日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎「ファスティング」と「自動解任」から

(12月16日)

 知人F氏が体験も踏まえながら文学作品を書いていて、とても楽しみしています。推敲段階にあるそうで、時々Facebookに一部掲載され、それに様々な人がコメントを寄せています。最近の投稿にその村の「自動解任」の様子が描かれていて、何人かが反応し賑わっていました。
 その記録に促されるものがあり、自分の体験を振り返ってみました。

 わたしは、しばらくある実顕地の人事係をしていました。皆から出された希望一覧表に沿って、結構時間をかけて検討していました。その時念頭にあったのは、①各部門、職場がより安定するように、②各人の持ち味が生かされるように。の二点だったと思います。そして、①の比重が随分強かったと思います。
 また、全員対象の「自動解任」であるにも関わらず、検討する人たちがかなり固定化していたので、強力な管理体制になっていたことが、大きな問題点だったと思います。

 これについては、あらためて触れていくし、「自動解任」の有意義な面についても考えていこうと思っています。(※追記:「広場・ヤマギシズム」1月15日に掲載)

 

  半年ごとの全員対象の自動的な職務の解任というのは、とても面白い試みだと思います。実際どのように実現していくのかかなり難しいですが。
 役割・職務というのは託されたものであり、私のものではないと思います。実際にいろいろな役割からはなれてみての実感です。
 定期的にこのような機会があり、真面目にそれを運用していけば、職務・役割のファスティング期にあたるかも知れません。そして、心身をリセットして新たな職務・役割を託されることになります。

・ (コメント・F氏)なるほど「職務・役割のファスティング期」というのはすごい卓見ですね。これまで何か目新しそうだけでよく解ろうとしなかった「ファスティング」というものの本質がよく解ったような気がします(実態はまだまだですが)。身体というのはどうしても「自分のもの」という観念の最たるものですが、ファスティングとは実は「身体の自動解任」だったのですね。

(返信)僕のなかでは「自動解任」と一週間の「特別講習会」や「内観研修」なども繋がりました。心の持ち方、考え方、身体に関わらず、習慣化あるいは固定化したものを根本的に見直すには、それなりの機会をつくる必要があると思います。「自動解任」の試みは、半年ごと自動的に「任」を解き、見直す仕組みとして考え出したことです。実際はおざなりになってしまいましたが、その意義はあると思っています。

・ (コメント・M氏)議員は自動解任ですかね。

(返信) 議員は地域の人びとや社会から託されている職務だと思います。それは利益をはかるというよりも、住民の質の良い暮らしを実現しようとする活動だと思っています。時には、大きな声をはねのけて、ささやかな声をあげ続けることや、自分とは意見が異なっていても、仲間と力を合わせるような政治力も必要になる場合もあるでしょう。選挙の時だけではなく、定期的に自動解任のような機会をつくるのは大事ではないでしょうか。僕が知る限り、望さんは皆から信頼されて託されているような気がしています。

 

 (12月19日)

〇ファスティングと自動解任から「所有」問題に広がっていく。
 自分の思いと身体行動とが極端に齟齬をきたすと殊更「老い」を自覚する。しかし、年齢に関係なく、自分の身体について、ごくわずかのことしか知らない。むしろ、自分の身体が、今どういう状態にあるのか、よくわからずに、医師など専門家の意見や測定機器などを参考にするが、実際のところよくわからないことばかりである。
「フットリーディング」や「ファスティング」をすることで、殊更そのようなことを思った。

 ファスティングの大きな目的に、体内にたまった汚れや毒素を取り除き、腸内細菌叢や体内の微生物の働きを活性化することにある。
 実は、親から受け継いだDNAに加えて、今までの食生活や環境によってつくられてきた腸内細菌や微生物との共生によって自分の身体が成り立っている。生命現象など細胞内の要であるミトコンドリアも真核生物の細胞小器官で他生物由来のものである。

 託された任務を自動的に解任されるとの「自動解任」の話に強引につなげれば、身体に託されてわたしの活動ができ、わたしの活動に託されて身体がつくられていく。
 そこから「わたしの身体は、わたしのものであるとは、そう簡単に言えないのではないか、という「所有」問題に広がっていく。

 鷲田清一は、〈身体における所有関係は、ガブリエル・マルセルがいう「わたしが事物を意のままにすることを可能にしてくれるその当のものが、現実には私の意のままにならない」という逆説的な事実から出発しなければならない。〉
〈本質的には「わたしのこころ」「わたしのからだ」は、本当はわたしのものなのかどうか、という問題を常に抱えている。(*鷲田清一『ひとの現象学』など〉と、そこから所有論を展開している。