〇戦後80年目ということもあり、今年は戦争・原爆の記録が盛んだったような気がする。
改めて強く思うのは「戦争は人を殺すもの」ということ。
特に現在は、戦争技術の驚異的な発達により、人々の姿・顔を見ることなく簡単に多くの市民を殺すことができる。
国などの組織がもっともらしきも大義・目的を掲げようとも、参加している一人ひとりの人・兵士は自分は殺されないように・死なないように、あるいは敵を殺すこと必死になる。
戦争そのものは暴力的なものである。
ここに、二つの記録をあげる。
---------
〇「各人の行為は集団の意識によって制約され鼓舞される。」
上記の言葉は大岡昇平『俘虜記』「捉まるまで」にある。
大岡昇平はご御自分の体験したことを、なんとか表現しようとしたのではないか。
死に直面した過酷な状況のなか、目の前に迫ってきた米兵を銃で射たなかったときの自らの心理過程を描いている箇所で、次の文章がある。
〈それは私がこのときひとりだったからである。戦争とは集団をもってする暴力行為であり、各人の行為は集団の意識によって制約され鼓舞される。もしこのとき、僚友が一人でもとなりにいたら、私は私自身の生命のいかんにかかわらず、猶予なく射っていたろう。〉
〇鶴見俊輔は第二次世界大戦で徴兵されてジャカルタで軍属として短波無線の傍受の仕事に就いた。その時期に、インド人の捕虜が伝染病にかかり、治療する薬が不足しているから、という理由で捕虜殺害命令が、自分の隣室の軍属に下され、その軍属は、毒薬とピストルを持たされ、実際にピストルで射殺したと鶴見氏に語ったそうだ。
それを聞いて、その命令が自分に下された場合、どうすればいいのか考えたという。
『鶴見俊輔伝』(黒川創著、新潮社)で次のように述べている。
《『戦争中、自分に捕虜殺害の命令が下っていたら、それを拒み通すことなどできただろうか?』
「この自問は、戦後70年間、彼の中に生きつづける。それを拒めたかは、疑わしい。だからこそ、『敵を殺せ』と人に命じる国家という制度への憎しみと懐疑が、彼のなかで消えずに残る。
状況のなかで考える-と、よく彼は言う。『状況』とは、歴史のただなかに身を置く、現在という場所のことだろう。」と黒川は言う。》
別のところで、鶴見氏はこうも言っている。
「自分も悪をなし得る存在である。悪をなしていないのは、たまたまの運の巡り合わせに過ぎない。」
〈戦争中、私は、殺したくないという希望によって生きた。同時に、殺す役にあたる人に敵意をもつことはなかった。殺し殺される場にともにおかれたものとして共同性の感情をもった。敵味方の区別なく、戦死者に対して脱帽する姿勢が敗戦によってたたれることなく、つづいている。戦死者が不戦の意思をもつかどうかとかかわりがない。
(『鶴見俊輔座談 戦争とはなんだろうか』「戦争と不可分の戦後―あとがき」晶文社)