日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎語りなおしと、その〈伴走者〉(鷲田清一『語りきれないこと 危機と傷みの哲学 』から)

〇鷲田清一『語りきれないこと』から

 東北大震災以後に書かれた、鷲田清一『語りきれないこと』を読み返した。

「まえがき」で鷲田は次のように述べている。

〈被災地の人たちのからだの奥で疹いたままのこの傷、この苦痛の経験が、やがて納得のゆく言葉でかさぶたのように被われる日まで、からだの記憶は消えることはないでしょうし、また消そうとしてはならないと、つよく思います。 震災で、津波で、原発事故で、家族を、職場を、そして故郷を奪われた人たちは、これまでおのが人生のそのまわりにとりまとめてきた軸とでも言うべきものを失い、自己の生存について一から語りなおすことを迫られています。語りなおしとは、じぶんのこれまでの経験をこれまでとは違う糸で縫いなおすということです。縫いなおせば柄も変わります。

 感情を縫いなおすのですから、針のその一刺し一刺しが、ちりちりと、ずきずきと痛むにちがいありません。被災地外の場所で、個々のわたしたちがしなければならないことは、まずはそういう語りなおしの過程に思いをはせつづけること、出来事の「記念」ではなく、きつい痛みをともなう癒えのプロセスを、そのプロセスとおなじく区切りなく「祈念」しつづけることだろうと思います。〉

 

 この著書について、「語る」ということに関連してみていく。

〈・「物語としての自己」、「〈わたし〉という物語の核心をなすもの」

「わたしたちはそのつど、事実をすぐには受け入れられずにもがきながらも、(中略)深いダメージとしてのその事実を組み込んだじぶんについての語りを、悪戦苦闘しながら模索して、語りなおしへとなんとか着地する。そうすることで、じぶんについての更新された語りを手にするわけです。」

「最終的にはいろんな決着のつけ方があります。(中略)わたしのいう語りなおしは、周りの関係も含んだものです。周囲にも新しいストーリーを受け入れてもらわないといけないのです。周囲のじぶんを見る目も、理解して変わってくるというプロセスを経ないと、本当の着地はあり得ないのです。」〉

 

 何か異常なことを体験した、たいへんな目にあったと思っていても、ある程度まとまって言葉として表現していく、あるいは、すぐに言葉にならないとしても、グッと心に宿るように煮詰めていく。それをしていかないと、結局薄れていき、無意識のなかに防衛機制として閉じ込めていくことにならないだろうか。

 言葉については、「もともと客観的に世界の事物があり、それを言語で呼んだのではなく、人間は言語で初めて世界を分節して、世界をいろいろな事物に区分した。」といわれている。

 いろいろな角度から考えるとき、どんなに記憶に鮮明さがあるとしても、漠然としているものに包まれていて、もやもやしている。その形のなきものに形を与えるものが言葉のはたらきであり、言葉にすることで、はじめて見えてくることがあるように思う。言葉を重ねて、私の物語をつくることで、言葉にならない心の奥にわだかまっていたものが、かすかに動きだしていく。

 一方、どこまでいっても言葉では充分には表現できない、結局言い尽くせないと言うジレンマにもおそわれる。意味するものと意味されるものの関係は常に不均衡なものだと思う。

 

〈・「言葉は心の繊維」、「言葉の環境」

「もし人が言葉を持たなかったら、じぶんを襲っている感情が喜びなのか悲しみなのか恥ずかしさなのか、そういう区別がつかない(ガブリエル・マルセル)」

「感情というのは確かに言葉で編まれていて、言葉がなかったら、感情はすべて不定形で区別がつかない。言葉を覚えることで、じぶんが今どういう感情でいるかを知っていく。語りがきめ細やかになって、より正確なものになるためには、言葉をより繊細に使いわけていかなければならない。心の繊維としての言葉をどれほど手に入れ、見つけていくかは、とても大事なことです。」「心を編みなおすための繊維の一つひとつになる新しい言葉、いままで使えなかった言葉、知らなかった言葉。大人が教えるのではなく、周囲で勝手に話している中から、フッと子どもが横取りできるような環境を作ることが望まれます。言葉の意味ではなく言葉の感触。その背後にある時間をくれているということ。そのなかに、話された内容とは無関係に人をケアし、支える真実があると思います。」〉

 

 私たちは言葉で思考し、言葉で整理する。言葉で癒されもする。〈心の繊維〉としての言葉は、繊維の本数(いわゆる語彙の数)が多ければ多いほどよいものではない。それぞれの小さな繊維を自分の心に編み込んでいかなければ、自分の心を形成してくれる繊維には決してならない。

「自分たちの心の中にある思い」というようなものは、実は、ことばによって「表現される」と同時に生じたと言うよりむしろ、ことばを発したあとになって、私たちは自分が何を考えていたのかを知るのです。それは口をつぐんだまま、心の中で独白する場合でも変わりません。 私たちが「心」とか「内面」とか「意識」とか名づげているものは、極論すれば、言語を運用した結果、事後的に得られた、言語記号の効果だとさえいえるかも知れません。

 鷲田が言うように、語りなおしとは、じぶんのこれまでの経験をこれまでとは違う糸で縫いなおすということ。縫いなおせば柄も変わる。 感情を縫いなおすのですから、針のその一刺し一刺しが、ちりちりと、ずきずきと痛むにちがいありません。

 辛い試みになることが多いとしても、そのような模索が、ともすれば負の要因である体験から、より一層よく生きていくことに繋がる何かをつかむことにもならないだろうか。

 

〈・「語りなおしと、その〈伴走者〉」、「語りを奪わず、ひたすら待つこと」

「じっと見守ってくれる人がいる、案じてくれているという感覚は、一番の支えになる。 けれども「がんばって」という言葉は、逆境のなかで挫けてなるものかとみずからを叱咤している人びとを後押しする言葉にはなりえても、時とともにいよいよ厚く重くのしかかる困難に、息も絶え絶えとなって、立っているだけで精いっぱいといった状況にある人には、むしろ苛酷なものとなります。」

「〈分かる〉というのは、おそらくその字のとおり、〈分かたれる〉ということです。話しているうちに気持ちが一つになる、同じになるというよりも、むしろ逆に、一つの言葉に込められたものの意味や感触がそれぞれに異なること、相手との差異・隔たりがいよいよ細かく見えてくるということです。〈分かる〉というのは、そのことを思い知らされることでもあるはずです。」〉

 

 ひとは他者とのインターディペンデンス(相互依存)でなりたっている。「わたし」の生も死も、在ることの理由も、他者とのつながりのなかにある。

 出産から葬儀、糧の調達から下水処理、介護や病気の世話まで、お金を払ってサービスを受けられるようになって久しいので、切実な課題になり難いが、そのことで、いのちの面倒を見る能力が失われてしまった。大震災のようなことに限らず、日常の暮らしの中で、人が困難に出会う可能性は、どの人にもある。

 最近の進化生物学は、ヒトは同胞とともに社会をつくり、助け合い、共存を図るという戦略によって、他の生物とは異なる特徴的な発展を遂げることに成功したようです。そうだとすると、人間の遺伝子や脳には共存に適した社会関係を維持するためのプログラムも備わっているのではないかとの仮説を提示している。

 この知見の信憑性は、何んとも分からないが、その可能性はあるかもしれないと私は思っている。鷲田氏に限らず、少なからずの人が、いざとなったときに助けてくれる人がいる、つかず離れずの距離を置いた、新たなネットワーク、相互依存、共同性の仕組みを模索し始めている。

「支援をする人・される人」の関係が固定したものでなく、随時「助ける人・助けられる人」と変わりながら地域が「同じいのちをもった人の支えあい」の社会になっていくように。

 

〈・「言葉の溝」、「語りの文化」

「震災直後、被災地の人たちと、被災の全貌を知ることができずに遠くから案じるだけのわたしたちのあいだには、どうしょうもない隔たりがありました。寸断された交通網も少しずつ復旧して、報道の人たちがようやく各地の被災の現場に行き、被災者の方々にインタビューする放送記者の人たちと当の被災者のあいだには、おそらくもっともっと大きな隔たりがあったと思われます。それはちょうど、介護施設でスタッフが食事のお世話をしながら「おいしい? 」と訊ねることと、ユニットケアの施設や、グループホ-ムでスタッフが入所者の人たちと同じ食べ物をともに口にしながら「おいしいね」と囁きあうこととのあいだの落差のようなものではなかったかと思うのです。」

「言葉の世話についてずっと語ってきて、ああ、根っ子のところがまだ語れていないという思いでいます。—-言葉がどうにも出てこないという経験のことです。語りきれないという前に、そもそも言葉が出てこない。何ものもどうしても言葉のかたちに置き換わらずに渦巻き、わたしたちのなかで内圧だけはどんどん昂じてくる。爆発するか硬直するか、火のように噴きだすか岩のように固まるか、そんな二つの途しか残されていないような、寸前のぎりぎりの状態です。」〉

『かたりきれないこと』には、東北大震災のような特殊な状況にかかわらず、人と共によりよく生きていくときの大事なことが書かれているのを感じている。介護など福祉関連の活動をしてきて、親たちの〈看取り〉をしてきて、後悔することも多々あり、随所に繰り広げられたことばが身に沁みてくる。

 そのような意味では、日々の暮らしの中で、意識していくことなのだろうと思っている。

参照:鷲田清一『語りきれないこと 危機と傷みの哲学 』(角川oneテーマ21)、角川学芸出版、2012)