日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎自分のこととして(たまゆらの記㉙)

○最近韓国のTさんと交流を始めた。約35年ぶりの再開となる。

なんか急に韓国が身近になった。夫婦で養鶏に携わっているので、最近ニュースになった鶏インフルエンザなどがあると大丈夫かなと気になる。

友人から声かけてもらって、機関紙、カレンダーなど送ってもらっているSさんの活躍しているボリビア、我が家に遊びに来たKさんが暮しているパプアニューギニアなど、そういうことがなければ、いつまでも遠い国のままであるだろう。何かあると、気にかかる自分がいる。

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○自分のこととして

50歳を過ぎてから難儀を抱えた高齢者や重度心身障がい者関連の活動をしていたとき、気持ちの置き所は、一人ひとりに応じていろいろではあっただろうが、総じて第三者的な視点で関わっていることが多かったと思う。

 

今は自分のことのように感じることも多く、あの時にあの人はこんな気持ちではなかっただろうかと振り返ることもある。

 

福祉活動の中で、引きこもりの当事者やその親、アルコール依存症を抱えた人や家族、同じような困難を抱えている人など、生きづらさ抱えている当事者に寄り添う人や一緒に支援グループを作っていることも多い。仔細に見ていけば一人ひとりは違っていても、共感して話を聞いたり、安心してともに考えたりできるのだろう。

 

嬉しいこと、楽しいことだけではなく、悲しいこと、困ったこと、苦しいことも共に分かち合える人に包まれているのは、人が前向きに生きていくときに、大きなことだと思っている。

 

ある問題について、「自分のこと」としてみるのか「他人事」としてみるのかで、向き合う態度が極端に違ってくる。「他人事」は、時がたつとともに流され、関心が薄まっていき、やがて忘れさられていく。

 

大きな災害が起こるたびに、そこに親しい友人が関わっていると、どうしているのか、その後どうなのか、大層気にかかってくる。日本に関しては、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨など、どの地域でも親しくしている友人がいる。そうでないと、自分のことというよりも、距離を置いてみることが出来る。

 

だが、「自分のこと」として、想像力を働かせることから見えてくることも多いのだろう。

 

考えていくときに、「他人ごと」と「自分のこととして」と、どちらにたって見ていくのか、大きな分岐点になるような気がする。少なくとも「他人ごと」である限り、きちんと考えていけないと思っている。

 

大きな病気や難病を抱えた人、高齢になって困難を抱えている方など、他人事ではなく、自分のこととして身近な課題になってきている。