日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎一人ひとりの〈生〉に寄り添って(石原吉郎の論考などから)

〇私的体験と計量的発想法
 先日、交流している福島の友人Sさんと話す機会があった。東日本大震災のことに話が及ぶ。

 復興についてはまだまだなこともあるが、そうじて現象的には落ち着いてきているのではないかと仰っていた、

 Sさん一家は大震災のただ中にあり、一時的には困難を抱えていたが、時間とともに乗り越え、何があっても備えていくような様々な面での心構えはしているそうで、いまでは日常的にはほとんど意識することはないそうである。

 それでも、大震災のことだけが要因なのかはよくわからないが、いろいろな意味で精神的な困難を抱えている子、その親などと接することもあり、その見方、対応の仕方などで話をしたりした。

 一人ひとりをみていくと、次なることに進んでいる人、未だに困難を抱えている人、精神的なダメージを引きずっている人、その体験を大きな経験として向かい合っている人など、個々人の心の底にある状態までは分からないが、個々の体験に対する捉え方はそれぞれ異なるだろう。

 先日、「私的信念と私的態度」について触れたが、体験そのものも、結局は私的なものだと思っている。

 大震災のこと、その後の復興にまつわる種々のことも含めて、そのことの意味づけ、歴史的な位置づけ、行政などの各種施策など、俯瞰的に総合的にとらえることも必要だとは思うが、どのような現象も、出会った人の、その一人ひとりの〈体験〉、一つひとつの事象の総和であり、その一人ひとりに寄り添ってみていくことから、その事象を生きたものとしてみていけるのではないだろうか。

 それは日常的に起こってくる出来事、事件、病気、障がいなども同じで、どこまでも個々の私的な〈体験〉である。

 

 ここから少し見方を広げて、集団生活における個々の私的体験に関連して、詩人石原吉郎のエッセイに触れながらみていく。

 石原吉郎は、1945年ソビエト軍に抑留、25年の「重労働刑」を宣告されシベリアの強制収容所で服役。1953年スターリン死去に伴う「特赦」により帰還、その後、本格的に詩を書き始め、その分野で注目されるようになり、1970年前後・55歳頃になって、シベリア体験から得た思想を書き継いで『望郷と海』などのエッセイ集を刊行する。

『望郷の海』は「確認されない死のなかでー強制収容所における一人の死」とのエッセイから始まる。その冒頭に、次の言葉がかかげられ、本文が始まっている。

 

・「百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計だ。(アイヒマン)
ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。」
(石原吉郎『望郷と海』ちくま学芸文庫、1990年より)(※アイヒマンの言葉は、他の人の発言ではないかといわれている。)

 

 この文章の「死」を「生」に置き換えて読んでいくと、「ひとりひとりの生がない」「その生においても自立することなく」など、ある信念のもとに形成された集団の陥りやすいところがみえてくる。

 集団は集団で暮らしている中に限界があり、個として自立した責任主体であることを常に自覚するような回路を繰り返し作っていくことがないと、結局、集団の掲げる信念や利害によって支配されざるをえないだろう個人、ただ集団構成員の数にすぎない人を産み出すことになりがちになる。

 

・「私は、広島告発の背後に、『一人や二人が死んだのではない。それも一瞬のうちに』という発想があることに、強い反撥と危惧をもつ。一人や二人ならいいのか。時間をかけて死んだ者はかまわないというのか。戦争が私たちをすこしでも真実へ近づけたのは、このような計量的発想から私たちがかろうじて脱け出したことにおいてではなかったのか。

『一人や二人』のその一人こそが広島の原点である.年のひとめぐりを待ちかねて、燈篭を水へ流す人たちは、それぞれに一人の魂の行くえを見とどけようと願う人びとでないのか、広島告発はもはや、このような人たちの、このような姿とはっきり無縁である。」(「アイヒマンの告発」『続・石原吉郎詩集』思潮社より)

 

 私(たち)のものの見方に、統計的、計量的な発想から現象を一般化して判断しがちになる傾向がある。様々なものごとを見ていくとき、その一つひとつ、一人ひとりの多様な思い方、暮らしに向き合わずに、無機質な統計数字、計量的数字で見てしまいがちになることが多い。

 震災の規模、事件における死者の数、集団構成員の数、会社利益や収入の多寡、視聴率や人気投票等々、それによって一喜一憂、大小、軽重、ニュースの取りあげ方が左右される。

 数字は内面化の困難な記号にすぎないものであり、一人ひとりの思いが員数に集約され数値化される数によってある方向性へと決まっていくことに抵抗感がある。統計数字はどこまでもある傾向であり、一つの目安となる場合もあるが、その意味するところの実態とはかなりずれたものであるとの認識が必要ではないだろうか。

 自分のことをみても、社会の各事象を見ていくときに、計量的なものに影響されて、「そのひとつひとつを慎重にじっくりと確かめもせず」、その現象をとらえていることもあるのではないかなと思う。

「生においても、死においても、ついに単独であること。それが一切の発想の基点である。」
 そのような一人ひとりによって社会、共同体、集団など形態はどうであれ成り立っているのであり、その観点を心において、個々の私的体験とその背景をみていきたいと思っている。

 

【参照資料】

「確認されない死のなかでー強制収容所における一人の死」」の末文は次のようになっている。

・「死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側――私たちが私たちであるかぎり、私たちは常に生の側にいる――からは、何の意味もそれに付け加えることはできない。死はどのような意味も付け加えられることもなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちにはなんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう。しかしその頽廃のなかから、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな頽廃であると私は考えざるをえない。生においても、死においても、ついに単独であること。それが一切の発想の基点である。

 私は広島について、どのような発言をする意志ももたないが、それは、私が広島の目撃者でないというただ一つの理由からである。しかしそのうえで、あえていわせてもらえるなら、峠三吉の悲惨は、最後まで峠三吉ただ一人の悲惨である。この悲惨を不特定の、死者の集団の悲惨に置き代えること、さらに未来の死者の悲惨までもそれによって先取りしようとすることは、生き残ったものの不遜である。それがただ一人の悲惨であることが、つぐないがたい痛みのすべてである。

 さらに私は、無名戦士という名称に、いきどおりに似た反撥をおぼえる。無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。不幸にして、そのひとつひとつを確かめえなかったというのであれば、痛恨をこめてそのむねを、戦士の名称へ併記すべきである。

 ハバロフスク市の一角に、儀礼的に配列された日本人の墓標には、今なお、索引のための番号が付されたままである。」(石原吉郎『望郷と海』ちくま学芸文庫、1,990年より)