日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎孫の成長記録(1歳5ヶ月)心をもつ者として

〇孫の成長記録①孫の能動性を大事にしながら

 よく利用するところがすべて閉鎖されていて、散策を兼ね、孫を連れて近くの芦屋公園によくいく。公園には、ブランコ、滑り台、砂場などがあり、そこを嬉々として遊びまわる。

 

 乳幼児にとって積極的に行動することで成長していき、(大人、子供も含めて)人間にとって能動的に行動したときの快感は、受動的な行動よりもずっと強いといわれ、その嬉しそうな表情を見るとなるほどと思う。

 

 だが、自分で体を制御するのはまだまだ不安定で、どこまでも妻が付き添って見守っている。

 孫も、妻が傍についていることで安心して動き回れるのだろう。私だとかえって危ないことも分かっているようだ。1歳5ヶ月ぐらいはそのような時期なのだろう。

 

 ある意味、痛い思いをして分かってくることもあるだろう。そして、孫の能動性を大事にしながら、どこまで手を添えるか、この辺の加減が難しいだろうが、そのあたり妻は心得ているように私には見える。

 

 以前から、乳幼児を育てていくときに特定の親にだけ託すのは酷だと思っていたが、孫の成長を見ていくのは並大抵ではないと思う日々で、娘も少しでも私たち(大方は妻)で見てもらうように声をかけてくる。

 

 私たちも出来る限り関わっていき、また面白いですが、見守りが終わると、妻は疲れるらしく、このようなことが続くのは楽しいが大変だなと感じている。

 なお、娘は近くの同年齢くらいの子を持つ親と協力し合っているなど工夫をしている。

 

 娘夫婦は仕事のこともあり、少しでも預かってくれるところがないかと保育所に申し込みをしたが、断われ続けている。介護施設と同様、社会的に極度に不足しているようだ。少子化が課題になっているが、この辺りの体制も心もとないと思っている。

-------

〇孫の成長記録②「〜として扱う」

 1歳5か月になると、いろいろな面で能動的になる。

 しきりに声を出し、そのことばは、よく分からないときもあるが、確かめながら身につけていくようだ。また、何か働きかけるようになり、こちらでこうしてほしいというときちんと応えてくれることが多くなるし、応えようとする意欲も感じる。

 

 昼間は孫を連れて主に公園にいく。娘が行けないときは私たちが連れて行く。部屋にいる時は靴下を嫌がり素足だが、出かけるとき、靴下と靴を履く。

 ある時、妻が履かせていたところ、娘が自分でやれるようにしていると言う。

 たどたどしいし時間はかかるが、娘の適度な声掛けで、結構やれるようになっている。

 

「たどたどしい」と見るのは、こちらの尺度であり、孫は精一杯体でやろうとして覚えようとしている。そこを大事にしながら、声をかけたり手を添えたりするだけだ。

 

 この時期になると、肉体的には幼児として扱うが、精神的には一個の人格として扱うことが必要だなと思う。娘親子を見ていると、コミュニケーションをとりながら心の交流をしているようだ。

 

 下條信輔『まなざしの誕生 赤ちゃん学革命』で、親が子を「理解する存在として」=「理解できる存在として」、あるいは「語りかける相手として」=「語りかけてくる相手として」扱うことの大切さを述べている。

 また、「心をもつ者」として扱われることによって、またそのことだけによって、心は発生し成長するのだ。ともいう。

 

 それにしても動きが活発になるにつれて、転んだりぶつかったりするのも衝動も大きくなる。少し前まではナデナデしながら「痛いの飛んでいけ」ですぐに泣き止んだが、最近妻はグット強く抱きしめながら頭を摩る。なき声も大きいが、それでも切り替えが早い。

 

参照:下條信輔『まなざしの誕生 赤ちゃん学革命 新装版(新曜社、2006)

・鷲田清一「折々のことば」(朝日新聞2016年7月14日)から

「心をもつ者」として扱われることによって、またそのことだけによって、心は発生し成長するのだ。下條信輔:乳児に、ペットに、「心」はあるか? この問いは間違っていると認知心理学者は言う。私が語りかけ、また私に語りかけてくれる者として相手を扱うことの結果として、「心」は生まれてくる。だから「心」は脳における神経生理的な過程として分析されるよりも先に、交わりという場面で問われねばならないと。