日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎広々した時間意識で(内田樹『サル化する世界』より)

〇本書は「今さえよければ自分さえよければ、それでいい」―サル化が急速に進む社会でどう生きるか? との内容で、ポピュリズム、敗戦の否認、嫌韓ブーム、AI時代の教育、高齢者問題、人口減少社会、貧困、など、講演や論考をまとめたものとなっている。いくつかは内田樹の研究室にも掲載されている。

 

 文春オンラインに内田樹へのインタビューが掲載されていて、そこに、「時間意識」について語ったところが、特に印象に残った。そこに焦点をあてて思うことを述べる。

 

 内田は現代社会の趨勢を“サル化”というキーワードで斬った思いを次のように述べる。

 

《“サル化”というのは「今さえよければそれでいい」という発想をすることです。目の前の出来事について、どういう歴史的文脈で形成されたのか、このあとどう変化するのかを広いタイムスパンの中で観察・分析する習慣を持たない人たちのことを“サル”と呼んだのです。

(中略)

 時間意識とは「もう消え去った過去」と「まだ到来していない未来」を自分の中に引き受けることです。過去の自分のふるまいの結果として今の自分がある。未来の自分は今の自分の行動の結果を引き受けなければいけない。そういう骨格のはっきりした、ある程度の時間を持ちこたえられるような自己同一性がその時代から要求されるようになった。》

 

 現在は過去の蓄積の上に成り立っており、「いま」をどこから考えるかといえば、過去の経験や知識から得たもので考えるのであり、「いま」という時の流れをそこだけ切り取ることなどできない。また、自分の生きる場はちっぽけな世界にすぎないが、それは世界中のあらゆる出来事、宇宙自然界を含むあらゆる出来事とつながっており、当面する「いま」が未来を動かす出発点になる。

「いま」をどう見るか、それにどう対処するかは、過去の反省や検討、未来への展望なしには出てこない。これがないと、私たちは目先の現象だけに一喜一憂するその日暮らしの生き方しかできなくなる。

 

 そして、「レヴィナスの時間論」につづく。

《エマニュエル・レヴィナスが「時間とは主体と他者の関係である」という非常にわかりにくい命題を語っていますが、僕たちがそれが「わかりにくい」と思うのは、「時間意識」というものが伸縮するということを忘れているからです。ごく限定的な時間意識しか持たない人間と、広々とした時間意識を持つ人間がいる。

 

 一神教信仰は信仰者にこの「広々とした時間意識」を要求します。「造物主による創造」という想像を絶するほどの過去と、「メシアによる救済」という想像を絶するほどの未来の間に宙吊りにされている今の自分というものを把握できたものだけが一神教のアイディアを理解できる。そこから人間の知性と倫理性が発動する。そういうアイディアが生まれたのが紀元前1000年から500年くらいのことであり、それが人類史的な特異点(シンギュラリティ)を形成したのだと思います。》

 

「レヴィナスの時間論」については、内田樹の研究室(2014-11-16)で触れている。内田の見方には面白さを感じたが、レヴィナスの時間論については私にはよく分からなかった。

上記の「広々とした時間意識」のところで次のことを思った。

 

 少し飛躍するようだが三木成夫『胎児の世界―人類の生命記憶』のことを思う。

 本書は胎児が刻々とかたちを変えて、生命の歴史を再現していくことを詳細に追っていて、人類の体には40数億年にわたる生命の変化の歴史が刻まれているというもの。

 

 母親の羊水の中で、胎児は魚類から陸上生物へと1億年を費やした脊椎動物の上陸のドラマを再現する。つまり受胎してはじめのころは古代魚類の姿であり、母親の体内で地球生命進化の歴史を駆け抜けていって、魚類から両生類、爬虫類、哺乳類、そしてヒトへと“変身”を遂げて、この世に生まれてくる。そして、原形としての“すがた・かたち”は、今も私たちの体の中にその痕跡をとどめている。そして、われわれの中には太古からのさまざまな記憶がインプットされているのはないか、という遠大な仮説である。

 

 一人のひとが、宇宙自然界の何らかのつながりで生まれ、そして宇宙自然界に還っていく。そのひとには、太古以来の生命記憶が宿っているのではないかという見方は魅力ある。

 

 さらに、内田は「子育て」においての植物的時間について語る。

《僕が子供の頃、1950年代はまだ生産者のうち農業従事者人口が50%を占めていました。ですから、経済活動を考量するときの時間単位が「植物的」だった。ですから、学校教育でも、子どもたちの成長は農業のメタファーで語られていました。「種子を撒いて、水と肥料をやって、日に当てて、風水害や病虫害から守ると、収穫期には果実が実る」という言い方で家庭教育も学校教育も語られた。

 

 子どもたちは「種子」ですし、育ち方はお天道さま頼りですから、先行きどのようなものに結実するか予測できない。キュウリができるのか、トマトができるのかは分からないけれど、きちんと手入れをすれば、この子が持ってる潜在可能性は開花するだろうという、諦観と楽観の入り混じった感情で子どもは育てられた。いくら手入れをしても、さっぱり芽を出さない子については「大器晩成」といって、そのうち何か大きなものに結実するんじゃないかというような気楽なことが言われた。》

 

 私は、北海道での酪農から始まり精肉など牛関係の仕事に20年ほど携わってきた。お店で見ることができる「牛肉」にどれだけの人やもの、時間、エネルギーが籠められているのかは、携わったことのない人には、よく分からないのではと思う。

 

 最近になって、娘に新生児がうまれ、2歳近くの孫をみることがつづいている。あれあれという連続で、爺という立場もあり、それは面白くて楽しいが、子育てはホントに手間がかかると思う。

 

 植物的時間で、気長に見守りながら、起きる時間から食べる時間遊ぶ時間眠る時間をとおして乳幼児に合わせながら自分のすべてを使って守り育てている体験は、母親のしたたかさを培うような気がする。

 

 これは乳幼児に限らず、子育てにおいて植物的時間で、気長に見守ることが基本だと思う。

 また、なにごとも広々した時間意識でみることの大事さを思う。

 

※内田樹『サル化する世界』(文藝春秋BOOKS,2020

          ☆

 参照:文春オンライン(2020/02/29)より。

「今さえよければそれでいい」社会が“サル化”するのは人類が「退化のフェーズ」に入った兆候――内田樹インタビュー「サル化」が急速に進む社会をどう生きるか?

 

「今さえよければそれでいい」という発想

――現代社会の趨勢を“サル化”というキーワードで斬った思いは何でしょうか?

 

内田 “サル化”というのは「今さえよければそれでいい」という発想をすることです。目の前の出来事について、どういう歴史的文脈で形成されたのか、このあとどう変化するのかを広いタイムスパンの中で観察・分析する習慣を持たない人たちのことを“サル”と呼んだのです。

 

 歴史学的なアプローチも探偵の推理術も同じです。目の前に断片的な情報が散乱している。そこから「何が起きたのか」をいくつかのパターンで考え出し、すべての断片をつなぐことのできるストーリーを選ぶというのが探偵の推理術です。それが論理的思考ということです。でも、今の日本では、政治家も官僚もビジネスマンもメディアも、論理的にものを考える力そのものが急速に衰えた。広々とした歴史的スパンの中で「今」を見るという習慣がなくなった。時間意識が縮減したのです。それが「サル化した社会」です。

 

「サル化」という言葉は「朝三暮四」の故事から

――確かに社会のさまざまな局面で長期ビジョンが失われ、刹那的な傾向が強まったように思います。

 

内田 「サル化」という言葉は「朝三暮四」の故事から採りました。サルたちにこれまで給餌していた8つの栃の実を7つに減らすことになったとき、「朝3、夕方4ではどうか」と言ったらサルは怒り出し、「じゃあ、朝4、夕方3は?」と言ったら狂喜した。朝の自分と夕方の自分が同一であるということが仮想できなかったのです。ある程度長い時間を通じて自己同一性を保持できない人を笑ったのです。

 

 中学の漢文の授業で習ったときは「変な笑い話だ」と思っていたんです。どうして「こんな話」が何千年も語り伝えられるのか、意味がわからなかった。でも、よく考えたら、漢文で習う「守株待兎」も「矛盾」も「鼓腹撃壌」も、全部春秋戦国時代のものですが、本質的に「同じ話」なのです。どれも時間意識が未成熟な人間を笑っている。

 

適切な時間意識を持たないと人に笑われるぞという“脅し”

「矛盾」の武器商人は、「矛を売っているときの自分」と「盾を売っているときの自分」が同一であるということをうまく想像できない。切り株に偶然ウサギがぶつかったら、次の日から野良仕事を止めてしまった「守株待兎」の農夫には「確率」とか「蓋然性」という概念がなかった。「鼓腹撃壌」では「皇帝の善政のおかげでみんな幸福に暮らしている」と歌う子どもたちと「オレの日常に皇帝は何の関係もない」とうそぶく老人が対比的に扱われていますが、この老人には「因果」という概念がない。「矛盾」も「蓋然性」も「因果」もすべてある程度長い時間を俯瞰する視座に立たないと発生しない概念です。

 

 これらの逸話が春秋戦国時代に集中しているということは、おそらくその時期に「時間意識が成熟した人間」と「時間意識が未成熟な人間」が混在していたということだと思います。だから、「時間意識が未成熟な人間」を文明化することが社会的急務だった。こういう逸話が集中的に語られたのは、適切な時間意識を持たないと人に笑われるぞという「脅し」によって、人々を教化しようとしたからだと思います。

 

――有名な故事の数々が、時間意識のトレーニングになっていたというのは驚きです。

 

内田 時間意識とは「もう消え去った過去」と「まだ到来していない未来」を自分の中に引き受けることです。過去の自分のふるまいの結果として今の自分がある。未来の自分は今の自分の行動の結果を引き受けなければいけない。そういう骨格のはっきりした、ある程度の時間を持ちこたえられるような自己同一性がその時代から要求されるようになった。

 

 エマニュエル・レヴィナスが「時間とは主体と他者の関係である」という非常にわかりにくい命題を語っていますが、僕たちがそれが「わかりにくい」と思うのは、「時間意識」というものが伸縮するということを忘れているからです。ごく限定的な時間意識しか持たない人間と、広々とした時間意識を持つ人間がいる。

 

 一神教信仰は信仰者にこの「広々とした時間意識」を要求します。「造物主による創造」という想像を絶するほどの過去と、「メシアによる救済」という想像を絶するほどの未来の間に宙吊りにされている今の自分というものを把握できたものだけが一神教のアイディアを理解できる。そこから人間の知性と倫理性が発動する。そういうアイディアが生まれたのが紀元前1000年から500年くらいのことであり、それが人類史的な特異点(シンギュラリティ)を形成したのだと思います。

 

現代人が「退化のフェーズ」に入ったことの徴候ではないか

 だから「今だけ、自分だけよければ」という現代人に特徴的な時間意識の縮減は、それから2000年、3000年経って人類が「退化のフェーズ」に入ったことの徴候ではないかと思ったのです。

 

 ――いまは日々あまりに忙しすぎて、目の前のことにあくせくせざるを得ないという社会環境も大きいと思います。

 

内田 産業構造の変化のせいだと思います。経済活動が人間的時間を超えた速度で活動し出した。株の売り買いなんかはマイクロセコンド単位で、アルゴリズムが行うわけですから、今の経済活動の基本時間はもう人間的時間ではない。人間の身体感覚や知性が賦活される時間の流れ方ではないのです。

 

 僕が子供の頃、1950年代はまだ生産者のうち農業従事者人口が50%を占めていました。ですから、経済活動を考量するときの時間単位が「植物的」だった。ですから、学校教育でも、子どもたちの成長は農業のメタファーで語られていました。「種子を撒いて、水と肥料をやって、日に当てて、風水害や病虫害から守ると、収穫期には果実が実る」という言い方で家庭教育も学校教育も語られた。

 

 子どもたちは「種子」ですし、育ち方はお天道さま頼りですから、先行きどのようなものに結実するか予測できない。キュウリができるのか、トマトができるのかは分からないけれど、きちんと手入れをすれば、この子が持ってる潜在可能性は開花するだろうという、諦観と楽観の入り混じった感情で子どもは育てられた。いくら手入れをしても、さっぱり芽を出さない子については「大器晩成」といって、そのうち何か大きなものに結実するんじゃないかというような気楽なことが言われた(笑)。

(以下略)

https://bunshun.jp/articles/-/35353