日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎〈体験〉そのものの体験(石原吉郎のエッセイなどから)

〇体験から追体験をへて身についた経験へ
 最近、コミックエッセイ『カルトの村で生まれました』や、そのことも含めてその時期の実顕地のことについて、知人や元学園生、家族などと話し合ったり、自分のことをふりかえったりする。

 また、これまでも人の体験談を読んだり聞いたりするとき、あるいは自分の体験をふりかえるときがあるが、石原吉郎のエッセイ「〈体験〉そのものの体験」に触発されるものがあり、それに触れながら、〈体験〉について考えてみる。

 過去の体験をふりかえるとき、過去は常に、現在の中の物語化した過去であることに留意しておきたい。

 過去あったことを語る場合は、今の自分の見方から距離を置いて、その時の自分はどうであったかと絶えず引き戻す回路が必要となる。

 聞く・読む場合は、自分がその状況の中にいたら、どのようにふるまっていたであろうかという視点からみることが肝心要で、特にその人にとって衝撃的な痛みをともなった体験の場合、その実時間のなかに私自身をおいてみることがないと、表層的なとらえ方になってしまいがちになる。

 それと、その状況が自分の中にありありと映像化しないと、身近な自分のものとなっていかない気がしている。そういった意味ではコミックエッセイの人物や顔のコマの絵は大きな役割を果たしていたのではないだろうか。

 

 石原吉郎のエッセイ「〈体験〉そのものの体験」(『一期一会の海』所収)に触れながらみていく。

 ここで取り扱う〈体験〉は、体験した人のその後の生き方に多大な影響をもたらしただろうことについてみていく。厳密には日々そのものが体験の連続で、多かれ少なかれ何らかの影響をうけていると思う。

「〈体験〉そのものの体験」は1972年『望郷の海』を刊行した翌年の、若い人たちの前での〈体験〉というテーマの講演で、体験についての一般的なとらえ方に距離を置いて、石原なりに考えていることを述べることからはじまっている。

 

・「戦争は私たちを、言わば集団として、〈体験〉の場に立たせた訳ですけれど、そこで私たちが体験したものの内容は、一人一人違っているはずだと思います。と言うよりは、それらの〈体験〉の一つ一つは、それぞれに隣人の関与し得ない孤独な出来事だったのではないか。」

・「〈体験〉の現場では、〈体験〉の主体は冷静ではあり得ない。その判断は多かれ少なかれ、混乱しており、極端な場合には主体そのものが喪失しており、しかもその喪失した状態がそれ以後も、持続していることが多いからです。したがってそれが本来の大きさと深さで受け止められるためには、何よりも主体の回復、それからそれを考えるための言葉の回復、それからその回復のための時間が必要だ、と私自身の通ってきた経過から考える訳です。」

・「最初に訪れる衝撃は、おそらく偶然なものであって、言わば運命のように人に訪れる。これに対する私たちの反応は、多かれ少なかれ肉体的、防衛的なものであって、起こったことの意味を理解し得ないままで、記憶となって私たちの内部にその痕跡を残す訳です。しかし、〈体験〉の現場を遠ざかった時点で、〈追体験〉として私たちが起す行為は、それはもはや意志的な必然性を持った行為となる訳です。」
(「〈体験〉そのものの体験」より)

 

 最初の出来事の実時間の中で遭遇したことは、原体験ともいえる予感としての〈体験〉で、多かれ少なかれ様々な記憶の形で潜在的に残るものとなる。

 その原体験を主体的に受け止め、そのことと向き合うための意思が少しずつ目を醒ましていくことで、〈追体験〉にはいっていく。石原は、この過程は〈体験〉そのものに見合う混乱と苦痛が始まり孤独な闘いとなったという。

 そして〈体験〉を受け止める主体の回復と言葉の確立をともなって、その〈追体験〉を意志的に必然的に追跡していく過程となったという。

 

・「体験とは、一度絶え切って終るものではない。くりかえし耐え直さなければならないものだ」(石原吉郎「一九六三年以後のノートから」)

・「散文によってこのようなエッセイを書き始めたのは、帰国後十五年程たってからであります。 私にとって表現という行為に追いつめられることに於いて、〈詩〉と〈散文〉のこうした対応の違いは、 非常に重要な意味を持っています。(中略」
 帰国直後の精神的な混乱とアンバランス、 そしてそれに当然付きまとう失語状態から、曲がりなりにも抜け出すことができたのは、 私に〈詩〉があったからだと思います。その後、私が散文を書き出すまでの十五年程の期間は、 外的な〈体験〉を内的に問い直し、そこから問い直す主体とも言えるものを確立するための、 言わば試行錯誤の繰り返しであった。」

・「私は八年間の抑留の後に、一切の〈体験〉を保留したという形で帰国したのですが、これに引き続く三年程の時間が、 現在の私をほとんど決定したように思います。この時期の苦痛に比べたら、強制収容所での〈生(なま)の体験〉なぞは、 ほとんど問題でないと言えます。」

・「〈体験〉の名に値する体験というのは、外的な衝撃から遙かに遠ざかった時点で、初めてその内的な問い直しとして始まる。—-。したがって私に、本当の意味でのシベリア体験が始まるのは、帰国後のことです。もし、このような過程が私に起こらなかったとしたら、たとえどのような激烈な情況を通過したにしても、〈体験〉というものは遂になかっただろうと思います。」(「〈体験〉そのものの体験」より)

 

 どのような体験であっても、一人ひとりのものであり安易に比較できるものではないが、石原の苛酷な抑留体験から時を経てエッセイに書き続けるようになる〈体験〉についての講演は、体験について考えていくときの参考にしたいことが多々あると思っている。

 日々様々なことに遭遇し、なんらかの印象を残した場合、原体験として一次的に記憶されるが、それに向き合うことなしでは、徐々におぼろげな歪んだものとなり、やがて忘れられていくことにもなる。
 どのような衝撃的な体験であろうと、似たような経過をたどるのではないだろうか。

 その原体験から、意志的なものが生じ、必然的に主体的に正面から向き合う追体験の言語化を経て、その人の血肉となり、身に付くものがある場合に、その人にとっての忘れがたい経験となる。

 つまり、体験は一つの体感であり、何らかの痕跡は残すと思われるが、やがて忘れられていくもので、繰返しの追体験によって耐え直され、多かれ少なかれ物語化するが、その人の身体に刻み込まれた経験となっていく。

 そして、Cさんや元学園生と話をすることをとおして、現在私が向き合おうとしているコミックエッセイに描かれたころの実顕地および(理想を掲げた)集団の中での個人について考えていくとき、自分自身のことをふりかえるとともに、その一人ひとりの体験をつぶさにみて、聴いていくことの積み重ねが大事だなと思っている。

 ※石原吉郎『一期一会の海』(〈体験〉そのものの体験」日本基督教団出版局、1978)

 

【参照資料・詩】
※石原吉郎の詩から
「河」
そこが河口
そこが河の終り
そこからが海となる
そのひとところを
たしかめてから
河はあふれて
それをこえた
のりこえて さらに
ゆたかな河床を生んだ
海へはついに
まぎれえない
ふたすじの意志で
岸をかぎり
海よりもさらにとおく
海よりもさらにゆるやかに
河は
海を流れつづけた
(『石原吉郎全集』第一巻より)

 

 石原吉郎(1915~77年)は昭和14年24歳のとき召集され、特務機関兵として旧満州に赴き、同20年の敗戦後は旧ソ連軍の捕虜となり、同24年にロシア共和国刑法五八条(反ソ行為)により起訴、 重労働二五年の判決を受ける。その後シベリア各地の収容所を転々とし、結局八年間の抑留生活の後、同28年スターリン死去による特赦によって、日本本土の舞鶴港に帰還した。38歳になっていた。