日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎九年目(2020年度)の東日本大震災の記録から

※「“中間貯蔵施設”に消えるふるさと~福島 原発の町で何が~」「“奇跡”の子と呼ばれて~釜石 震災9年~」の二つの記録を取り上げる。

 

〇7日にETV特集選「“中間貯蔵施設”に消えるふるさと~福島 原発の町で何が~」をみた。番組内容は次にようになっている。

〈福島県内の「除染」作業で出た“原発事故のごみ”は、東京ドーム11杯分。その全てを住民の帰還が困難な原発のそばに集めて保管する「中間貯蔵施設」の建設が進む。福島県外で最終処分するまで30年、仮置きする計画だ。予定地の地権者は2360人、すでに7割が土地を提供する契約を国と結んだ。事故で故郷を追われ、人生をかけて築いた大切なものを失うという厳しい現実に、どう向き合ってきたのか。3人の地権者の証言で描く〉

 

 原発はひとたび事故が起きると取り返しのつかない状況になること、その後始末に計り知れないエネルギーと時間がかかることなど思いながら見ていた。

 6年前、福島の知人宅を訪問したときに、漁業関連の仕事をしていた知人から震災時の話を伺った。近くに石油コンビナートなどもあり、小松左京の地球沈没のイメージだったそうで、明るい性格と話しぶりで、かえって迫力を感じた。

 次の日、いわき駅から第一原発のある広野を通って竜田駅まで常磐線が開通したばかりで、乗車した(今年3月に全線開通)。無人駅も多く、途中黒いシートに覆われた瓦礫、緑のシートに覆われた放射線量の多い瓦礫の山が遠近にあり、閑散とした街並みとあいまって寂しげな感じが残った。

 

 中間貯蔵施設予定地はテレビで見る限り(映像の持つ臨場感もあり)そのとき以上の様相を示していたように見えた。「除染」作業で出た“原発事故のごみ”を包む黒い袋がズラリと並ぶのは異常とか見えなかった。

 

 そんな中で、福島県飯舘村で暮らす前原子力規制委員長の田中俊一さんの「原発はいずれ消滅します」の発言があった。

 

〇「原発はいずれ消滅します 福島・飯舘村で暮らす、前原子力規制委員長・田中俊一さん」

 この記事が毎日新聞2020年3月6日東京夕刊に掲載された。これは放射能廃棄物の処理にまつわる「中間貯蔵施設」のことなど語っている。いろいろな見方はあるかもしれないが、自分のこととして真摯に向き合っている姿に共鳴するものがある。現状を伝える一つの記録だと思う。

 毎日新聞でも一部読めるが「地球倫理:GlobalEthics」に全文引用されている。https://globalethics.wordpress.com/2020/03/08/

 

  田中俊一さんの記事は〈東京電力福島第1原発事故から間もなく9年。あの人は今、何を思っているだろうか。事故後に設置された、原発の安全審査を担う原子力規制委員会の初代委員長、田中俊一さん(75)のことだ。2017年に退任後、「復興アドバイザー」として暮らす福島県飯舘村を訪ねた。【沢田石洋史】〉から始まる。

〈そんな田中さんに復興の進捗度を尋ねると、渋い顔になった。「なかなか進みません。少しずつ努力していますが、元々暮らしていた住民の多くが戻ってこない。避難が長期になり、新たな仕事をもったり、子どもの学校の関係があったりして、村外に家を建てた人も多い。特に、若い人は都会志向が強い」

 長泥地区を除き村の避難指示が解除されたのは17年春のことだ。震災前の人口は約6200人だが、現在暮らすのは約1400人。震災前、村内の小中学校には約530人が通っていたが、20年度は65人の見通しだ。「避難先の学校に子どもを通わせる親の多くはわざわざ村内の学校に戻らせようとしません。村には診療所が1カ所ありますが、開いているのは週2日。病を抱えている人は戻りにくい」〉

〈福島県は郷里でもある。東北大で原子核工学を学び、日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)へ。原発事故前は日本原子力学会の会長や、内閣府原子力委員会の委員長代理を務めた。原子力ムラの中枢を歩んできたとの印象だが、本人は傍流だと自嘲する。

 「私は核燃料サイクルの実現は技術的に無理だと言ってきたので『村八分』の存在です。使用済み核燃料を再処理して高速増殖炉でプルトニウムを増やして、1000年先、2000年先のエネルギー資源を確保しようと言っているのは世界でも日本だけ。安全神話も私は信じていなかった。科学的に『絶対安全』はあり得ない。日本の原子力政策はうそだらけでした」〉

〈福島県大熊、双葉両町にまたがる中間貯蔵施設が15年に稼働後、飯舘村から約50万立方メートルの汚染土が搬出されたが、いまだ約150万立方メートル分が村内の仮置き場に保管されたままだ。農地に設けられた仮置き場では農業が再開できず、復興を阻害する要因になっている。

 県外に汚染土を受け入れる自治体がないとすれば、どう最終処分すればいいのか。これも国民的議論が必要な問題だ。〉 

 などなど、田中俊一さんにより、この間の経緯が詳細に語られている。

               ☆

〇14日にNHKスペシャル「“奇跡”の子と呼ばれて~釜石 震災9年~」を見る。

 番組内容は〈ラグビーW杯で注目された岩手県釜石市の「復興スタジアム」は、東日本大震災で破壊された小中学校跡地に建設された。学校が津波にのまれた時、生徒達はいち早く高台に自主避難してほぼ全員が助かり“釜石の奇跡”と報じられ賞賛された。だが、津波で親を失った子や友人隣人を失った子も多く、彼らは “奇跡”と“悲劇”の狭間で、震災の記憶を封印するように生きてきた。あれから9年、“奇跡”の子たちは大人になった。就職に迷う者、仕事の壁にぶつかる者、人生の岐路に立ついま、封印した過去とようやく向き合い始めた。東京の短大で学ぶミカさんは、親友リコさんの死を受け入れられず、今も“二人一緒にいる感覚”が続き苦しむ。二十歳の成人式を前に、ミカさんは、友の家族で唯一生き残ったリコさんの祖父を訪ねる。9年を経て、初めて語り合えたリコさんのこと。互いに封印してきた思いがあふれ出す。“奇跡”の子たちの震災9年の今を見つめる。〉

 

 見ながらグッと詰まることが多々あった。ミカさんやリコさんの祖父はテレビ撮影に戸惑う思いはあったろうが、現実ときちんと向き合う姿勢に感銘していた。

  番組内で次のことも印象に残った。

「奇跡」の子の一人、Nさんは震災直後中学の生徒会長を務めた。家は町の中心部にあり跡形もなくなった。一緒に暮らしていた祖母が津波で亡くなった。共働きで忙しい両親に代わり毎日食事を作り育ててくれた。震災の2年後、犠牲者の追悼式でNさんは悲しみを乗り越え前に進むと宣言した。今、秋田で公務員として働いている。震災直後から前だけを見て進んできたが、大学生の時、突然気分が落ち込み1年以上部屋から出られなくなった。悲しかった気持ちを涙ながらに家族に打ち明けようやく立ち直った。

 悲しみや心の痛みを封じるようにこの9年生きてきたという。

 

 「“奇跡”の子」という安易なセンセーショナルな表現というものに左右されながら生きていくことを強いる面があることを思った。

 

 また、番組は特定の何人かに焦点を絞って構成しているが、 「奇跡の子」といわれている一人ひとりに、来し方・人生があり、その身内の人も含めてそれぞれの成人式あるいは20歳の迎え方があると思う。

 

 そのような中、聴き手の菊池のどかさんの動きにも注目した。

 菊池さんは、当時のあの時の中学生の一人、鵜住居地区にできた津波伝承館で働き始めて1年。語り部として真実を伝える事の難しさを日々感じているそうだ。11日に朝日新聞で、その活動を紹介されている。

 

〇本当は違う「釜石の奇跡」 24歳語り部が伝えたい真実

 ネットで新聞の一部を読むことができる。  

 https://www.asahi.com/articles/ASN3B6RL4N36UJUB00F.html

 

 記事は次のように始まる。

 小中学生3千人のほとんどが助かり、「釜石の奇跡」と呼ばれた。鵜住居地区では中学生が小学生の手を取って避難したと称賛された。でも「全てが本当のことだったわけではない」。あの時の中学生の一人、菊池のどかさん(24)は振り返る。


《誤解があればできるだけその場で正すようにしていますが、十分わかってもらえたかどうか自信はありません。でも、震災直後に報じられたことと、私たちが体験した事実と違うことはたくさんあります。》


 県立大を卒業と同時に、「いのちをつなぐ未来館」に就職した。今度は助ける人になりたいと消防士や教師をめざしていたが、地元に防災教育の場ができると聞き、ぴったりだと思った。
《避難のお手本のように伝えられてきたので、来館者の中には「釜石の子どもは全員助かった」と思って来る人もいます。》

 

 有料会員以外、記事はここまでだが、ニュースサイト「CERON」に多くのツイッターが寄せられている。

〈私たちが助かったのは消防団員の的確な指示や近所の人の助言のおかげ。運や偶然も重なって生かされたんです。一般的な防災教育だけではだめだと思う。地形を知ること、ふだんから近所の人たちと交流しておくこと……。やるべきことは多いと思います。〉

〈実は私たちも最初から小学生の手を引いて逃げたのではなかった。いったんは自分たちだけ逃げたんです。これからはそういう真実も語っていかないと本当の教訓にならないと思う。〉などなど語られる。

 

 河本大地氏は次のことを述べる。  

〈「誰かにとって好ましいストーリー」が生まれていく。

 物事が単純化されて伝えられる。

「伝わる」ことは大事だから、全面的に否定はできない。 

 でも、リアリティはこういう取組があってこそ生まれる。(河本大地)〉

 

 事故当時中学生だった女性が語る真実を伝える難しさと、彼女の聴き手としての姿勢に共感するものを覚えた。 

 

〇鷲田清一『語りきれないこと』から

 東北大震災以後に書かれた、鷲田清一『語りきれないこと』の「まえがき」で鷲田は次のように述べている。

〈被災地の人たちのからだの奥で疹いたままのこの傷、この苦痛の経験が、やがて納得のゆく言葉でかさぶたのように被われる日まで、からだの記憶は消えることはないでしょうし、また消そうとしてはならないと、つよく思います。 震災で、津波で、原発事故で、家族を、職場を、そして故郷を奪われた人たちは、これまでおのが人生のそのまわりにとりまとめてきた軸とでも言うべきものを失い、自己の生存について一から語りなおすことを迫られています。語りなおしとは、じぶんのこれまでの経験をこれまでとは違う糸で縫いなおすということです。縫いなおせば柄も変わります。

 感情を縫いなおすのですから、針のその一刺し一刺しが、ちりちりと、ずきずきと痛むにちがいありません。被災地外の場所で、個々のわたしたちがしなければならないことは、まずはそういう語りなおしの過程に思いをはせつづけること、出来事の「記念」ではなく、きつい痛みをともなう癒えのプロセスを、そのプロセスとおなじく区切りなく「祈念」しつづけることだろうと思います。〉