日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎敗戦後75年の原爆の記録から。

〇毎年8月になると、太平洋戦争や原爆関連の情報が多くなる。新たにさまざまな記録が見いだされて記事や放送される。その月に限らず、それに関心を寄せてきた。

 6日にNHKスペシャル、「映像と証言で綴(つづ)る原爆投下・全記録」を観る。

 番組内容は〈戦後75年の節目に当たる今年「原爆投下」に関係した当事者たちの証言や資料、映像が次々に見つかった。原爆開発計画(マンハッタン計画)の現場責任者の手記や、製造に携わった科学者、爆撃機のパイロットのインタビューを入手。「投下都市」決定の詳細が明らかになる。「アメリカの政治家や軍人がどんな思惑で行動していたのか」「あの日、爆撃機にいた者の心情」などが生々しく語られていく。〉

 

 その後、『松尾あつゆき日記〜原爆俳句、彷徨う魂の軌跡』や原民喜の『心願の国」を読む。

 

〇『松尾あつゆき日記〜原爆俳句、彷徨う魂の軌跡』から。

 松尾あつゆきは、長崎の原爆で妻と3人の子どもたちを失い、その体験を句にする。本書は生き残った長女を看病しながら2人で生活した10カ月間をまとめたもの。

「8月10日に帰りついた自宅跡には、横たわる妻の横で死んだ2人の幼子が。この日、さらに長男が生き絶えたが、3人の兄弟の遺体を炎天下に並べておくしかすべがなかったそうです。家族を失ったあまりの寂しさに、何度も自死を考えながら、句を作ることで生きた…と、本人は綴っています。」

・こときれし子をそばに、木も家もなく明けてくる

・すべなし地に置けば子にむらがる蝿

・まくらもと子を骨にしてあわれちちがはる

・炎天、妻に火をつけて水のむ

・炎天、子のいまわの水をさがしにゆく

・あわれ七ヶ月のいのちの、はなびらのような骨かな

・なにもかもなくした手に四まいの爆死証明

・今はもうたびびととして長崎の石だたみ秋の日

※『松尾あつゆき日記〜原爆俳句、彷徨う魂の軌跡』(平田周編纂、長崎新聞新書、2012)

 

〇原民喜『心願の国』から

 この作品は絶筆ともいわれていて、これまでの作品に漂っている、妻の死と原爆とに苦しめられる姿はない。妻についての文章は、優しく、清らかで、苦しみの跡は少しもない。

 彼女の死すら愛おしむ気配がある。自らの死をみすえていたのか、重苦しさは感じられないというか、それすらも突き抜けた、死の向こう側の春を感じているかのように。

《原民喜『心願の国』

〈一九五一年 武蔵野市〉

 夜あけ近く、僕は寝床のなかで小鳥の啼声をきいてゐる。あれは今、この部屋の屋根の上で、僕にむかつて啼いてゐるのだ。含み声の優しい鋭い抑揚は美しい予感にふるへてゐるのだ。小鳥たちは時間のなかでも最も微妙な時間を感じとり、それを無邪気に合図しあつてゐるのだらうか。僕は寝床のなかで、くすりと笑ふ。今にも僕はあの小鳥たちの言葉がわかりさうなのだ。さうだ、もう少しで、もう少しで僕にはあれがわかるかもしれない。……僕がこんど小鳥に生れかはつて、小鳥たちの国へ訪ねて行つたとしたら、僕は小鳥たちから、どんな風に迎へられるのだらうか。その時も、僕は幼稚園にはじめて連れて行かれた子供のやうに、隅つこで指を噛んでゐるのだらうか。それとも、世に拗ねた詩人の憂鬱な眼ざしで、あたりをじつと見まはさうとするのだらうか。だが、駄目なんだ。そんなことをしようたつて、僕はもう小鳥に生れかはつてゐる。ふと僕は湖水のほとりの森の径で、今は小鳥になつてゐる僕の親しかつた者たちと大勢出あふ。

「おや、あなたも……」

「あ、君もゐたのだね」

 寝床のなかで、何かに魅せられたやうに、僕はこの世ならぬものを考え耽けつてゐる。僕に親しかつたものは、僕から亡び去ることはあるまい。死が僕を攫つて行く瞬間まで、僕は小鳥のやうに素直に生きてゐたいのだが……。》

 

 作品の中途でパスカルの言葉がある。

《我々の心を痛め、我々の咽喉を締めつける一切の悲惨を見せつけられてゐるにもかかはらず、我々は、自らを高めようとする抑圧することのできない本能を持つてゐる。(パスカル)》

 そして、最期はこのようになっている。

《また、暖かいものや、冷たいものの交錯がしきりに感じられて、近づいて来る「春」のきざしが僕を茫然とさせてしまふ。この弾みのある、軽い、やさしい、たくみな、天使たちの誘惑には手もなく僕は負けてしまひさうなのだ。花々が一せいに咲き、鳥が歌ひだす、眩しい祭典の予感は、一すぢの陽の光のなかにも溢れてゐる。すると、なにかそはそはして、じつとしてゐられないものが、心のなかでゆらぎだす。滅んだふるさとの街の花祭が僕の眼に見えてくる。死んだ母や姉たちの晴着姿がふと僕のなかに浮ぶ。それが今ではまるで娘たちか何かのやうに可憐な姿におもへてくるのだ。詩や絵や音楽で讃へられてゐる「春」の姿が僕に囁きかけ、僕をくらくらさす。だが、僕はやはり冷んやりしてゐて、少し悲しいのだ。
 あの頃、お前は寝床で訪れてくる「春」の予感にうちふるへてゐたのにちがひない。死の近づいて来たお前には、すべてが透視され、天のこう気はすぐ身近かにあつたのではないか。あの頃、お前が病床で夢みてゐたものは何なのだらうか。

 僕は今しきりに夢みる、真昼の麦畑から飛びたつて、青く焦げる大空に舞ひのぼる雲雀の姿を……。(あれは死んだお前だらうか、それとも僕のイメージだらうか)雲雀は高く高く一直線に全速力で無限に高く高く進んでゆく。そして今はもう昇ってゆくのでも墜ちてゆくのでもない。ただ生命の燃焼がパッと光を放ち、既に生物の限界を脱して、雲雀は一つの流星となっているのだ。(あれは僕ではない。だが、僕の心願の姿にちがいない。一つの生涯がみごとに燃焼し、すべての刹那が美しく充実していたなら……。)》
 ※底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版 

 

〇2020年長崎忌の記事から。

・<視点>感染症と核兵器は重なる。(朝日新聞デジタル8月9日)

 4月上旬、臨時休館した長崎原爆資料館にこんな幕が掲げられた。「核兵器、環境問題、新型コロナウイルス… 世界規模の問題に立ち向かう時に必要なこと その根っこは、同じだと思います」。世界を襲うコロナ禍と、威力を増し続ける核兵器をともに人類が直面する危機と位置づけ、「自分が当事者」であることを促すメッセージだ。

 目には見えないが、国を越え、分け隔てなく人の命を脅かす点で、感染症と核兵器は重なる。被爆者は75年前の長崎や広島で突然、その脅威にさらされた。

 

 長崎の被爆者、石原照枝さん(84)=熊本市=は原爆で母を亡くした。自身も後遺症に苦しみながら、被爆体験を語り、「人間の尊厳を奪う兵器を二度と使わないで」と訴え続ける。

 石原さんの背中を押すのは「原爆は決して過去のものではない」との思いだ。

 

 私たちはどこかで、原爆は歴史上の出来事で、今後、核兵器が実際に使われることはないと考えていないだろうか。

 75年がたち、被爆者の平均年齢は83・31歳になった。被爆者なきあとの核廃絶は、私たちが「当事者意識」を持てるかどうかにかかっている。(弓長理佳)

 

・被爆者代表・深堀繁美さんの挨拶

 原爆が投下された1945年、旧制中学3年生だった私は、神父になるため親元を離れ、大浦天主堂の隣にあった羅典神学校で生活をしていました。中学校の授業はなく、勤労学生として飽の浦町の三菱長崎造船所で働く毎日でした。

 

 8月9日、仲間とともに工場で作業をしていた時、突然強い光が見え、大きな音が聞こえました。近くに爆弾が落ちたと思い、とっさに床に伏せましたが、天井から割れた瓦が落ちてきたので、工場内にあるトンネルに逃げ込みました。夕方になり、トンネルを出て神学校に帰りました。夜遅くには浦上で働いていた5人の先輩が帰ってきましたが、一日もたたずに全員が亡くなりました。

 

 翌10日の昼には、浦上の実家へ戻ることを許されたので、歩いて帰ることにしました。途中には、車輪だけとなった電車や白骨が転がっており、川には真っ黒になった人が折り重なっていました。生きているのか死んでいるのかもわかりません。時々「水……、水……」という声が聞こえますが、助けることはできません。浦上天主堂は大きく崩れ、その裏手にあった実家も爆風で壊れていました。父は防空壕の中の兵器工場で働いていたので助かりましたが、姉2人と弟と妹は亡くなっていました。しかし、たくさんの死体を見てきたためか、不思議と涙も出ません。今思えば、普通の精神状態ではなかったのだと思います。

 

 まちには亡くなった人を焼くにおいが、しばらく立ち込めていました。何のけがもない人が次々に亡くなっていく現実を目の当たりにすると、次は自分が死んでしまうのではないかという恐怖感が、なかなか振り払えなかったことを覚えています。このような思いは、もう二度とどこの誰にもしてほしくないと思います。

 

 昨年11月、「平和の使者」として、フランシスコ教皇が長崎を訪問されました。最初の訪問地、爆心地公園に足を運んだ教皇とともに原爆犠牲者に献花した、あの時の場面が蘇(よみがえ)ります。そして、39年前に広島でヨハネ・パウロ二世教皇の「戦争は人間のしわざです」との印象深い言葉を、より具体化し、核兵器廃絶に踏み込んだフランシスコ教皇の言葉に、どんなにか勇気づけられたことでしょう。さらに、「長崎は核攻撃が人道上も環境上も壊滅的な結末をもたらすことの証人である町」とし、まさに私たち長崎の被爆者の使命の大きさを感じる言葉をいただきました。

 

 また、「平和な世界を実現するには、すべての人の参加が必要」との教皇の呼びかけに呼応し、一人でも多くの皆さんがつながってくれることを願ってやみません。特に若い人たちには、この平和のバトンをしっかりと受け取り、走り続けていただくことをお願いしたいと思います。

 

 私は89歳を過ぎました。被爆者には、もう限られた時間しかありません。今年、被爆から75年が経過し、被爆者が一人また一人といなくなる中にあって、私は、「核兵器はなくさなければならない」との教皇のメッセージを糧に、「長崎を最後の被爆地に」との思いを訴え続けていくことを決意し、「平和への誓い」といたします。

 2020年(令和2年)8月9日  被爆者代表 深堀繁美