日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「いるだけでいい」と言い切れる〈ひと〉に

〇相模原・障害者施設殺傷事件に触れて
 それを知人から知らされたとき、「なんて酷いことをするのだ」というような思いが出てくる。その後のニュースや知人の話から、犯人の「重度の知的障害者や重複障害者は1人で生きることができず、税金で養ってもらっているのだから生きていてもしょうがない」というようなことをいっていると聞いて、「それはないよ」と、憤りを覚える。

 その発言に、わからなくはないという声もあるという。それに似たような話も聞いたこともあるが、いろいろ思うことと、それをある行為にあらわすこととは次元が違う。他に向かって行為・行動することは当然配慮や責を負うことになり、しかも一方的に危害を加えるなどというのはもってのほかである。

 大概事件はそれ独自の特殊な面と、背景に現社会のひとつのあらわれである面もある。このことに関連して、私の課題としている「いるだけでいい」と言い切れる思い方について体験を交えてふれてみる。

 

 9年程前、妻の九十歳を超えた両親と暮らすべくI市に移住してから程なく義父は寝たきりとなる。様々な経過があり、遠慮気兼ねが薄れてきたころから、よく話をするようになった。義父の探求心は旺盛で、頭はしっかりしていて、話を交わすのはとても面白かった。

 私が重度心身障害者や寝たきりの高齢者の介護関係の仕事をしていたこともあり、そのことなどを話しているときに、義父が「よくそんなんで生きていられるな」というときがあり、そんな風に思うのだと、少し戸惑いを覚えたことがある。義父はそれから間もなく亡くなった

 一昨年、私の母が亡くなったが晩年は心身の衰えが激しく、年に数度訪れる私たちに「こんなんで生きていてもしょうがない、早くおむかいに来てほしい」と言っていた。面倒を見ていた兄や妹の見るにしのびないようなことも、頻度を増していったそうである。

 義弟から母の死を知らされた時に、何かホットするような思いが出てきた。その後、この気持ちの動きはなんだろうかと、妙に心にひっかかるようになった。

 50歳過ぎから介護関連の活動を始め、かなり厳しい状態にある人にも携わっていた。「いるだけでいい」というようなことを思うこともあったが、母の死に対する様々な感情の揺れから、これは、ケア・介護関連の仕事の大きな基盤になるのではと考えるようになってきている。

 

 鷲田清一『「想像」のレッスン』に次のような文章がある。
「何もできない、すべて、人に頼らなければ生きていけない、赤ちゃんが育てられたように、同じように、すべてを他人に頼らなければならない老人が、ただそこにいるだけでいいと、他者に向かって言い切れるかどうか。そこに福祉の理念がかかっている」

 このような表現は、福祉社会やケアのあり方を問い続ける人からの発言にみられる。
 この考え方を広げていくと、老、幼、障害、重い病を抱えているなど福祉分野に限らず、すべての人に、何もできなくていい、ただそこにいるだけでいいと、言い切れるかどうかが、社会の質につながっていると思う。

 そして、自分に引き付けてみていくと、明らかに自分に不利益をもたらすようなことに対して批判、抵抗やその考え方に異をとなえることはあるにしても、その存在自体はまるごと肯定的に受け入れるということである。それを自覚しながら、課題にしていこうと考えている。

 

 その糸口として、次のことを思う。
 自己にとって他者は根源的に置き換え不可能な存在であり、根本的に異質な存在であるという見方。

 他者のことはどこまでも一面的にしか知りえない関係で、その知りえたと思っていることも、あくまでも自分にはそのように見えたということにすぎない。

 そのようなお互いが、相互に依存しなければ何一つできない、そういう弱さを誰もが抱えている「共生」を不可避とする存在という見方。

 生命の維持に不可欠な食について考えるだけでも、自分だけではどうすることもできないことは歴然としている。ほとんどのことを依存してもらっている環境にいるので見えにくくなっているが、失われて、あるいは容易にできなくなって、そのことの有難さや、意味を覚えるということもよくある。

 さらに、晩年のお年寄りに限らずどのような状態にあるひとにでも、それぞれがのびのびと生きていくことを願うのみで、そのための支え合いには携わっていくが、余計な横やりは入れたくないという思いがある。

 そして、他の存在に対してそのように思うことは、自分をもそのように見るということと裏表となる。
 ますます心身のギャップが拡がっていくだろう自身の今後を、嫋やかに暮らしていくときに、「いるだけでいい」と言い切れる視点を身体に落とし込んでおくことが大きいのではないだろうかと思っている。