日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎インタネットを介しての交流の可能性

〇ネットによる特定テーマの広場
​ 先日、『叱らないでもいいですか』の本の書評で、「教師は、自校や近隣の学校のみの交流だけでなく、せっかくインターネットやブログ、という手段があるのだから、学校経営等や自分の理念についても、いろいろとさらけ出して、交流していくといいと思う。」を取り上げて。ネットを介したバーチャル共同体のことに触れた。それは、共同体というより「広場」というイメージである。

 今年からブログを始め、Facebookもある程度意識しながら使うようになり、F氏のHP「ビジョンと断面」と相互リンクを張って交流をはじめるようになる。
 私とF氏はともに「われ、ひとと共に繁栄せん」という理想を掲げたコミュニティに25年以上関わり、疑問を覚えて離れた。私の場合そこでの体験は、いろいろな意味で大きかったこともあり、その体験の中身についてきちんと考えておきたいと思っている。おそらくF氏も同じような感情を抱えておられるので、そのことで、HPの一つの特徴になっている。

 勿論、そのことはあるにしても、日々のこと、社会で起こっていること、自らの関心ごとについて、その現象に現れている元のあたりを考察していくことに意欲の高まりを覚える。
 コミュニティのことも含めて、日常や社会で起こっていることを、より深めていけるような様々な意見が交流する広場になっていったらいいなと思いはじめていた。


 最近になりこのHPに、R氏やM氏の投稿があり、トルストイの晩年、ロシア・ユートピア、コミューンの話題などつづき、その過程で、特定のテーマに関する意見を交換し合うような広場にもなっていったら面白いなと思うようになる。

 NPO法人など運動体、目的意識を持ったコミュニティなどでは、大体はその目的にかなうような視点からの投稿記事によって一つの特色を打ち出している。また、実際の活動形態があっての補完的な位置づけにもなっているものが多い。
 私が思い描くのは、現実社会での地についた活動形態はなくても、組織的なつながりがなくても、インターネットを活用した、特定テーマのバーチャルな交流の場があってもいいのではないか、可能性を秘めているのではないかと考えようになる。

 そこでは、それぞれの関心に照らした、私の関心に照らしていえば、福祉、人の育ち、高齢化社会、地域活動、私が長年所属していたコミュニティなどに、提案、意見、感想などを発信していきたい人たちのネットを介した横の繋がりだ。
 また、そのような狭い枠組みでなく、日々起こってくることについて、より深く考えていこうよという、大きな枠組みで考えていきたい人の交流の場なども魅力ある。そこから具体的な動きにもつながっていくこともあるだろう。
 HP「時空遍歴」でのF氏の俳句などの記事も楽しい。ネットを介した仲間の俳句結社があっても面白い。プロと言われている俳人が開いているネット俳句結社はある。このような特定テーマ別の、出入り自由の、仲間同士のサイトがいろいろあれば、自分のサイトで発信していくと同時に、関心のあるテーマのサイトに投稿していく。

 

 このようなことを思うようになった理由をいくつかあげる。
・人間の暮らしというものは本質的に集団的なものである。したがって、集団全体の成熟度を上げて、知性を活性化し、感情を豊かにして、集団としての生きる力を高めることが、心地よい生活をするためには必要である。(個人的な発信は、問題意識を持ったほかの人とつながることで、より力をもらい勢いが増してくる)

・何かを公的に発信する時に、自分が考えたり感じたりしたことの深みを掘り起こして、工夫を重ねながら表現する。その場合、誰かの発言に示唆されてきづいたこと、揺さぶられたことなど心を動かされて、あるいは違うのではないかなどで、発信したくなることも多い。また表現することで、自分でも思いもよらないことばやイマージュが沸き起こってくる。その相互作用による意見交換も面白いのではないかと思っている。

・個人的な発信は、機会に恵まれない限り情報の洪水の中で埋もれしまう。バーチャルな広場も同じだが、すくなくとも、横の繋がりの人たちの共有をえる役割がある。また、個人的な表現活動とともに、複数の人で織りなす表現活動の可能性を感じている。

 

 (私の個人的な体験から)
・福祉・保健・医療の現場など、自職場ではなかなか検討しづらいものである。だが、様々な事例を検討する情熱を抱えた人も少なからずいる。このようなことも、地域社会の中で専門や職場などと距離を置いた繋がりや、ネットを介した繋がりで意見交換していく。
・いろいろ思うことがあっても、なかなか発表する場や機会、技術的な理由などによって発信できていない人が多い。(福祉活動をしていて、特に感じることが多かった)
・安曇野の活動などに触れ、共鳴して何か一緒にしていきたい、支援していきたいと思っても、高齢化で身体的な限界を感じている自分(達)のやれることは限られている。

 など、他にもいろいろな魅力があると思っている。

 

知人のFacebookへの投稿「責任追及は横に置いて」遺族とJR西日本の「いのちをめぐる対話」に、次のように書かれていた。

 (被害者・加害者の図式、責任追及という角度ではなく)
「ただ感嘆するのは、この対話で貫かれた精神は最初からもっと明解で、『真実究明のため、責任追及を横に置く』という考え方だった。なぜそういう考えが『ふつう』の人に可能なのかのという不思議感は今も残る。----いわば誰もが肯定する責任追及の感情論を『棚上げ』し、『事実と条理をつき合わせてみる』という一点で。」


  ネットを介した特定テーマの広場となっていくのに、どのような形態が相応しいのかは、そのことに詳しい人に是非お聞きしたい。 Facebookも面白い試みだが、煩雑な感じがするのと、次から次へと流れていってしまうような気がしている。あるいは使い方でいけるのかどうかよくわからない。このことについては、もっと探る必要がある。

 また、ある程度の分量になったら書籍化して資料にもしていくことも考えていきたい。『叱らないでもいいですか』はFacebookからブログにリンクしていて、時折、閲覧していて楽しいし考えさせてくれるが、書籍化することで、その一貫した視点がよりよく伝わってきて、教育理念の、現場サイドから見た優れた資料になっている。