を作るひと、演奏するひと、ひとが要る。

 人間はそういう無数の他人に支えられて生きているのであって、ひとりでできることなどたかが知れている。

 と、すれば、「自立」とは、他人から独立していること(インディペンデンス)ではなく、他人との相互依存(インターディペンデンス)のネットワークをうまく使いこなせるということを意味するはずだ。困ったときに「助けてくれ」と声を上げれば、それにきちっと応えてくれる支えあいのネットワークのなかにあるということこそ「自立」であり、そのネットワークを支える活動が「自立支援」であるはずだ。(「死なないでいる理由」より)〉

 

 辞書にある「自立:他の援助や支配を受けず」の支配はともかく、人は援助なしでは生きていけないのは当然の理である。

「自律」は、自分で考え、自分で目標を定め、自分で行動を選択すること。であり、人が主体的に生きていくのは、幼い子どもからお年寄りまで、欠かせないことと考えている。

 

 だが、自分の足で立ち自分の頭で考える「主体的に生きる」ことは、注意深く見ていかないと、結構難しいと思う。ある社会に暮らしていることは、その一般的な見方、考え方に影響されるし、ある集団に属していると、知らず知らずのうちに、その独特の見方にそまってしまうことがある。

 

参照:内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文春文庫、2008)

   鷲田清一『死なないでいる理由』(角川文庫、2008)

当ブログ:https://masahiko.hatenablog.com/entry/2019/01/11/221051