〇身近な友人を見送ることが多く、先日旧友が亡くなった。
このところ長年交流していた同年代の友人がたて続けに亡くなり、自分も「死」を思うこともある。
考え方としては、高村光太郎の亡くなった母を追慕した短詩『夏書十題』にある「死ねば死にきり、自然は水際立ってゐる」という言葉がいいなと思っていた。
「人は死ねば死にきりで個としては存在しなくなるが、大自然に包まれ、その自然はあざやかにきわだっている。」という意だと考えている。
身近な人たちの死に触れたり、癌などによる長期入院の報せが続いていたりして、ひとの死について、いろいろなことを思う。
人間の死について問うことは大事なことだと思っているが、「生死は不定であり」、自分の死について体験することはできないし考えても仕方がないと思っていて、むしろ生きているときは、どのように生きていくのか、できれば、よりよく生きていこうとすることを考えるしかないと思っている。
一方、死期が迫ってきたときにどんなことを思うのか、一抹の不安と楽しみにしている気持ちもある。
だが、自分の心構えとしてはそれでいいだろうが、「死」については見送った人たち、残された人たちにとってはさまざまな思いが出てくる。
また、わたしの意とはかかわりなく、死後の措置など、少なからぬ他の人たちをいやでも引きずり込む。
生前いかに取るに足りない存在であったとしても、わたしの死はたぶん、たとえごくわずかであったとしても、わたし以外のだれかにとって、やはりなにがしかの意味は持つだろう。
「死」には「わが人生の死」と「宇宙自然界の中での死」があると思っている。
「人生の死」については死を、フランスの哲学者ジャンケレヴィッチに倣って、「一人称の死」(自分の死)、「二人称の死」(自分の心に残っている人の死)、「三人称の死」(その他の死)と大きく三つに分かれると思う。
一人称の死は、思いめぐらすことはあっても最終的に体験できないし、死後のことは周囲の者に委ねるほかない。結局のところ、宇宙自然界に還ると考えている。
三人称の死についてはどこまでも観念的になりがちが、二人称の自分の心に残っている人の死は、その人に応じた独特の感情がわきあがってくるようだ。
実際のところ、私の中にはいろいろな方から授かったもの、すでに亡くなった人からも多大な影響を受けている。
その意味では、死者生者まざりあって心をゆききしている。