日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎もし それが わたしだったら(内観法から)

〇「時空遍歴」と「内観法」
 知人F氏のHP掲載の時空遍歴「いつまで過去にこだわるのか--」に、

・「後ろ向きに歩みながら、遠ざかっていく<あの景色>をあれこれ考え記述してきた」
・現在の私は認識の基本軸において、過去は同時に未来および現在であり、その逆も真であることをしっかりと肯定する。
・こうして私はこのページのタイトルを「時空遍歴」と名づけ、そこに過去―現在・未来往還自在の境地を込めたつもりである。

 など書かれていて、その視点から「内観法」のことを思い浮かべたので、自分の関心に引き付けて考えてみる。

(※内観法(内観療法):浄土真宗系に伝わっていた自己反省法「身調べ」から、吉本伊信が万人向けのものとした修養法で、医療や心理療法の分野など注目されていて、その研修機会が各地で展開されている。)

 

 私たちが自分を「観る、調べる、振り返る」ときに、どこまで自分を客観視できるかという課題がある。ここで客観視というのは、善悪などの価値判断ぬきに、それに対する様々な思惑を一端留保できるかどうか、自分を突き放してみることができるかどうかが、新たな気付きに繋がる分岐点になるのではないかと思っている。

・ごく単純化して、現在の私をAとする。客観視した私を(A)、それができなければA? とする。過去の私をある程度客観的に見ることができればB。できなければB? とする。第三者について、共に考えていけそうな時はC、そうでない時はC? とする。

・「自分を観る」とき、(A)を照らし出すことから「観る」が始まり、その持続の過程で、新たな気付きの可能性が生まれてくるのではないか。A? にとどまっている、こだわっている限り、よく「観る」ことはできないのではないか。Aと(A)の往還自在の境地に立たない限り、堂々巡りになってしまうことが多いのではないだろうか。

・「過去の自分を調べる、振り返る」とき、まず(A)にたち、そこからBを照らし出すことで、振り返り、調べるが始まり、その中で新たな気付きが生じてくることもある。B? にとどまっていては、堂々巡りになることが多いだろう。

・例えば、過去になぜあのようなことになった(した)のかを調べるとき、挫折感、罪悪感、自責感などあっても一端留保し、そのように感じている自分を自覚しつつ、できるだけ(A)の自分になることから振り返りが始まる。そこから、どうしてそのようになったのかと要因をじっくり見ていくことができる。要因は自分にもあり周りの状況にもあり、自分のそれまで培った過去にもある。そこからくっきりとBを導き出すことで、(A)の更新に繋がっていく可能性がある。

・メルロー・ポンティのことばに「哲学とはおのれ自身の端緒が更新されていく経験である」とある。「哲学」を「自分を観る、振り返る」に置き換えることもできると思っているので、「更新」ということばを使った。

・さらに、事例は異なるが、自分が体験したことと共通の要因で突き詰めて考えてきた先人Cがいることも少なくはない。そのCを見出し、Cと(A)の往還自在の交流から、グッとBに引き付け考えることで、さらなる(A)に繋がっていく可能性が生まれる。気を付けることは、C? の存在である。結論を急ぐあまり、自分が納得しやすいような言説を牽強付会しやすい。

・ちなみに、未来の私はどこまでいってもAの延長でしかない。どこにも実在しない。描くときは、現在の私と過去の歴史の中を往還自在に踏みしめていくことが欠かせない。

・各種研修会、けんさん会など名称はどうであれ、思う存分考えられる場が用意されているとする。その場合の構造は、私Aがいて、CやC? もいる中で、それぞれのもち場を離れて、具体的な課題を共に考えることで、お互いに影響をかけあいながら、各自の(A)やBとの往還自在の交流から、新たな気付きが芽生えてくる可能性が生じる。

 

・以上のことを念頭に置きながら、内観法の構造を見ていく。

・最近、J氏との交流が始まった。Jさんは聴覚に障害があり様々な苦労をされてきたようだ。昨年「内観研修」を体験されて大きな転機になったと聞いている。私は2回体験し自身の振り返りとともに、その研修構造に大層興味を懐いた。

・「内観法」では、母、父、兄弟など、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対しての今までの関わりを、1.してもらったこと 2.して返したこと 3.迷惑をかけたこと の3つのテーマにそって、生まれてからのことを、順序を追って繰り返し繰り返し振り返る。「研修」は自分と向き合うのに充分な時間(1週間)と空間が用意されていることが多い。

・研修の構造は、現在の自分Aが、一人きりの空間で、具体的なテーマに即し幼児期のころから大雑把に区切って観ていく。1~2時間ぐらいの間隔で、Cが来てAから感想を聞く。大体10分ぐらい、ほとんどの場合黙って聴くだけ。質問などあれば、丁寧に聴いてくれる伴走者だ。(べらべらしゃべる御節介C? もいるらしい)。食事時間などに、過去の内観体験者のテープが流される。この内容は、AにとってCやC? になって、強烈な印象を残すこともあり、自分の振り返りに影響を及ぼす。食事、風呂などはさんで、その繰り返しで1日が過ぎていく。

・調べたい私Aに充分な時間と空間が用意されている。共に気をかけてくれる同伴者がいるのを感じる。具体的な分かりやすいテーマが用意されている。随時録音テープによって、CやC? が入ってくる。テーマの対象は、具体的なごく身近な人である。順序を追って過去の私をじっくりと観ていくことの繰り返し。
・この研修構造に大事なエッセンスが潜んでいると考えている。・知人に内観研修体験者も結構いる。途中で嫌になってやめた人もいるが、「自分を観る」ことで、大きな転機になった人も多い。・はじめに紹介したF氏の記録に触れる。ここまで、ごつごつ述べてきたことの大事なエッセンスを、個人としての営みに自覚的に反映させているのが、「時空遍歴」の特色だ。

・後ろ向きに軸足を置くという容易に真似のできないことを続けていること。適切な同伴者を見出していくセンス。そのことをどれだけ自己に引き付けて、返していくかという意識を維持しながら、往還自在の境地で真摯に振り返ってみる姿勢に共感を覚える。
 

【参照資料・詩】
『木の実』(茨木のり子)
高い梢に
青い大きな果実が ひとつ
現地の若者は するする登り
手を伸ばそうとして転り落ちた
木の実と見えたのは
苔むした一個の髑髏(どくろ)である

ミンダナオ島
二十六年の歳月
ジャングルのちっぽけな木の枝は
戦死した日本兵のどくろを
はずみで ちょいと引掛けて
それが眼窩であったか 鼻孔であったかはしらず
若く逞しい一本の木に
ぐんぐん成長していったのだ生前
この頭を
かけがえなく いとおしいものとして
掻抱いた女が きっと居たに違いない小さな顳顬(こめかみ)のひよめきを
じっと視ていたのはどんな母
この髪に指からませて
やさしく引き寄せたのは どんな女(ひと)
もし それが わたしだったら……

絶句し そのまま一年の歳月は流れた
ふたたび草稿をとり出して
嵌めるべき終行 見出せず
さらに幾年かが 逝く

もし それが わたしだったら
に続く一行を 遂に立たせられないまま
(茨木のり子詩集 『自分の感受性くらい』花神社 、1977年より)