日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎“良心を束ねて河となす”(中村哲のことばから)

〇昨年暮に放送され、昨日再放送があった、Nスぺ「良心を束ねて河となす 〜医師・中村哲 73年の軌跡〜」を再度観る。

 

 番組から、日々触れる人々や自然を慈しみ、そこから醸し出される思いや言動が、あのような偉大なことを成し遂げたことにつながったことが、伝わってきた。

 

“良心を束ねて河となす”

 中村は35年にわたる現地での活動の間、自らの思いを書き残していた。

《我々はあらゆる立場を超えて存在する良心を集めて氷河となし、確実に困難を打ち砕き、かつ何かを築いてゆく者でありたいと心底願っている。》

 

 特に印象残ったことを記録しておく。

 

▼2000年、アフガニスタンを未曽有の大干ばつが襲った。

 この地では9割が自給自足の生活を送っている。人口のおよそ半分に当たる1200万人が干ばつに苦しみ、400万人が飢餓線上にあった。

 診療所には栄養失調や感染症に苦しむ人など多くの患者が押し寄せた。中村は医療だけではこの事態を解決できないと感じていた。

《「接触皮膚炎ですね。」「あれでも水で洗うだけでかなり良くなるんですね。しかし、それが今なかなか言えない状態で、水不足の影響がこんなところにも出てきていますね」こどもや高齢者など弱い人から犠牲者が増え始めている。》

 

▼2001年9月11日. アメリカ同時多発テロ。

 首謀者とされたオサマ・ヴィン・ラディンをかくまっているという理由でアメリカは報復攻撃の対象にアフガニスタンを名指しした。

 ブッシュ大統領「あらゆる地域のすべての国はいま一つの決断を下さねばならない。アメリカの側に立つか、テロリストの側に立つのか。」

 小泉首相(当時)「ブッシュ大統領と会談し世界の国々が力を合わせてテロリズムに対して毅然たる決意で戦わなければならないとの考えで一致しました。」

 

 中村は急遽帰国した。これまで政治的な発言はあえて避けてきたが、この時は国会の参考人としての招致に応じた。国会では自衛隊の海外派遣に関する審議が進んでいた。

 

《中村「今、私たちが恐れておるのは飢餓です。自衛隊の派遣が取りざたされておるようですが、当地の事業を考えますと有害無益でございます。かえって私たちのこの…あれを損なうということははっきりしておる。」》

 

 中村は軍事行動の拡大は現地の人々をさらに苦しめることになることを訴えた。しかし法案は可決。自衛隊の海外派遣が可能となった。

《「自由と民主主義」は今、テロ報復で大規模な殺戮を展開しようとしている。

 恐らく累々たる罪なき人々の屍を見たとき夢見の悪い後悔と痛みを覚えるのは報復者その人であろう。  

 瀕死の小国に世界中の超大国が束になり、たして何を守ろうとするのか素朴な疑問である。 (中村哲「医者、用水路を拓く」)》

 

▼実はこの時中村には大きな気がかりがあった。

 活動を支援するペシャワール会の福本満治さんは語る。

《「2001年の9・11が起きる前の6月くらいに息子さんが病気である、脳の方に腫瘍が出来て…中村先生の専門外ですね。どうしても2年ぐらいしか生きられない。息子さんがまだ10歳の少年だったんですが、小学校の5年生ぐらいですね。丁度それと並行していたので先生としては非常にきつかったと思いますね。」(

 

▼中村は息子の病について一切外部に公表することなく講演会のために日本各地を飛び回りました。日本でほとんど伝えられていなかったアフガニスタンの飢餓の実情を訴えて食糧支援のための募金を訴えました。中村の訴えにかつてない反響が沸き起こった。わずか一か月で2億円を超える寄付が集まった。

 

《私の十歳の次男が悪性の脳腫瘍にかかり死期が近かった。

 少しでも遊びに連れて行き楽しい思いをさせたかった。

 だが、この大混乱の中、どうしても時間を割いてやることが出来ない。

 可愛い盛りである。

 親の情として、「代わりに命をくれてやってもー」とさえ思う。

 この思いはアフガニスタンでも米国でも同じはずだ。

 干ばつと空爆で命の危機にさらされている子どもたちを思えば他人事と感ぜられなかった。(中村哲「医師、用水路を拓く」)》

 

▼アメリカ同時多発テロから5か月、アフガニスタンへの空爆が始まった。

 現地には日本からの寄付金で小麦粉と食用油が大量に買い付けられた。

 空爆の中、現地スタッフが決死の覚悟で配給を行った。

 飢餓に直面していた15万人に冬を越せるだけの食料が届けられた。

 

◇2002年の12月、闘病していた次男の容態が悪化、その年の暮れ、家族が見守るなか息を引き取った。10歳だった。

《小春日の陽光を浴び 輝くような青葉の肉桂の樹が 屹立している

 常々「お前と同じ歳だ」と言ってきたのを思い出して初めて涙があふれてきた

「見とれ、おまえの弔いはわしが命がけでやる、あの世で待っとれ」

 空爆と飢餓で犠牲になった子の親たちの気持ちがいっそう分かるようになった。

 理不尽に肉親を殺された者が復讐に走るが如く不条理に一矢報いることを改めて誓った。

 (中村哲「医者、用水路を拓く」)

 

▼アフガニスタンへ戻った中村はある大きな決断をする。スタッフを集め用水路の建設を宣言したのです。

《中村(英語で)「毎日、数百人の子どもが命を落としている。さらに多くの人が水不足のために病気になっている。目的はただ一つ、自分たちで食べて行けるようにする事、この用水路建設にアフガニスタンの未来がかかっている。」》

 

 長年、中村と共に医療活動を続けてきた現地スタッフ、ジア・ウル・ラフマン医師、中村が初めて口にした時のことを今でもよく覚えている。

「中村医師は言いました『ここから水を引くことは難しいですが、それが出来れば渇いた大地は再生し人々の悲惨な状況は良くなる』。私たちは皆、医師がどうやって水路を建設するのか唖然としました。」

 発足当初からペシャワール会に参加してきた後輩の医師村上優は用水路の建設については支援者の中にも反対の声があったという。

「みんな事情が分かれば分かるほど、そんな無謀な…このまま関わっていたら大変なことになると感じる人もいたし・・・」

 中村は一から土木工学を学び自ら設計図をひいた。

 

▼2003年、心配する周囲の声を押し切るように用水路の建設工事が始まった。

 3000ヘクタールという広大な荒れ地に水を引こうという前代未聞の計画だった。しかも土木工事の経験者はほとんどいなかった。この時、中村は56歳。自らも覚悟を示すように先頭に立って工事に臨んだ。干ばつで農業が出来なくなった地元農民たちが一縷の望みをかけて参加し始めた。現地には重機も十分な資材もない。

 中村は地元の人たちが自分たちで維持管理できるよう簡単に手に入る石を利用した工法を採用した。 生きるために傭兵やゲリラとなっていた人が戻り始めた。武器をショベルとツルハシに持ち替えて工事に加わった。

 

▼米軍による空爆が続く中でも用水路の建設は休みなく続けられた。現場は戦闘に巻き込まれる危険と隣り合わせでした。

 しかし干ばつによって難民となっていた人々も次々と故郷に戻り参加する人が1日600人にも達した。人々の用水路への期待は日を追うごとに高まっていった。

 現地で活動を続けていた看護師の藤田千代子さんは、「ホントにびっくりするのは、まだまだ用水路は上流側なのに、3キロ先の人が畑を耕している。あら、ここ畑やったのねとか。遠くの人たちが畑を耕して水が来るのを待ってるわけですよ」

 

▼工事は思いがけない壁にぶつかった。

 用水路の取水口を建設しているときのこと、中村は近代工法の基本に従って川の流れを横切るように直角に堤防を作ろうとした。

 しかし、対岸に届く寸前、土砂は積み上がらなくなってしまった。水の通り道が狭まったことで川の流れが予想を超える激しさになったのだ。

 800キロの巨大なコンクリートの塊まで投入した。「流された!」

 

 土木工学を学び数少ない専門家として現地に入りボランティアで工事に関わった鈴木学さんは語る。

「水の力ってホント凄いなって思いましたし、この工事はキツイな~、これはうまくいかないかも知れないというような危機感ですよね、ま、先生もそうなんだけど、それはホントに抱きましたね。」

 このままでは稲の種まきが出来ない。地元の人々にとっては命に係わる事態となる。残された時間はあと二か月。中村は追い詰められていた。「二か月で終わらせるってたいへんですよ。」

 命がけの弔いを亡き息子に誓ってから1年が過ぎようとしていた。

 

《鈴木学「夜寝て、真っ暗ですけどトイレに起きると、夜中の2時とか3時とか先生の部屋のドアが開いていて電気がついていて、先生が図面を見たりじっと考えたりしてるわけですよ。もし横を通るときに見つかってしまうと先生に捕まって、そこから1時間、2時間、話が始まってしまうので、ホントに抜き足差し足で先生に気づかれないよ~にトイレに行って又気づかれないよう・・・(先生は)当時一時間ぐらいしか寝てないですよ」。》

 

《轟轟と音立てる激流が、流域の土砂を押し流して白く濁り容赦なく河岸を洗ってゆく

幅五キロメートルもの大河は、さながら怒れる巨竜の如く、人の無力さを感じさせる

こんなところに取水口を作るとは我ながら無謀な計画に、踏み出したものだと正直、思わざるを得なかった。 (中村哲「医者、用水路を拓く」)》

 

▼この難局を乗り越えるヒントは中村の故郷福岡県にあった。

 福岡県朝倉市。山田堰。鈴木さんと中村が見学に訪れたのは伝統的な灌漑施設です。

 江戸時代につくられた200年以上にわたって九州の穀倉地帯筑後平野を潤してきた。

 川の流れに対して斜めに伸びた堰という構造物が取水口に水を導いている。

 

《鈴木「私が学んだ近代土木工学では、水の流れに対して直角、垂直に堰を置いて水を塞き上げるという考えしかないので、斜めにする意味が、僕も先生も、全く分からない。 教科書に書いてないわけですから。

 あれっ、これはやっぱり本質的に自分たちの持っているものとは違うという印象が強かった。先生も強かったんじゃないかと思うんですよね」。》

 

◇中村は故郷の先人に倣って斜めの堰を作ってみることにした。

 山田堰のように川の流れに対して斜めに巨石を置いていく。斜めに配置することで水の圧力が減り、石は流されることなく積み上がっていった。

 一か月後、突貫工事の末、クナール川に斜め堰が姿を現した。

 取水口を開け用水路の水を流し入れます。水は用水路を通り、干上がった大地を潤していく。これでやっと麦が作れるようになります。

「お~い、みず、おいで!」

 

▼中村は現地の言葉で真珠を意味するマルワリード用水路と名付けました。

《看護師の藤田千代子「嬉しそうでした、本当に。これが、現地の人も苦労しただろうけど、

 水に流す、水に、何もかも水に流すってこのことかって言い、すっごくうれしそうでしたね、(私も)そうですねと言って、すっごく嬉しそうでしたね」》

 

《鈴木「嬉しそうでしたね、少年のように。今までのエンマ大王みたいなのは一切なくて。こう、みんなで歩いていて、一寸年配の先生が『良かったですね、こんなにいい子が沢山いて』。すると先生がピタッと止まってじ~と下を向いて、僕らに背を向ける形で。みんな、なんであんなことをしてるんだろうと思ったと思うんですけど・・・息子さんのことを、ですね・・・・ま、思ってるんだなと。。。。。。ま、僕は思ってたんですけど、『お父さん、やったよ!』という、ま、そういう気持ちだったと思うんですけどね」。》

 

▼ 6年かけて積み上げてきた経験や実践が一瞬で振り出しに戻る

 用水路の運んだ水で麦も実りを迎えました。飢餓にあえいでいた人々の命を繋ぎとめることができました。ところが、2010年の夏、アフガニスタンに今度は百年に一度と言われる大洪水が襲った。クナール川は氾濫、濁流が用水路へと流れ込み周辺の人々の命を脅かす事態となった。ようやく水が治まった後、水門は破壊され用水路は土砂で埋まっていた。

 

「しばらく茫然として何も手がつかなかった。だが、この事は大きな教訓であった。いかに強く作るかよりもいかに自然と折り合うかが最大の関心となった。」

 

《主役は人ではなくて大自然である。

 人はそのおこぼれに与(あずか)って慎ましい生活を送っているに過ぎない。

 知っていたつもりだったが、この事態を前に初めて骨身にしみて実感したのである。    (中村哲「天、共に在り」)》

 

▼いかに自然と折り合う堰を作るか、中村は再び故郷福岡の山田堰に立ち返ることにした。

 あばれ川と言われる筑後川を山田堰は500年以上にわたって幾度も大洪水を乗り越えてきた。

 よく見ると山田堰は斜めの直線ではなく、緩やかなカーブを描いていた。観察するうちに中村はその形が重要な意味を持っていることに気づいた。このカーブによって水の流れが中央に集められ洪水の時には激流が川の本流に向かうようになっていた。

 

◇アフガニスタンの治安はさらに悪化していた。

 現地に戻った中村は人々と共に堰の改修に取り組んだ。筑後川の水流を遥かに凌ぐクナール川を相手に、どうすれば自然と折り合う堰がつくれるのか、山田堰の構造を元に何年も試行錯誤が続いた。

《作業地の上空を盛んに米軍のヘリコプターが過ぎてゆく

 彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る

 彼らはいかめしい重装備、我々は埃だらけのシャツ一枚だ

 彼らには分からぬ幸せと喜びが地上にはある

 乾いた大地で水を得て、狂喜する者の気持ちを我々は知っている

 水辺で遊ぶ子供たちの笑顔にはちきれるような生命の躍動を

  読み取れるのは我々の特権だ。

 そしてこれらが平和の基礎である。 (中村哲「ペシャワール会報」)》

 

▼2019年、改修を始めて8年、難工事を経てついに中村が思い描いていた堰が完成した。

 福岡の山田堰のように美しいカーブが川の流れを中央に集めている。洪水が来ても周囲への影響が抑えられるようになった。

 戦乱と干ばつによって故郷を追われていた人々に緩やかな暮らしが戻り始めた。

 総延長27キロメートル、マルワリード用水路をはじめ9つの堰が次々と建設され、1万6500ヘクタールの農地に水を注ぐまでになった。干ばつにより荒れ果てたこの地を緑豊かな大地へと姿を代え65万人の命を支えている。

 

▼それから8か月後、中村は用水路工事の現場に行く途中、何者かの銃撃により5人のアフガニスタン人とともに命を落とした。土地の権利争いに巻き込まれたなど様々な憶測が飛び交う中で地元当局の捜査が続いていたが真相は分かっていない。

 

 中村は長年の活動の中で現地に人たちから責められたり裏切られたりしたことが何度もあったという。それでもこう言っていた。

 

《(現地にも行ったことがある看護師の)藤田千代子さん「『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』もうまさしくそのままで、どんなに現地の人が、一緒に働いている人が不正をする、用水路現場で砂を掛けられる、先生の車が倒されるとか、(しばし絶句、手で顔を覆いながら)ん、本当に私からすると、そんなことをされるならやめた方がいい、私なんかカッとなって・・・でも、先生は必ずその原因を知ろうとされる、なぜ自分がその様な目にあうのか、災い(の原因)は自分の側にあって、原因を探して、じゃ何が必要かと、それを実行する方だった」》


▼用水路のほとりには人々の憩いの場となるように中村の作った公園があります。

 そこに中村を記念した塔が出来ました。

 周辺に広がる人々の暮らしを見つめるかのように中村の笑顔が描かれています。

 

《完成した美しい堰と 大河の流れは悠久の自然と 一瞬の人生を告げます

 この世界に生を受け 自然の恵みと先人たちの努力の上に 現在があります

 ここに遺す一つの種子はその御礼です。

 それが確実に芽生えより平和な世界につながるよう祈ります

 当地の絶望的な状況にあればこそ実を以って報いたいと思います。

(中村哲「ペシャワール会報」)》

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参照:「四丁目でCan蛙」(※詳細に記録されています)

 https://cangael.hatenablog.com/entry/2021/01/10/083747

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〇これに関連して印象に残る言葉をいくつかあげる。

 ・祖母の説教が、後々まで自分の倫理観として根を張っている。弱者は率先してかばうべきこと、職業に貴賤がないこと、どんな小さな生き物の命も尊ぶべきことなどは、みな祖母の教説を繰り返しているだけのことだと思うことがある。

 

・(用水路の決壊)だが、このことは大きな教訓であった。いかに強く作るかよりも、いかに自然と折り合うかが最大の関心となった。自然は予測できない。自然の理を知るとは、人間の技術の過信を去ることから始まる。主役は人ではなく大自然である。人はそのおこぼれに与かって慎ましい生を得ているに過ぎない。知っていたつもりだったが、この事態を前に、初めて骨身に染みて実感したのである。山田堰を造った古賀百工は、農民の窮状に戻しただけではない。この自然の猛場で知り尽くし、人為と自然、その危うい接点で知恵を尽くし、祈りを尽くしたのだ。その祈りを抜きに技術を語るのは、画竜点睛を欠くものだった。

 

・これは平和運動ではない医療の延長なんですよ。医療の延長ということは、どれだけの人間が助かるかということ。その中で結果として争い事が少ない、治安が良い、麻薬が少ないということが言えるわけで、これが平和への一つの道であるという主張をしたことは少ないと思います。それは結果として得られた平和であって、平和を目的に我々はしているわけではない。

 

・立派な動機があってそこに赴き、 志と信念を貫いて現在に至ったというのが分かりやすいですけれども、残念ながら、私にはこれといった信念はありません。自分の気に入ったところで、 自分のできる範囲で、人々と楽しい気持ちで暮らす方がいい。それ以上の望みもなかったし、今もありません。

 

・乾いた大地で水を得て、狂喜する者の気持ちを我々は知っている。水辺で遊ぶ子供たちの笑顔に、はちきれるような生命の躍動を読み取れるのは、我々の特権だ。そして、これらが平和の基礎である。

 

・どの場所、 どの時代でも、 一番大切なのは命です。 子どもを亡くした母親の気持ちも世界中同じです。親の気持ちは痛切です。 そういう命に対する哀惜、 命をいとおしむという気持ちで物事に対処すれば、 大体誤らないのではないかと私は思っております。

 

 ※中村哲さんに関しては、たびたびブログに書いている。

 https://masahiko.hatenablog.com/entry/2019/12/14/215923