日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎義父母の朝鮮移住と在朝日本人について

〇義父母と戦争体験
​ 義母一家が朝鮮に移住したのは大正末頃だった。その理由を詳しく話してもらわなかったが、心機一転的な要素があったようだ。 3・1運動後の文化政治の陰で、治安第一主義の標榜のもとに警察官の募集が積極的に行われ、義母の父親は巡査として赴任した。義母は女子師範学校卒業後、小学校の教職に就いた。
 1943年に結婚し、44年には義父の父が亡くなり、そこで義父一家が島根から朝鮮に移住し、終戦に伴って一家で元山脱出となる。

 義父は一家の長男として、癌に犯されていた祖父やまだ小さかった弟・妹のことを思って、商業学校卒業後、島根県では構造的な不況が収まっていないこともあり、給料がいいことと一度故郷から離れたいとの考えがあったようで、総督府の監督のもとにある朝鮮殖産銀行に就職した。1939年年3月から43年2月まで応召、中支に勤務。1945年4月から9月まで応召、朝鮮に勤務、その時点で、終戦に伴い召集解除された。身体が弱ったこともあり軍隊では衛生兵であったそうだ。

 

 ここでは、日本人の朝鮮移住状況についてみていく。依拠したものは高崎宗司『植民地朝鮮の日本人』(岩波新書)、木村健二『在朝日本人の社会史』(未来社)、梶村秀樹『植民地と日本人』(河出書房)など。
 朝鮮への移民は韓国併合以前の早期の段階から家族を伴う形で行われていた。日清、日露などの戦争にともなって移民奨励政策、1900年前後から、日本では朝鮮移民論が盛んに唱えられた。一つは日本の過剰人口のはけ口として、もう一つは戦争に備えて日本の勢力を移植するようなものとして。さらに、韓国支配をより確かにするべく、移民奨励は続く。2007年には島根県知事のリーダーシップにより、韓国での土地購入と農場経営を事業内容とする山陰道産業株式会社が設立された。そして韓国併合となる、

 このような動きの中で、国家(政府出先機関や軍部)や日本国内巨大資本と関係を切り結びつつ存在していた、しようとしていた人もいるだろうし、新天地の朝鮮に淡い期待をかけるような人も現れてくる。さらに、日本国内における生活基盤を喪失し,ないし危機的状況におちいったもの、一旗あげんとするもの、アジア解放を抱く壮士、日本で食い詰めたもの、やくざ的な人もいただろう。
 朝鮮への日本人移民の多くは弱小の身であるがゆえに、植民地支配の傍流に位置せざるをえず,それゆえことさらに侵略的となり,後続の同業者などに排他的に対応し,また植民地権力から利用され,ときには軽んぜられることとなった。
 なお、在朝日本人社会には、日本人全体の朝鮮人に対するもの、上層の日本人による下層の日本人に対する二通りの差別があった。
在朝日本人は、1910年末17万強、14年末29万強、母一家が移住する19年末34万強、職業別では官吏がきわめて多い。1930年には約53万になる。関東大震災恐慌、昭和恐慌とつづき、日本が不景気になったことが大きな理由で、やがて、日中戦争となって、太平洋戦争になっていく。

 

 日中戦争開始後、1938年、朝鮮においての学校での朝鮮語使用の禁止、39年、朝鮮の姓名を日本式の姓名を選ぶことが奨励され、変えるものが一千六百万、全人口の8割に及んだ。1939年から45年まで百万人余りが、強制的・集団的につれてこられて、戦時日本のもっとも苛酷労働にしたがった。
 このような中で、民衆レベルで朝鮮や朝鮮人を蔑視するような風潮、朝鮮人に対する優越感、差別感もますます強くなっていった。

 一般に大量の海外移民には2つのタイプが認められる。1つは,後進地域に植民者,開拓者,支配者として移住していく場合。他の1つは,先進地域に低賃金労働者として移住していく場合である。日本の場合,一つ目のタイフの移民は朝鮮,台湾,中国東北へのそれに代表され,後者のタイプはハワイ,北米,中南米への移民に代表される。
 二つのタイプの移民はそれぞれ生活水準の向上を目指して行われたのであるが,移住者が移住先で差別者となるか被差別者となるかという点では大きな違いを持っていた。多くの場合,そうした差別者,被差別者としての行動には同時期の日本人が持っていた閉鎖的な人種的偏見の同じ価値観が形を変えて現れていたと思われる。

 朝鮮への移民は,単に移民問題という次元にとどまらず,戦前日本のアジア侵略を方向づけたという点、朝鮮人に対する差別構造などについて考えるにあたっての大きな意味を持っているのではないか。

 

 義母からは、「できる・できない」で人やものごとを判断する傾向が強かったが、特に朝鮮人に対する差別的なことは聞かなかった。むしろ朝鮮時代の話は懐かしがってよく話をしてくれた。晩年になるまで、朝鮮時代の教え子から葉書などをいただいていた。
 義父については、死後カリフォルニアから電話があった。戦前の朝鮮元山での殖産銀行時代の同僚で手紙での交流があった朝鮮の人である。祖国分断の中で苦労されて、事情あってアメリカに移住してアメリカ国籍を取得し、現在は子や孫に囲まれながら元気に暮らしているそうである。義父の死を伝えると、声が途絶え、泣き出してしまった。「良い人が皆死んでしまう----」後はことばにならなかった。丁寧に経過を伝えて電話は終わった。

 これは私の見解だが、義父母は特別に優れた思想を持っていたとは思っていない。私から見たら、義父は大層魅力があったが、それよりも義父母のおかれていたある種恵まれた境遇にあったことが、普通人としての素朴な感覚をある程度維持できたのではないだろうか。
 戦時中の振る舞いやあり方で、人を判断することはしたくない。その体験からその後どのような生き方になっていったのかに注目していきたい。苛酷な状況にあったら、人はとても弱いものだと思っている。勿論、どのような状況でも、思慮深く行動できる人はいると思うが、きわめて少数であろう。そう思っているので、尚更、社会や政治の在り様に注意深くみていきたいと考えている。