日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎他者とは「時間差を伴った私」であるという想像力

〇最近、息子が技術を生かして独立することになり、新たな事業場を借りて着々と準備を進めている。その事業場はかなり汚れていて、それなりに清潔にするために、日曜ごとに私たち夫婦が出かけて一緒に掃除、磨きなどしている。家族なら当然のような気もするが、娘の出産さんのときも感じ、何かと支援していきたい気持ちが起こる。

 50歳過ぎてから、25年余所属していたある共同体を離れた。介護仕事のかたわら、精神障がい者の支援グループに加わったり、病院併設の養護学校のボランティアグループを立ち上げたりと、その共同体を離れた高揚感や50歳半ばのバイタリティーもあったのか、かなり精力的に動いていた。生活にほとんどゆとりはなかったが、あれは何だったろうかと思う。

 身近な人や友人に何かあると、出来ることは限られているし、身体的には足手まといにならないともいえないが、「猫の手」くらいにはなろうとする気概はどこから出てくるのか。

 どちらかといえば、のんびりと好きな小説でも読んでいたい自分ではあるが、動きのぎこちないこの身になっても、何かと支援したい気持ちはどこから生じてくるのか。

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〇内田樹は、講演「共生する作法」で次のようにいう。

〈若い者からみれば「老人」というのは「いずれそうなるかもしれない自分」です。「幼児」というのは「かつてそうであった自分」です。老人も幼児も他者の支援がなくては生きていけない、栄養もとれないし、移動も出来ない。周りの支援がないと生きていけない。病人や障害者もそうです。それは「そうなったかもしれない自分」です。それを今健康で十分に活動的である「自分」が、「かつてそうであった自分」「将来そうなるであろう自分」「高い確率でそうなるかもしれない自分」を支援する。それは相互支援というよりもむしろ「時間差を伴った自己支援」なのです。ある分岐路で違う道を選んでいたら「こうなっていたかもしれない自分」、自分の可能態に対する支援なのです。

 こういうふうに考えるためには、別に人に抜きんでた倫理性や愛情深さなんか要らない。そんなものものを求めるのはむしろ有害だと僕は思います。自分が他の人よりもずっと人格的に高潔で、慈悲の深い、例外的な善人であるという自己評価が強化されればされるほど、そのへんでうろうろしている幼児や老人を見て、「ああ、これは私」と思う可能性は減ずるからです。〉(内田樹講演「共生する作法」p314)〉

 

 最近街で出会うよぼよぼ歩いている老人や、ぎこちなく何かをしようとしている障がい者に出会うと、かぶさって見えてくる自分を感じることが多い。介護など福祉関連の活動をしていたときは、対象となる人にもよるが、「施す自分」と「施される他者」との距離があり、自分自身に引き付けては、あまり思えなかった。また、娘の出産後、乳幼児を抱いている親子を見ると、おお頑張っているなと、なんとなく身近な感じを覚えている。

 過去の自分、未来の自分、多元宇宙における自分を支援できる想像力が問われている気がする。

 

〈実際に、自分の中をじっと観察すると、「自分らしくない要素」がいくらでも見つかります。自分の中には幼児もいるし、老人もいる。おじさんもいるし、おばさんもいる。毅然とした人間もいるし、卑屈な人間もいる。器の大きい人間もいるし、せこい人間もいる。いろいろな人格ファクターが散乱している。でも、それは全部「自分」であるわけです。

 自分の中に、そういうわけのわからない他人をたくさん抱え込んでいる人にとって、まわりにいる「わけのわからない他人」はだんだん自分の親類のように思えてくる。そういうメカニズムだと思うんです。自分を絞り込まない、決めつけないほど人間は他者に対して寛容になり、親身になる。自分の中に弱さや卑しさや愚かさを認められる人間ほど、他者の弱さや卑しさや愚かさに対して寛容になれる。逆に、自分の中の弱さや卑しさや愚かさを認めない人間は、他者に対しても非寛容になります。目標を高く掲げて、自己陶冶に励むこと自体は悪いことではありません。でも、その結果、自分ほど努力していない他人に対しては非寛容になり、意地悪くなるなら、そんな努力はしない方がましだと僕は思います。〉(『内田樹による内田樹』p43)

 

 実際に、自分の中をじっと観察すると、いろいろな要素がある。上記の「いろいろな人格ファクター」は、ほとんど当てはまりそうである。

 以前、身近な人と口論するときがあり、そのうち腹が立ってきたことがある。そのようなことは近来なかったこともあり、70歳過ぎてのこのありさまに、少し落ち込み、自分自身に対し嫌な気持ちがしばらく残った。おそらく相手もかなりショックだったのではないだろうか。

 

〈相互支援というのは、「立派な人間」になることをめざすのではなく、こわばった「自我」の枠組みを解体することからしか始まらない。大事なのは、個人の倫理性や社会的能力を高めるということではありません。そうではなくて、自我の枠組みをはずし、自我の壁の隙間からしみ出していって、まわりの人たちとどこまでが自分でどこから他者なのか、それが不分明になるような「中途半端」な領域をどこまで拡大できるか、そういう技術的な課題なのです。〉(内田樹講演「共生する作法」p315)

 

 この提言は、面白いと思えるものの、長い間、「自我の枠組み」を大事にしてきたいまの自分には厳しい課題かも知れない。

 ことさら、自己実現とか自己責任といわなくてもいいと思うが、一人ひとりが、自分の頭で考え自分の足で立つことができる「自立」は大事なことだと思っている。その上で自我の枠組みを外し、他者との「中途半端」な領域をどこまで拡大できるかが課題となるのだろう。

 どちらにしても、支援したいとき、無理なく出来る範囲で支援するし、そのような気持ちがないときは、しないでおくことが大切だと思う。

 

参照・内田樹『内田樹による内田樹』(140B、2013)

・内田樹講演「共生する作法」(『最終講義』文藝春秋文庫版所収、2015)