日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎自分の考えを育てていく。(Nスペ「銃後の女性たち〜戦争にのめり込んだ“普通の人々”〜」より)

〇太平洋戦争中や原爆の記録をみると、どうしてこうなったのだろう、と思う。

 新たに様々な記録が見いだされて、報道や放送番組になり、それに関心を寄せてきた。 戦時中の「国防婦人会」の動きも、その一つだ。

 

 国防婦人会は、1932年から1942年まで存在した日本の婦人団体。略称は「国婦」。割烹着と会の名を墨書した白タスキを会服として活動。出征兵士の見送りや慰問袋の作成など、銃後活動を行った。

 1931年(昭和6年)9月に満州事変が、1932年(昭和7年)1月に上海事変が勃発した当時、大阪港の近所に住む主婦らが、出征兵士や応召のため帰郷する若者に湯茶を振舞ったのが活動の原点である。

 会の目的は「国防」、言い換えれば、「銃後」の戦争協力である。1932年に軍とは直接のつながりのない一般婦人があつまり「大阪国防婦人会」として発足。

 軍の支援を取り付けて「大日本国防婦人会」となり、全国に拡大。逆に軍は国婦を銃後の戦争協力や思想統制に利用した。(「ウィキペディア」より)

  

 番組は戦時中、駅や港などで熱烈に兵士を送り出し、地域から戦争を支えた「国防婦人会」。なぜ女性たちは戦争に突き進んでいったのか。知られざる「銃後」の女性たちの記録。

 

 大阪の40人ほどの女性グループからはじまり、その「軍事援護活動」に目を付けた陸軍の肝いりで、2年後には全国50万強に拡がり、その「国家公認」お墨付きの婦人団体としてあっという間に巨大化していき、1941年太平洋戦争がはじまった頃には1000万人ほどに拡がり、1942年、国防婦人会は「大日本婦人会」に合体される。

 

※〈やがて国防婦人会は、日露戦争の時からの軍事援護婦人団体として有名な愛国婦人会、国策家庭教育を推進する連合婦人会の三大婦人団体と合体して「大日本婦人会」となり、在野の女性史研究者高群逸枝もその機関誌に熱烈な「神国日本」の聖戦をたたえる文章を書いたことも知られています。〉(米田佐代子の「森のやまんば日記」より)

 

 戦時中、かっぽう着で近所を監視して回る女性たち。

 女性の活躍の場が少なかった時代、国防婦人会への参加は「社会参加」の機会だった。「社会の役に立ちたい」と懸命に生きた女性たちがなぜ自身を抑圧するようになったのか。

 

 しかし、初めからそうだったわけではないことを示す資料や証言が、次々と見つかっている。国婦の活動によって、しゅうとめから離れ自由に外出できたという喜びや、軍人や町内会長などの男性と対等に演説できたという誇りの声…。

 

 やがて国防婦人会は1000万人の巨大組織に拡大したが、戦争激化とともに、女性たちは国策に絡め取られていく。

 

「欲しがりません勝つまでは」と、国家と戦争への貢献を競い合い、互いに監視の目を光らせるようになっていく。

 

 母は子を自らの手で戦地に送り出し、その死に、人前で涙を見せることすらできなくなっていった。

 

 新たに発見された資料や取材から、戦争に協力していった女性たちやその遺族の、これまで語られてこなかった心の内に迫る。

 

 沖縄で教師になった女性が、差別されてきた沖縄の人びとが「日本人」として立派な人間であることを示そうとし「方言禁止」を強く指導したという経験も語られる。

 戦後彼女は二度と教壇に立たなかった。生徒や親の前で戦争協力を訴えた自分が醜く恥ずかしかった」という手記が残っている。

  

 番組の最後に、その姿を見てきた久保さんが、92歳になる今も世の中の動きに目を凝らす。

《私は私なりの考えをちゃんと心に持ってたいのよ。間違うてるかもわからへんけど最低私は、こんないっぱい読んだり聞いたりして、「私はこうや」って思うことをしてきた。そやないと戦時みたいに偉いさんが「わあー」と言って「はい」言うてやっとったら、どないなるかわからへん》と毎日、新聞などを読み勉強しているというシーンが印象に残った。

          ☆

 

〇私はある共同体で、結構自分なりに考えてやっていたなと思っていたが、調べていくと、自分の頭というより、その集団独特の考え方で行っていたこともあるなと思う。

 そこを離れて20年余になるが、どうしてあのようなことをしていたのかと思うこともある。

 

 人は誰でも、その時代、社会状況、身近な環境の影響を受けながら、考え方、感性などを培い身につけていく。その自覚の中で、特にこれは大事なことだと思うことは、まず今の自分の見方はどうなんだろうと一旦留保しながら、問い続けることを大切にしたい。

 厳密にいうと、さまざまな影響を受けながら、自分の考え方を育てていくので、自分の頭で考えるといっても限界があるが、そこを自覚する必要があると考える。

 

 そして、次のことも思う。

 アウシュビッツの経験を問い続けたプリーモ・レーヴィに、「ありとあらゆる論理に反し慈悲と獣性は同じ人間の中で同時に存在し得る」(『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日選書)というような表現がある。

 ごく普通の人たちがナチス体制を支えていたとの記述がいくつか見られる。

          

 自分自身を振り返っても、様々な面があり、〈善・悪〉あわせ持っていると思っている(なにが悪でなにが善であるのかはいい加減な面があるが)。その自覚のもとで、少なくても「悪」の面を他に及ぼすことだけは避けたいと願っているのみである。

 

 ここで課題にしたいのは、同じ人間が、どのようなときに「善性」が働き、どのような経緯で人を思い通りに制御するような「悪性」のようなものが色濃くでてくるのか。その態度はどのようにできてくるのか、自分の体験にも引き付けてじっくりと見ていきたい。

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 参照:NHKスペシャル「銃後の女性たち」取材班による、ブレイディみかこさんの話がネット(2021.8.14)に掲載されていて、とても参考になる。

 その一部をあげてみる。

 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210814/k10013196701000.html

 

▼WEB特集〇ブレイディみかこが読み解く「銃後の女性」~エンパシーの搾取

 

 英国在住のライター・コラムニストのブレイディみかこさんは「エンパシーの搾取」をキーワードに、戦時下の女性たちから、私たち現代の女性が学ぶべきことがあると話してくれました。(NHKスペシャル「銃後の女性たち」取材班)

(中略)

 ブレイディさんが提案するのは、「エンパシー」を使って、戦時下の女性たちの“心”を想像してみること。「エンパシー」とは、同意や賛成はできなくても、なぜそういう意見を持っているのだろうと、その人の立場に立って想像してみるスキルのことで、英語では「他者の靴を履く」という表現でも説明されています。

 

 歴史を学ぶ際に、その時代に生きた人たちの靴を履くことによって、“自分たちとは違う存在”として、切り離して考えてしまいがちな相手だとしても、一人ひとりが違う人間として見えてくるようになると、ブレイディさんは考えています。

 

 戦争が社会進出の場になった悲劇

 女性たちは、なぜ戦争を後押しするような活動にのめり込んでしまったのか。その理由は、「女性たちの社会進出の場だったから」だとブレイディさんは指摘します。

 

・ブレイディみかこさん:「国防婦人会の活動は、彼女たちに許された唯一の社会進出でした。それまで、台所の中で“小さなストーリー”を紡いできた女性たちは、活動を通じて初めて自分の行動が、国家の運命つまり“大きなストーリー”を動かしているという感覚を持てたのではないでしょうか。例えば、息子を戦争に出した母親が、戦地の兵隊たちに物資を送るボランティア活動に熱中したり、若い女性たちがお姑さんと過ごす息苦しい家の中から抜けだし生き生きと国防婦人会の運動に参加したりと、それぞれに生きがいを見つけていった。その裏側には一人ひとりの人生があって、心があって、そして活動にのめり込んでしまったんだと思うんです」

 

 もともと家庭にいた女性たちは、家族の世話で忙しく、いつも“誰かの靴”を履いている状態でした。そんな女性たちの助け合いの活動、託児所や養蚕の講習会などの形態で始まった活動が、戦時中になると戦争を後押しするものに切り替わっていきました。

 ブレイディさんは、女性たちの中には“兵士の靴”を履いてエンパシーを働かせて一生懸命になって活動していただけの人もいたのではないか、そして、そのエンパシーを搾取していたのが当時の陸軍であり国家だったと、戦時下の女性たちに寄り添います。そして、その女性たちの姿には現代の女性たちが投影できると言います。

 

・ブレイディみかこさん:「彼女たちが一様に洗脳されていたわけではなく、それぞれの理由や背景があって、前向きに活動していたことを知って、私自身も衝撃を受けました。そして、改めて彼女たちは私たちと同じ人間だったんだなと実感したんです。銃後の女性たちの姿は、あの時代だけの特別な話ではなくて、今の自分たちにも起こりうる話だと思います」

 

現代にも見られる「エンパシー」の搾取

・ブレイディみかこさん:「新型コロナウイルスによる緊急事態が続く中、国を動かしている人たちが、『今は大変だから、あなたたちも自助で頑張ってください』と言ったときに、国民が『なんでそうなるの?』と思えないような状態に陥っていると思います。これもある種のエンパシーの搾取で、被支配者側が“支配者側の靴”を履いてしまい、『確かに今は緊急事態だし、しかたないよね』と、知らず知らずそうなってしまう」

 

 そうなると、自分の靴を疎かにして、もともと自分がどんな靴を履いていたかもよくわからないような状態になってしまうとブレイディさんは警鐘を鳴らします。

 

・ブレイディみかこさん:「(物資が極端に不足していた)戦時下では、金属製品の供出が義務づけられていたため、ご近所間で『あそこの家には、鍋がもっとあるんじゃないか』と、互いに目を光らせ合うようなことがありました。そして、それがエスカレートして、国防婦人会は志願兵のリクルートにも使われていたそうです。供出するものが、鍋から人間に変化していく過程は非常に恐ろしいものだけど、女性たちは決して外では『おかしい』と本音は言えなかったのです。今の日本も、いまだに本音が言いにくい社会のように思えます。たとえ自分たちにとって切実なテーマであっても、本音で話し合うことをしないから、誰も望まない社会へ向かっていっているように感じるんです。そういった部分は、当時と今の社会で、通じる部分があるのではないでしょうか」

 

エンパシーの搾取から逃れるために

 ブレイディさんによると、本来「エンパシー」は生身の人間に対して働かせる想像力のことで、政府や国家のような抽象的な対象の靴を履いてしまうと、非常に危険なものになりかねないといいます。エンパシーは社会を回していくためには必要なものではあるものの、特に緊急時は人間の尊厳が踏みにじられやすい状況に陥りがちなので、今こそ「自分の靴を明け渡さず、誰にも支配されない。自分の人生を生きる」という軸が重要だと、ブレイディさんは考えています。

 

・ブレイディみかこさん:「自分の靴を明け渡さずに歩んでいくために大切なのは、“常識を疑え”ということだと思います。戦時下でも、もし一人ひとりに常識を疑う力があったら、立ち止まって考えるチャンスがあったのではないでしょうか。鍋はまだ供出できても、人間はさすがにだめだろうと思えたかもしれませんよね。一度立ち止まって考える教訓を残していると思います。今も、日本がいい方向に向かっていると思っている人はあまりいないのではないでしょうか。基準になるのは、生身の人間しかいません。私たちが私たちとして生きていけるのか。生きづらいのであれば、何かが間違っているし、生身の人間を犠牲にする社会はおかしいと思います」

 

変わりたい」フツフツとした思い

 今回のNHKスペシャルでは、戦時中に国防婦人会の活動に参加していた母親を持つ92歳の女性が、母親たちの活動が結果的に戦争協力につながってしまったことを教訓に、常に新聞を読み、社会の動きから目を離さないことを自らに課している様子を紹介しています。

 そうした人たちから学ぶことが大いにあると、ブレイディさんは最後にこのような言葉を寄せてくれました。

 

ブレイディみかこさん:「現代の女性たちは仕事に家事に非常に忙しく、ニュースを読む暇もないという人も多いとは思いますが、ふだんから政治へ意識を持っておかないと、何かあったときにワッと流されてしまう。現状として、日本のジェンダーギャップ指数は、特に政治の分野においてひときわ目立って低く、女性が政治の世界から切り離されていることは昔とそう変わらないのではないでしょうか。ただ、日本の女性たちからは、近年“変わりたい”というフツフツとした思いが感じられています。自分ばかり追い詰めるのではなく、自分が自分として生きられる場所を、自分の手で見つけていってもらいたい。小さなことですが、自分の本音を言ってみるだけでも、何かが変わると思うんです。きっと、これから女性たちはいい方向に変わっていくと、期待しています」

 

※〈ブレイディみかこ〉ライター・コラムニスト。

 1965年、福岡市生まれ。英国・ブライトン在住。新著『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』では、「エンパシー(他者の感情や経験を理解する力)」をキーワードに、互いの価値観を尊重する社会を作るヒントを提示している。