日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「花を愛し、詩を吟じる(中村哲)

〇概して現象にあらわれた言葉や行動に目が行きがちになりますが、そのもとにある考え方やいのちの息吹、そこからかもしだされる態度をみていきたいと思っています。

中村哲さんはその言動がよく取り上げられますが、そのもとにあるものに惹かれています。

中村哲さんについて、いろいろな形で取り上げられています。これからも語り継がれていくだろうし、いろいろな形でその志を引き継ぐ人も現れると思います。

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〇中村哲さんについての記録2編

NHKN EWS WEB 12月5日に、「銃弾に倒れた中村哲医師が伝えたかったことは?」の動画と、中村哲医師の足跡「100の診療所より1本の用水路を」の文章が載っています。

動画は、「飢えや渇きというのは薬では治せない」「兵士を戦闘ではなく農業へ」「追い求めたのは紛争の根源を断つこと「ことし73歳にそれでも“あと20年”と意欲見せていた」「人間らしい暮らしの実現へ最後まで現場にこだわり続けた」「そこに住んでいる人といい信頼関係があることが武器よりも何よりも一番大切なことではないか」などの言葉が続きます。

 

次に、随時中村哲医師からの報告を紹介している西日本新聞が、西日本新聞特別追悼サイト2020年公開予定をインターネットに掲載しました。

〈35年にわたりパキスタンとアフガニスタンの人々の支援に取り組んできた福岡市出身の中村哲医師の足跡を残し、その意志を受け継ぐために〉とあります。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/564486/

 そこには、「信じて生きる山の民」が掲載されています。おそらく最後の報告だと思います。

 

ここでは印象に残っている今年9月の「花を愛し、詩を吟ずる」をあげます。

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】花を愛し、詩を吟ずる

2019/9/2 13:43 西日本新聞 国際面

 アフガニスタン東部のガンベリ砂漠は今、平和な静寂が支配している。かつて荒涼たる水無し地獄だった原野は、深い森が覆い、遠くで人里の音-子供たちが群れ、牛が鳴き、羊飼いたちの声が、樹々(きぎ)を渡る風の音や鳥のさえずりに和して聞こえる。

 この一角に我々(われわれ)の広大な農場があり、今も開拓が進められている。その中心地に1万2千坪(約4万平方メートル)ほどの記念公園があり、四季の花が咲き乱れ、人々に憩いの場を提供する。

 「ここは無人の砂漠だった」。ふとよみがえる過去の惨状を思うと、この平和な光景が夢のようだ。

  • 農民たちの死闘

 2003年に開始された用水路の建設は、09年の夏、ここガンベリ砂漠で最後の難関に差し掛かっていた。用水路の着工から7年目、乾いた熱風と強烈な陽光、過酷な自然環境の中で約400人の作業員が難工事に挑み、泥まみれで働いた。砂漠の気温は昼近くになると摂氏50度を超える。乾いた熱風で木の葉がドライフラワーのように乾燥することもある。熱中症が続出したが、手を休める者は居なかった。

 作業員は全て近隣の農民で元難民、干ばつで農地を失い、故郷を離れていた者たちである。2000年の大干ばつは凄(すさ)まじく、多くの村落が短期間のうちに壊滅して餓死者が相次ぎ、多くの村が放棄された。その日の食にも窮していた彼らは、水が来るという噂(うわさ)を聞いて希望を持ち、故郷に戻った者が多かった。

 彼らの願いはただ二つ、1日3回の食事が摂(と)れること、家族一緒に故郷で暮らせること、それだけだ。用水路が開通すれば、その願いが叶(かな)えられる。だが成功しなければ、再び食うや食わずの難民生活に戻らねばならない。用水路の成否は、彼らの死活問題であった。

 09年8月の通水試験が成功裏に終わったとき、作業に従事した住民は狂喜した。その日の糧を得るために、もう卑屈になったり、物乞いしたりせずともよい。餓死の恐怖が去り、神と良心の前に胸を張って生活できる。その自由をかみしめたのだ。人々の生き伸びようとする健全な意欲こそが、用水路を成功に導いた力の一つであった。「これで生きられる!」という叫びこそが、立場を超えて、生を実感して得られる人間の輝きだと今も思っている。

 その後は、人々の祈りが裏切られることはなかった。荒地は次第に緑の沃野(よくや)で覆われ、隣接地帯に建設された八つの新たな取水堰(しゅすいぜき)と水路によって安定灌漑(かんがい)地が拡大した。19年現在、総面積1万6500ヘクタール、65万人が暮らせる農地が回復した。この苦闘を心に留めるべく、「ガンベリ記念公園」が開かれたのである。

  • 文化を測る指標

 アフガン人は花を愛し、詩を愛する。記念公園の美しい花園は今、全国各地から訪問者が絶えない。バラ、ジャスミン、ザクロ、多種多様の花は、特別な専門家が準備したのではなく、全て我々PMS(平和医療団・日本)の職員と作業員が持ち寄って植えたものだ。この公園を約3万本のオレンジの園が取り囲み、早春、一面の白い花が辺りを香りで満たす。

 アフガニスタンでは伝統的な詩会が健在で、季節の花をテーマに詩人たちが集い、即興詩を吟ずる。南部ではカンダハルのザクロ、東部ではジャララバードのオレンジが有名だ。詩人は昔からどこにでも居て、無名の農民から王侯貴族まで、身分、国籍を問わず集まってくる。完全に口承文学で、読み書きのできぬ有名詩人までいるのだ。無学な作業員でも2人以上集まれば、即興詩で楽しみ合う光景は珍しくない。

 大干ばつの影響でアフガン東部の柑橘(かんきつ)類が全滅に近い打撃を受け、恒例のオレンジ詩会も途絶えがちになっていたが、ガンベリ公園のオレンジの香りを嗅(か)ぐ者は、詩会がガンベリで本格的に復活することを夢見ている。PMSが手掛ける「緑の大地計画」は単に農業の回復ではなく、伝統文化をも支えるものだ。

 我々はつい教育の重要性を説くあまり、地域に根差す豊かな文化を忘れがちだ。経済的な貧困は必ずしも精神の貧困ではない。識字率や就学率は必ずしも文化的な高さの指標ではない。「これで生きられる」という、あの安堵(あんど)の叫びの中に、自信と誇りが込められていたと思えてならない。

 × × 

 「アフガンの地で」は、アフガニスタンで復興支援活動を続ける「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の現地代表でPMS総院長の中村哲医師(72)によるリポートです。次回は12月掲載予定。

 

※西日本新聞特別追悼サイト2020年公開予定

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】信じて生きる山の民」12/2

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】花を愛し、詩を吟ずる9/2

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】生存と安泰 願う女性たち6/17

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】「山田堰」の知恵が切り札4/1

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】生活と生命奪う大干ばつ2018/12/3

【アフガンの地で 中村哲医師からの報告】異常気象と平和の代償2018/9/3