日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎2016年を振り返って

 

(12月29日)
 今年7月に起こった相模原市の障害者施設殺傷事件は、障害者へのヘイトクライム(差別・憎悪の犯罪)だとの見方が広がっている。ほとんどの事件はその特異性とともに社会状況が反映しているが、とりわけ大きな社会的問題を孕んでいると思っている。

 生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、進歩や効率や出来ることに価値を置く前のめりの社会気風などが背景にあるのではないだろうか。

 これについて様々な分野の人々から発言がなされている。その中で、盲ろう者の福島智氏の次の発言が印象に残っている。

「被害者たちのほとんどは、容疑者の凶行から自分の身を守る「心身の能力」が制約された重度障害者たちだ。こうした無抵抗の重度障害者を殺すということは二重の意味での「殺人」と考える。一つは、人間の肉体的生命を奪う「生物学的殺人」。もう一つは、人間の尊厳や生存の意味そのものを、優生思想によって否定する「実存的殺人」である。」(毎日新聞2016年7月28日)

 

 ひとは生きものの一種であるとともに、様々な関係のもとで育まれ、主体的に感じ、考え、選んで現実に今生きていて未来につながっている、他に代替のきかない実存的存在でもある。

 この国では、社会福祉、社会保障関連の制度、施策や福祉施設などの現状は、衣食住の安定確保に主眼が置かれている現状である。それは生存の必要条件であるがそれすらも不十分なところもある。

 一方、一人ひとりの主体性を大切にして、心あらたまるユニークな取り組みをされている人や施設、共同体などもあるが、総じて様々な面できびしさがあると思う。

 だが、これは現社会の何としても実現の方向を見出したい課題だと思っている。
 また、一人ひとりの実存的存在の配慮は、子どもからお年寄りまであらゆるひとが対象となるのではないか。

※福島さん投稿はインターネットで、「相模原殺傷:尊厳否定「二重の殺人」全盲・全ろう東大教授 – 毎日新聞」で見ることができる。
http://mainichi.jp/articles/20160728/k00/00e/040/221000c

 

(12月30日)
 日々様々な出来事がおこり、一時大きな話題になるようなことも次々に流されていき、じっくり考えてみたいことも、いつの間にかに忘れられていくことも多い。

 奈良の旧家を舞台にした河瀬直美監督映画『沙羅双樹』の中で、息子が「神隠し」(行方不明)になって5年ほどの時間が経ち、その父親のセリフに「忘れてええことと、忘れたらあかんことと、ほいから忘れなあかんこと」とのセリフがある。

 わたしの場合、忘れてええもあかんもどんどん忘れていくが、記録しておきたいこと、問い続けていきたいこともあり、Facebookやブログにある程度整理して載せておくことも一つの方式だろう。

 1975年の広島カープの初優勝と原爆や戦争犠牲者の心身の後遺症が色濃く残る街の人との交流を背景に、中学生たちが成長していく様子を巧みに描いた重松清著『赤ヘル1975』のプロローグに次の文章がある。

「いまもまだ、原爆で負った傷に苦しめられているひとは数多い。目に見える傷もあれば、見えない傷もある。—-母ちゃんは言う。『みんな言わんだけなんよ。ほいで、言わんことは、ないこととおんなじなんよ—-』と悔しそうにつぶやくこともある。」とあり、印象に残っている。

 

 何かの形で語り伝えたり、記録に残したりしないと、結局うやむやになり、なかったことになってしまう。

 私たちは、様々な歴史や事柄、社会現象を記録に残されたものや伝えられた言説で考え、判断していく、また、どんな事象でも、様々な展開の可能性が考えられる中で起こっていることでもある。そのために、著作、記録、伝承などの役割があり、それをもとに想像力を働かせることの必要性を感じる。

 今年を振り返っても、様々な著述、知人のブログや送られてくる文書などを通して、考えさせられるようなこともいくつかあり、ともに探っていきたいなと思うこともある。