日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎人間関係の悩みについて(ある自殺から)

〇自殺について
​ 最近知人から、 身内が自殺して大層ショックだったという話を聞いた。私も「エーあの人が」と聞いて大層吃驚した。
20歳代のころから、何人かの知人が自殺している。そのことも含めて、自分との関係の取り方について考えてみようと、ブログに発信している。

 自殺についての福祉関連の事例報告で「ライフリンク」の記事がよく取り上げられる。

 NPO「自殺対策支援センターライフリンク」www.lifelink.or.jp/hp/top.html
【「生き心地の良い社会」をめざして :『いのちを守るために、みんなで つながりあっていこう』 『自殺に追い込まれていく いのちを、 みんなでつながりながら守っていこう』 私たちは「ライフリンク」に、そうした決意を込めています。めざしているのは「生き心地の良い社会」を築き上げること。 誰しもが自殺の脅威にさらされることなく、 自分自身であることに満足しながら生きることのできる社会の実現です。】

「日本の自殺の現実。統計の取り方にもよるし、一応の目安としてあげる。」
・【年間自殺者3万人超・10年連続】:日本では、毎日90人が自殺で亡くなっている「未遂者は既遂者の10倍はいると言われているから、毎日1000人もの人が自殺を図っていることになる。【交通事故死者数の5倍以上】【自殺による深刻な影響 国内で毎年200万人】

・【自殺死亡率 米国の2倍、英国の3倍】: OECD諸国の中で、精神病床の多さと自殺率の高さなど悪い意味で突出している。

・日本では、20代、30代前半の自殺も多く、死因の半分以上を占めている。特に日本の男性中高年層自殺率は世界でもトップレベルで、理由としては健康問題が突出している。

・自殺要因の連鎖図:生活困窮者は、複合的な困難を抱えているため、次第に地域との係わりから遠ざかり、孤立化していく傾向にある。生活困窮と社会的孤立は表裏一体の傾向がある。

 

「ライフリンク」は自殺について様々な角度から取り上げている。ここではそれも参考にしながら自分との関係の取り方についてみていく。

 よく取り上げられることに、欧米諸国はもとより紛争地区や日本よりも困難を抱えている地区よりも、はるかに日本の自殺者が多いという報告がある。

 これについては、数字や量で見ていくと分かりづらいが、困難を抱えているのは、一人ひとりの現実である。

 昭和22年生まれの私の育ったころは、洗濯機、冷蔵庫、クーラーなどはなく、子どもたちはそんなの考えられないと言ったりしている。しかし、自分や家族が困難を抱えているなどと思ったことは全くなく、周りを見てもそれが当たり前であった。

 困難であるかどうかというのは、自分のもっている基準からと、周りとの比較から生じている。
 総体として豊かになっても、格差や貧富の差が激しければ、そのように感じる人も多くなる。

 

 また現代社会は、自立、自己実現、自分探しというようなことが強迫観念になっていて、「他の人に迷惑をかけたくない」「自分のことは自分で何とかする」というような自力の考え方が大きな価値観になっていて、それはその人の活力の源にもなるが自分の現状を冷静に見つめることの阻害要因ともなっていく。

 自立」というのは他の人に頼らずにすむこと、つまり「依存」(ディペンデント)ではなく「独立」(インディペンデント)であることをいうのだろうか。しかし、他人にまったく依存しないで生きてゆけるような人は存在しない。それどころか、生まれてから死ぬまであまたのことに支えられて生きてゆけるのである。ほんとうの「自立」とは、いつでも支えあうことのできる相互依存、相互共存的な人的ネットワークをきちんと持ちえていることをいうのではないのか。

 自分との関係の取りづらさについてブログでとりあげてきたが、そのことを押さえた上で社会的な支援を考えていくことが必要ではないかなと思っている。

 

 世界保健機関(WHO)は調査の結果、2003年に「自殺は、そのほとんどが防ぐことのできる社会的な問題である」と明言し、適切な防止策を打てば自殺が防止できるとした。

 社会的な支援の問題がより大きな課題なのだが、人間関係の悩みとは「自分自身について」というものと「 対人、対社会関係にまつわること 」というものの二つがある。この二つはどこかで根っ子のつながっているのではないだろうか。
「 わたしたちは自分と折り合いをつけられる程度でしか 他人と折り合いをつけられない」

 なお、先にあげた私の知人は実顕地(ヤマギシズム運動)の在住者である。以前のブログ(3月19日)でも紹介したように、ここは「われ、ひとと共に繁栄せん」の理念のもとで人々の生活を終生保障する仕組みを作ってきた。その組織の具体的な動きに疑問を覚えない限り、経営的な強固な体制を作ってきたので、現在までのところ「安心」は保証されている。
 これまでも私の知人たちが自殺している。中心になって運動を進めてきた人も含めて。これについては実顕地に限らないことで組織のあり方と短絡できないことだとは思う。だが、生活の終生保障が確実に約束されていても、「安心」は保証されていても、生きづらさを抱えた個人としての悩みには対応しきれないのだと考える。

 なお、明日は昨年94歳で逝去した母の1周忌の法事がある。
 その晩年を見ていたことなどを通して、私は、かなりの高齢者など末期的な状態の人の自殺については、本人にとって、悩み考えた限りの、もっとも納得のいく関係の取り方といえるかもしれないと個人的に感じている。