日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎日々彦「詩句ノート」、柳美里著『町の形見』の巻末の挨拶文から

〇柳美里著『町の形見』の巻末の挨拶文から

・言葉の解放(「静物画」パンフレット挨拶文)より

〈2011年三月十一日とその後に続く避難生活の中で声を呑み、感情を巻き添えにして沈黙を通している人は多い。

 言葉は、元来、声である。

 沈黙の中から感情を救い出し、言葉をゆすり動かすことができるのは、自分自身の声しかないのではないか――。

 自分の口から発した声は、他人の鼓膜を震わせる。

 声によって、感情や言葉は自分の中から持ち出され、他者に伝わる。

 人前で声を発するのは、たいへん不安なことだし、時には恐ろしいことである。〉

 

〈彼らの声の源にある感情を、彼らとともに大切に丁寧に扱った。

 彼らと「静物画」という芝居を創る過程で、わたしは、彼らの中で声が生まれ、外に出たがっている瞬間にいくつも立ち会うことができた。

 彼らは、自分と外界を隔てる境界線でもある体の中から、声を発することによって自分を解き放った。

 演出者冥利に尽きる、と言っても良いのではなかろうか?〉 

 

・記憶のお葬式(「町の形見」チラシ挨拶文)より

〈わたしにとって、他者はいつでも分厚い壁のように隙がなく、入り込む余地がない不可触の存在だった。でも劇場を悲しみの水で満たすことができれば、自が他に、他が自に触れ、奇跡のように融合する瞬間が訪れる。それは至福の時でもあった――。」

 

〈人は記憶を抱えて生きている。

 生涯、生々しい感情を伴う大波のような記憶もあれば、日々の暮らしの中で

 繰り返されることによって刻まれるさざなみのような記憶もある。

 人は、誰しも死ぬ。

 死ねば、夥しい記憶の群れもまた、無になる。

 生あるうちに大切な記憶に別れの言葉を述べ、懇ろに弔いたい。

 『町の形見』は、記憶のお葬式です。

 あなたに形見分けを贈ります。〉

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・悲しみの物語(「町の形見」パンフレット挨拶文)より

〈「町の形見」では、過去を現存させるために時間の蝶番を外すことだけにわたしは注力した。

 過去からきて未来に向かう――、それは現実社会に都合の良い一つの時間の見方にすぎない。

 過去に存在したものや出来事は、今は無いのではなく、今にも未来にも存在する。

過去も未来も、いまここにしかない。

 様々な過去や未来を包括した今を、今ここで経験することができるのが、演劇なのである。〉

 

〇2019年四季折々(3月11日~17日)

(11日)・しら梅の泥を破りて咲きにけり(照井翠)

 東日本大震災関連の報道に触れて、困難な状況の中で「生きる」ことについていろいろ思う。いろいろな困難を乗り越えて、あるいは抱えながら今に向かい合う人、明日に向かっていく人、一方、年齢に応じて心身ともに困難が増してきて、悶々とした日々を送る人、「死んだ方がましだ」と思いながら暮らしている人などに対し、いずれにもさまざまな思いが出てくる。

 どんなに年を取ろうと、どんなに重い病気になろうと、どんな苦境に立とうと、人間はよりよく生きたいという本能的なものをもっていると思われる。それは簡単にはなくならないはずである。一人ひとりの心の持ちようが肝心であるが、それが引き出されていく支援も欠かせないと思う。

(今日の一句)・不安抱く人のこころへ雪解風

 

(12日)・草の戸も住みかはる世ぞ雛の家(芭蕉)

 NHKスペシャル『終の住みかと言うけれど…~取り残される被災者~』を見る。

〈震災から8年。被災地ではほぼ全ての災害公営住宅が完成するなど「終の住みか」の確保は順調に見える。しかし、そこには時が経ったからこその課題が重く横たわる。度重なる転居で人々の繋がりが分断され、コミュニティーを保てない集落が続出。支援の打ち切りも相次ぎ、高齢者の孤立化や孤独死の問題などが顕在化している。さらに、震災直後から壊れたままの家に住み続け、今も厳しい暮らしを強いられている「在宅被災者」が多くいる実態も明らかに。“住まいがある”として支援制度の枠組みから外されているのだ。一方、避難者の帰還政策が進む福島。待ちわびた「終の住みか」に戻れたものの、故郷の姿が変わり果てたことを目の当たりにして、ふるさとの「第二の喪失」とも呼ばれる大きなダメージをこころに受けている。〉との内容。

「終の住みか」は、これから死ぬまで安住する所をいうが、そこには安定、安心して暮らしていきたいという思いがあるのだろう。それとともにつながる人の環が大きいと思う。

 私は福島で生まれてから、10回以上住まいが変わってきた。今のところに居心地の良さを感じているがこだわりはない。芭蕉のように「日々旅にして旅を栖とす」というにはほど遠いが、その時の状況に応じて考えていければいいと思っている。

(今日の一句)・ふるさとは生涯持たず春の波

 

(13日)・俳句詠みいじめ克服羽化揚羽(小林凜)

 松村 亜里『世界に通用する子どもの育て方 』を読み、ポジティブ心理学の研究に関心を寄せている。ポジティブ心理学は、「幸福になるにはどうすればいいのか」を科学的に探究するもので、個人や社会を繁栄させるような強みや長所を研究する心理学の一分野である。

 本書は彼女の体験からの裏付けに、ポジティブ心理学とウェルビーイングの最新研究成果のエビデンスを踏まえて、具体的な工夫の仕方を提示していることが大きな魅力になっている。

 あとがきに「私はこの本に役立つことを書いたつもりですが、正しいことを書いたわけではありません。正解はどこかに一つあるものではなく、それぞれの中にあるものです。」とあり、研究者として真っ当のことと思うが、きちんと述べていることに強い印象が残った。

(今日の一句)・蛹は蝶に不思議を問うやしなやかに

 

(14日)・地の涯に倖せありと来しが雪(細谷源二)

「幸せ」や「健康」という極めて主観的な感情を科学的にとらえることは、かなり難しいとされてきた。科学のルールとして「相関関係は因果関係を含意しない」がある。因果関係を明確に示すデータや再現性がないと「科学的に立証された事実」とは認められない。

 だがそれは多くの人にとって関心の高いものであり、一部の研究者の大きな目標課題でもあった。近来の分野を超えた研究者、科学者などの研究成果で、幸福や健康についての知見が高まってきたし、そのことを専門に考察する人も増えてきて、人がどうすれば幸福になるかというテーマは、分野を超えて大きな課題になってきている。

 私も、自分の日々の活動が、ささやかでも幸せな社会につながるかどうかには留意していきたいと思っている。

(今日の一句)・間違いを認め膝つき冴え返る

 

(15日)・真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり(正岡子規)

 科学番組BS「コズミック フロント☆NEXT」を見る。〈2014年、私たちの地球は5億光年もの大きさのラニアケア超銀河団の一員であることがわかった。ラニアケア超銀河団は10万の銀河が川のように1か所に向かって流れている構造となっている。この発見をもたらしたのは、銀河の位置と動きを示した宇宙地図だ。そして2019年1月、さらに範囲を広げた新しい宇宙地図が発表された。天文学者たちは、どのようにしてこの宇宙地図を作ったのか? 壮大な研究の最前線に迫る。〉

 この番組を見ていると、その中で、今地球上で起こっていることや私たちの捉えているものが自分の感覚にすぎないことを思う。そこであれこれ考えてはいるが。

(今日の一句)・春星やひとは宇宙の落としもの

 

(16日)・こみあげる怒りを内に留めおれば五臓六腑は静かに腐る(高橋美加子)

 柳美里著『町の形見』を読む。この作品をとおして、東日本大震災のような社会的影響に及ぶものから個人的なものまで、ある体験を語ることや、戯曲・小説など文芸作品として表現することについて考えた。

 本書は、東日本大震災直後の2011年4月、全域が警戒区域に指定された南相馬市小高区など同市で生まれ育った70代の男女8人の、震災時とそれまでの人生体験の記憶を舞台上に再現することを意図した戯曲である。本人たちとその人に応じた黒子のように寄り添う若い役者が劇中劇のように交互に記憶の情景を演じるように構成されている。

 私は再度福島に行き現地を見て、いわき市に在住している親しくしている友人夫妻からそのときの話を伺っていた。旦那は水産関連の仕事に携わっていて、港の近くからようやく逃げ帰ったという。その後会社は営業できなくなり、しばらく救援活動をしていた。奥さんは教育関連の仕事をしていて、子どもたちの様子など当事者ならではの身に迫る表現などを思い出しながら読んでいた。

(今日の一句)・瓦礫つむ広野の里に白き梅

 

(17日)・こしかたもゆくすえもなしあるはただまわりてめぐるいまのつらなり(高橋美加子)

「町の形見」パンフレット挨拶文には、〈「町の形見」では、過去を現存させるために時間の蝶番を外すことだけにわたしは注力した。過去からきて未来に向かう――、それは現実社会に都合の良い一つの時間の見方にすぎない。過去に存在したものや出来事は、今は無いのではなく、今にも未来にも存在する。過去も未来も、いまここにしかない。様々な過去や未来を包括した今を、今ここで経験することができるのが、演劇なのである。〉とある。

 おそらく上演されることで、当時の状況が演ずる人はむろん、観劇する一人ひとりに突きつけるものがあるのではないか。生の声で演じることを想定した時空を超えた戯曲、演劇のもっている大きな可能性を感じさせる作品になっている。

(今日の一句)・今ここのひかりに集う百千鳥

◎過去も未来も、いまここにしかない。(柳美里著『町の形見』を読んで)

 この作品をとおして、東日本大震災のような社会的影響に及ぶものから個人的なものまで、ある体験を語ることや、戯曲・小説など文芸作品として表現することについて考えた。

 

 上演を見ていないが、巻末の解説文を参照しつつ舞台を想定しながら読んでいた。

 表題作の「町の形見」は、東日本大震災直後の2011年4月、全域が警戒区域に指定された南相馬市小高区など同市で生まれ育った70代の男女8人の、震災時とそれまでの人生体験の記憶を舞台上に再現することを意図した戯曲である。本人たちとその人に応じた黒子のように寄り添う若い役者が劇中劇のように交互に記憶の情景を演じるように構成されている。

 

 70歳を超えた被災者が若い役者たちに自らの人生を語り、そして「あの日」と災後の日々を語る。被災者へのインタビューなのか、本人のセリフなのか素の語りなのか、寄り添う役者たちのそれぞれの被災者になりきったセリフや被災者に対する問いかけも交えて、地震と津波と原発事故についての語りがスリリングに交錯して、物語は展開する。

 

 語り部でもない、ドキュメンタリーでもない、ある意味フィクションとも言い難いような演劇世界となっている。おそらく上演されことで、当時の状況が演ずる人はむろん、観劇する一人ひとりに突きつけるものがあるのではないか。生の声で演じることを想定した時空を超えた戯曲、演劇のもっている大きな可能性を感じさせる作品になっている。

 

 巻末にある著者による「町の形見」パンフレット挨拶文に次のように述べている。

〈「町の形見」では、過去を現存させるために時間の蝶番を外すことだけにわたしは注力した。

 過去からきて未来に向かう――、それは現実社会に都合の良い一つの時間の見方にすぎない。

 過去に存在したものや出来事は、今は無いのではなく、今にも未来にも存在する。

 過去も未来も、いまここにしかない。

 様々な過去や未来を包括した今を、今ここで経験することができるのが、演劇なのである。〉

 

 地元の新聞によると、「出演する地元市民8人は、柳さんがパーソナリティーを担当していたラジオ番組にゲストで出演していた人々で、さまざまな背景を持つ人たちだ。その地元市民たちの記憶を演じるのは、柳さんとゆかりのある、「青年団」をはじめとする東京で活動する役者。この公演のため同市に住み込み、地元の人と話し、地元の人の記憶の場所に足を運ぶなど、役作りを続けている。」と述べる。(いわき経済新聞2018.10.11より)

 

 著者は柳さんであるが、本書に書き出した台詞は、登場された被災者が著者に語ったことがベースになっていると思われる。元々はある「事実」から生まれている。しかし作品の構成によって、あるいは演出によって、事実は事実らしさを離れていくというか歪んでくるだろう。しかし、事実を離れるほど、そのセリフはある真実味を帯びていくような気がする。

 さらに、被災者の数多の人びとの声なき声が重なり、この作品で語られた言葉は、語られなかった言葉にも逆説的に光を当てると思われる。

 

 私は再度福島に行き現地を見て、いわき市に在住している親しくしている友人夫妻からそのときの話を伺っていた。旦那は水産関連の仕事に携わっていて、港の近くからようやく逃げ帰ったという。その後会社は営業できなくなり、しばらく救援活動をしていた。奥さんは教育関連の仕事をしていて、子どもたちの様子など、当事者ならではのしみじみとした迫力を感じながら聞いていた。

 

 一度ざっと読んで、次に上演舞台を想定して、時折セリフのところ声を出しながら読んでみた。なかでも、高橋美加子さんの短歌は何度も読み返ししていた。

 

・荒れ田より嘆きの呻き聞こえくる水うるわしき青田よもどれ

・ふるさとを返せと叫びたくなりて外に出ずれば満天の星

・こみあげる怒りを内に留めおれば五臓六腑は静かに腐る

・ごおごおと荒れ田をなぶり風がゆく空はどこまでもつきぬけて青

・石を持ち投げんとすればその先は螺旋階段わが身に戻る

・こしかたもゆくすえもなしあるはただまわりてめぐるいまのつらなり

 

 出演者でもある高橋美加子さんは、震災直後HPから「南相馬からの便り」を発表していて、その短歌は「南相馬短歌会あんだんて」の合同歌集や各方面でしばしば紹介されていた。

 次の個所も詰まりながら読み返ししていた。

 

〈男優B(渡部英夫の記憶):日にちは、ぜんぜんわかんねぇんだ。三月十一日から、おれの頭の中では、カレンダー消えてっから、自分の重機を海に持って行って、瓦礫どかして、萱浜から雫まで通れるようにした-----ご遺体もな、実家の方だからみんな顔見知りなんだ-----最初に見つけた人はニコットしてたな-----女の人だ-----女の人-----手袋とマスクしてたんだけど、その人の顔見た途端、手袋捨てて、マスク捨てて、素手でこうやってな(顔にかかった泥だらけの髪を指でのける)-----なんだか-----なんていうんだ? 海の底のヘドロみたいな、廃油みたいもんが顔中にべったりくっついててな-----水はポリ容器で持って来てたから、頭持ち上げて、水で流してきれいにしてな-----きれいにって言っても、きれいにはなんねぇんだけど、せいいっぱいきれいにして、道路に寝かして、次の人を捜索するわけだ。〉

 

 地元(南相馬市原町区の萱浜出身)で暮らす渡部英夫さんは、相馬流れ山の上手な歌い手で、地元ではよく知られているそうだ。

 

※柳美里著『町の形見』(河出書房新社、2018)

「参照」・【福島民報】『町の形見』柳さんが描いた悲しみ。(2018年11月30日 )

 先月十六日、作家柳美里さんが二十四年ぶりに書き下ろした戯曲「町の形見」の公演を、南相馬市小高区にある柳さんの小劇場で見た。二十二日にはこの作品を収めた戯曲集が河出書房新社から出版された。ページをめくって記憶を確かめながら、震災と原発事故を経験した土地で、芝居という表現だからこそ感じることができた不思議な高揚を思い出している。

 東京の若手俳優七人のほかに地元の七十代の住民八人が「話者」という立場で出演した。芝居はいつの間にか始まった。話者は自分の分身である俳優を聞き役に自身の来し方を語る。演劇に夢中になった高校時代があった。友と、ぎりぎりの生を共有した瞬間があった。前が見えなくなってしまいそうな時に出会った伴侶の情熱があった。

 客席の最前列にいた人がするすると舞台に出て、話者となって語り始める。客席にいた演出家役の俳優から突然、指示が飛ぶ。少しの笑いと涙のうちに客席と舞台の境界はいつしかあいまいになる。そうして積み重ねられてきた日常を断ち切ったのが震災と原発事故だ。地元の観客は自らの体験のような錯覚の中、劇空間に引き込まれていった。

 柳さんは三年半前に南相馬市に移住する前から、地元ラジオで六百人もの被災住民にインタビューしてきた。その経験があるからこそ、話者一人一人が抱える悲しみや悔しさ、いとおしい自分だけの記憶を引き出すことができたのだろう。被災地で表現されるべき必然が、柳美里という存在によって形になった。

 同時に思いが及ぶのは、被災地の誰にもかけがえのない瞬間があり、多くの悲しみとともに表現されないまま消えていくであろうことだ。

 小高で「町の形見」が上演された同じ週、東京地裁では原発事故を巡り業務上過失致死傷罪で強制起訴された東電旧経営陣三人の被告人質問が行われ、いずれも責任を否定した。一人は「ご迷惑を掛けた」という言葉で謝罪した。

 「町の形見」では話者の一人の短歌が読み上げられる。

 ・ふるさとを返せと叫びたくなりて外に出ずれば満天の星

 ・こみあげる怒りを内に留めおれば五臓六腑[ろっぷ]は静かに腐る

 東電のさまざまな言葉と、被災地で空を見上げた人々の絶望とのあまりに大きな断絶に慄然[りつぜん]としてしまう。「町の形見」の東京公演を願うが、難しいかもしれない。それならば来年、新装される小高の小劇場で再演してほしい。多くの人があの土地に来て、見ることに意味があるはずだ。(佐久間順)(福島民報2018年11月30日 )

◎日々彦「詩句ノート」、正岡子規の俳句、短歌、随筆『病牀六尺』など

〇正岡子規の俳句、短歌、随筆『病牀六尺』

 正岡子規(1867年―1902年)。1897年(明治30年)に俳句雑誌『ホトトギス』を創刊。子規31歳の1899年夏頃以後は脊椎カリエスからほとんど病床を離れえぬほどの重症となり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになる。苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け、母や妹の介護を受けながら後進の指導をし続け、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。こうした地獄のような苦しみに耐えかねて、一度、自殺を企てたことがある。このような中で、日々の雑観を随筆『病牀六尺』に書き続けた。その年の9月に亡くなる。享年34歳

 

「俳句」

・妹が頬ほのかに赤し桃の宴

・毎年よ彼岸の入に寒いのは

・行く人の霞になつてしまひけり

・うつむいて何を思案の百合の花

・牡丹画いて絵の具は皿に残りけり

・六月を綺麗な風の吹くことよ

・夏羽織われをはなれて飛ばんとす

・柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

・赤とんぼ筑波に雲もなかりけり

・秋晴て故人の来る夕哉

・長き夜や千年の後を考へる

・松山や秋より高き天主閣

・柿くふも今年ばかりと思ひけり

・行く我にとゞまる汝に秋二つ

・鶏頭の十四五本もありぬべし

・蒲団から首出せば年の明けて居る」

・いくたびも雪の深さを尋ねけり」

「絶筆三句」

 明治35年9月19日、7年に及ぶ病魔との闘いを終えてこの世を去る。死の半日ほど前、紙を貼りつけた画板を妹の律に用意させ、そこへしたためた辞世の句。

・糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

・痰一斗糸瓜の水も間に合はず

・をとゝひのへちまの水も取らざりき

 

「短歌」

・人も来ず春行く庭の水の上にこぼれてたまる山吹の花

・くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

・松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く

・いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす

・瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

・足たたば不尽の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを

・足たたば黄河の水をから渉り崋山の蓮の花剪らましを

・足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを

・ひさかたのアメリカ人のはしめにしベースボールは見れとあかぬも

・國人ととつ國人とうちきそうベースボールを見ればゆゆしし

・若人のすなる遊びはさはるあれどベースボールに如く者あらじ

・球と球をうつ木を手握りてシャツ着し見ればその時思ほぬ

・九つの人九つのあらそいるベースボールの今日も暮れけり

・いまやかの三つの塁に人満ちてそぞろに胸のうちさわぐなり

・ベースボールうちはつす球キャッチャーの手にありてベースを人のゆきかてにする

・うちあぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に

 

(随筆『病牀六尺』より)

 一「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団ふとんの外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤まひざい、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪むさぼる果敢はかなさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪しゃくにさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして(五月五日)

 

 二十一「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」(六月二日)

七十五「 病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の 面白味もない」 (七月二六日) 

 

〇2019年四季折々(3月4日~10日)

(4日)・NHKスペシャル「“黒い津波”知られざる実像」をみる。

〈東日本大震災は、膨大な津波の映像が克明に記録された、初めての大災害だった。陸地に到達した当初は透明だった津波が、そのわずか5分後には真っ黒な色に変わっていた。“黒い波”はどのように生まれたのか? 当時のまま保管されている黒い海水を専門家が分析したところ、純粋な海水のみだった場合に比べ、黒くなったことで津波は強い破壊力を持ち、人々の命を奪っていった実態が明らかになった。黒い波は、より多くの建物を破壊し、がれきを巻き込み、このがれきがさらなる大量破壊の連鎖をもたらしていた。また、亡くなった人たちの「死因」について、これまでは9割が溺死とされてきたが、法医学者などは、土砂による窒息やがれきによる圧迫死など、複合的な原因もあったのではないかとみている。〉

 海が廃棄物、不溶性の有機物などによるヘドロ化しており、それらを巻き込んだ“黒い津波”となって襲ってきた。津波という自然災害に文明によるものが重なった災害だろう。

 (今日の一句)・春怒涛黒い津波の文明災

 

(5日)・「いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。」

 1934(昭和9)年、寺田寅彦『天災と国防』で次のようにいう。〈文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻おりを破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊ほうかいさせて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。〉

 少し飛躍するが、文明発展や経済成長は、便利さとひきかえに不自然な日常をおくっていることになるかもしれない。

 (今日の一句)・春星や過去を未来へ語り継ぐ

 

(6日)・「心のケアを担うこころとは」

 震災と原発事故から8年たつが復興とはほど遠い現実が次々と明らかになっている。原発事故のあった福島県では震災関連死が年々増えているという。少なからずの人が、この先まったく希望がもてなくて、悶々としている人もいる。

 知人から次の連絡を受けた。「現在まで約8 年間、 心のケアをおこなう人として被災地支援を継続してきました。『心のケアは大事であるが、何が心のケアなのか』そんな疑問を抱えながら活動を続けています。」

 (今日の一句)・わが内の解けぬ瓦礫や春愁ひ

 

(7日)・「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない」(正岡子規随筆『病牀六尺』より)

 明治の文学者・正岡子規の結核、脊椎カリエスと戦った35年の生涯を残された貴重な日記などから読み解く番組が放映された。苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け、母や妹の介護を受けながら多くの人と交流し、後進の指導をし続けた。

 1946年の世界保健機関憲章草案において、「健康」とは身体的、精神的、社会的にわたる良好な状態(well‐being)にあることとし、「健康」を全人的にとらえるようなってきた。

『病牀六尺』に「余は今まで禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」との言葉もある。

 子規は寝たきりの大病にも関わらず、ある意味「健康」だったのではないかなと思った。

 (今日の一句)・今ここに幸せありや不如帰

 

(8日)・2画面ドキュメンタリー「無人の町から8年~福島県浪江町~」から

 東日本大震災・原発事故で、一度は無人の町となった福島県浪江町。震災直後の8年前の映像と全く同じアングルで今の姿を切り取り、その歳月を問う2画面ドキュメンタリー。

 2年前に町の中心部は避難指示が解除された。人はどれだけ戻っているのか? 何が変わっているのか、いないのか?さまざまな決断をした人たちの思いとは?町の再建、積みあがる汚染土、新しい大規模太陽光施設など、8年の歳月が語るものとは何なのか?〉

 この左右の2画面で見ると、一人ひとりの心の面は分らないにしても、大災害・人災と復興がどのようなものなのか映像が持っている喚起力を思う。

 (今日の一句)・強いられし無人の街にふきのとう

 

(9日)・松村亜里『世界に通用する子どもの育て方 』から

 本書は「何をすると子どもがダメになるのか」ではなく、「どのような関わり方が子どもの幸せにつながるのか」という視点から、科学的に探究を重ねてきて、質の良い親子関係、人間関係が子どもの健康、幸福度を高めることや「統制型」、操作的ではなく、一人ひとりの子どもを尊重し信頼しその子が持っている自律性が発揮できる「支援型」で寄り添うことが大切など語られる。彼女の子ども時代や二人の子育てなど、いくつかの失敗を重ね、必ずしも順調ではなかっただろう体験からの裏付けに、ポジティブ心理学とウェルビーイングの最新の研究成果研究成果のエビデンスを踏まえて、具体的な工夫の仕方を提示していることが、本書の大きな魅力になっている。 https://wellbeing-education.org/about/

(今日の一句)・失敗から学ぶ熱意に山笑ふ

 

(10日)・「少しでも幸せな家族が増えることを願って」

『世界に通用する子どもの育て方 』の「あとがき」の言葉から。

 彼女の子ども時代は、わたしの子どもたちと同じ学園で育った。その頃そこは極度の統制型であり、私も関わりのあるところでもあり、その子たちが、大人になりどのような子育てをしていくのかに、関心を寄せている。

 昨秋、娘が出産した。この書をとおして、娘夫婦といろいろな話をするのを楽しみにしている。また、子育てに限らず、ひとりの人間としてわきまえていくことが書かれていると思うし、引き続き考えていきたいと思っている。

(今日の一句)・春の海愛され愛することを知り

 

◎松村 亜里 (著)『世界に通用する子どもの育て方 』を読んで

〇本書を読んで次のことを思った。

・「何をすると子どもがダメになるのか」ではなく、「どのような関わり方が子どもの幸せにつながるのか」という視点から、科学的に探究を重ねてきた。

・質の良い親子関係、人間関係が子どもの健康、幸福度を高める。

・「統制型」、操作的ではなく、一人ひとりの子どもを尊重し信頼しその子が持っている自律性が発揮できる「支援型」で寄り添うことが大切。

・「やればできる」というその子の自己効力感を大事にする。

・自分が自分らしく生き、相手が相手らしく生きることが多様性を尊重する社会になる。

・彼女の子ども時代や二人の子育てなど、いくつかの失敗を重ね、必ずしも順調ではなかっただろう体験からの裏付けに、ポジティブ心理学とウェルビーイングの最新の研究成果への取り組みがあり、考察に厚みを増したと思われる。

・多くの仲間、研究者に恵まれたことを通じて、見識が広がり、感受性が豊かになり、人間としての深みを増していったと思う。

・彼女の活動の底に、少しでも幸せな家族が増えることを願って、子どもたちが輝いて生きていける工夫に焦点が当たったのが今回の刊行につながったのではないだろうか。

・ご自分の体験やこれまでの研究成果のエビデンスを踏まえて、具体的な工夫の仕方を提示していることが、本書の大きな魅力になっている。

 

 あとがきに「私はこの本に役立つことを書いたつもりですが、正しいことを書いたわけではありません。正解はどこかに一つあるものではなく、それぞれの中にあるものです。」とあり、研究者として真っ当のことと思うが、きちんと述べていることに強い印象が残った。

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 ポジティブ心理学は、「幸福になるにはどうすればいいのか」を科学的に探究するもので、個人や社会を繁栄させるような強みや長所を研究する心理学の一分野である。精神疾患を治すことよりも、通常の人生をより充実したものにするための研究がなされている。また、個人の持っているレジリエンス(回復力。再起力。逆境に直面しても力強く成長できる資質)などに注目した。

 現代のポジティブ心理学を提唱したマーティン・セリグマンは、それまでの心理学が、精神疾患や心の病気を治すための努力はしてきたが、「どうすればもっと幸福になれるか」については、あまり研究してこなかったことに気がつき、1998年に、「心理学は人間の弱みばかりでなく、人間の良いところや人徳(virtue)を研究する学問でもあり、すでに主要な心理学的理論はそのような補強を行う方向に変貌しつつある」と指摘。こうした流れを受けて心理学研究の中で注目されるテーマになっていった。

 ウェルビーイングは、現代のソーシャルサービスの達成目標として、個人の権利や自己実現が保障され、身体的、精神的、社会的にわたる全人的に良好な状態にあることを意味する概念。1946年の世界保健機関(WHO)憲章草案において、「健康」を定義する記述の中で「良好な状態(well‐being)」として用いられた。

 

 著者の始めたウェルビーイング心理教育は「幸せに関する科学的知見を人生に活かす」との理念のもとで、〈 「人や社会を幸せに導く、科学的根拠に基づいた理論と方法」を学び、実践し、自分の人生を自分で創造できる人たちを増やすこと。ポジティブ心理学をはじめとするエビデンスに基づいた理論やスキルを分かりやすく伝え、毎日の生活に取り入れやすい形で学ぶことのできる生涯教育の場を提供する。〉とある

 その時代背景として次のように述べる。

〈様々な情報が交錯するなかで、自らの幸せを創造することにおいても、子育てや対人関係の改善においても、「本当に役に立つもの」を「自ら探す」ことができる時代になっています。そのような中で、物質的な豊かさや社会的地位が必ずしも幸せをもたらさないということが、徐々に理解されつつあります。また、誰かの成功体験を模倣するのではなく、「科学的な」根拠(エビデンス)のある理論やスキルが求められていると感じます。

 ウェルビーイング心理教育アカデミー(以下、AWEと表記)は、そのような時代の流れの中にあって、「科学で裏付けられた人や社会を幸せにする方法を学び続けられる身近な場所」を提供するために設立されました。〉

 参照https://wellbeing-education.org/about/

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「幸せ」や「健康」という極めて主観的な感情を科学的にとらえることは、かなり難しいとされてきた。科学のルールとして「相関関係は因果関係を含意しない」がある。因果関係を明確に示すデータや再現性がないと「科学的に立証された事実」とは認められない。

 

 だが人生の目的は幸せであるという思想家はいて、多くの人にとっても関心の高いものであり、一部の研究者の大きな目標課題でもあった。近来の分野を超えた研究者、科学者などの研究成果で、幸福や健康についての知見が高まってきたし、そのことを専門に考察する人、分野も増え、著者もその一人であろう。

 どこまでも相関関係ではあるが、一人ひとりの個別性に留意しつつ、ある程度の傾向の考察はサイエンスとして確立してきているのではないだろうか。

 

 彼女の子ども時代は、わたしの子どもたちと同じ学園で育った。その頃そこは極度の統制型であり、私も関わりのあるところでもあり、その子たちが、大人になりどのような子育てをしていくのかに、関心を寄せている。

 この書をとおして、昨秋出産した娘夫婦といろいろな話をするのを楽しみにしている。また、子育てに限らず、ひとりの人間としてわきまえていくことが、書かれていると思うし、引き続き考えていきたいと思っている。

 

※松村 亜里 (著)『世界に通用する子どもの育て方 』(WAVE出版 (2019/3/6)

◎日々彦「詩句ノート」、V・E・フランクル『それでも人生にイエスという』

〇V.E. フランクル『それでも人生にイエスと言う』の言葉から

・私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているのです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。

 

・私たちはさまざまなやり方で、人生を意味のあるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。苦悩することによってというのは、たとえ、さまざまな人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなっても、そうした制約に対してどのような態度をとり、どうふるまうか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点で、価値を実現することがまだできるからです。

 

・収容所の中では自分が無になってしまっていたのです。生きながら死んでいたのです。私たちは何ものでもなかったのです。私たちはたんに無を見たのではなく、無だったのです。生きていてもなんということはありませんでした。死んでもなんということはありませんでした。私たちの死には光輪はありませんでしたが、虚構もありませんでした。死ぬということは、小さな無が大きな無になるだけのことだったのです。そして死んでも気に留められることはほとんどありませんでした。とっくの昔に「生きたまま」死ぬ前に死を体験していたからです。

 

・苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです】。人生に重い意味を与えているのは、この世で人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。

 けれども、人生に重みを与えているのは、ひとりひとりの人生が一回きりだということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、【人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせている】のです。その一回きりの要求が実現されなかった、いずれにしても実現されなかった時間は、失われたのです。

 

・人生を意味のあるものにできるのは、第一に、なにかを行うこと、活動したり創造したりすること、自分の仕事を実現することによってです。第二に、なにかを体験すること、自然、芸術、人間を愛することによっても意味を実現できます。第三に、第一の方向でも第二の方向でも人生を価値あるものにする可能性がなくても、まだ生きる意味を見いだすことができます。自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運命であり、避けられず逃れられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をとるか、その事実にどう適応し、その事実に対してどうふるまうか、その運命を自分に課せられた「十字架」としてどう引き受けるかに、生きる意味を見いだすことができるのです。

 

※参照:『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル/山田邦男、松田美佳訳(春秋社、1993年)

 

〇2019年四季折々(2月25日~3月3日)

(25日)・麻痺の手に残る力でゆび言葉わが掌にさよならの文字(麻酔科医・外須美夫)

  昨日NHKスペシャル「大往生~わが家で迎える最期~」を見る。内容は次のようになる。

〈「人生の最期をわが家で」は、多くの人の願いだ。国も医療費抑制などのため在宅医療を推奨し、増えていく見込みの自宅での死。しかし、現実には介護する家族の高齢化や疲弊、貧困などさまざまな問題が立ちはだかる。そんな現場に身をおく80歳の老医師がいる。埼玉県新座市の堀ノ内病院の小堀鷗一郎さんだ。森鷗外の孫で、かつては東大病院の外科医として活躍した老医師が、最後にたどり着いたのが“死に際の医療”を地域で行う在宅医だった。死の床にある患者と同世代、いわば“老老医療”である。患者にかける言葉は友人同士のようであり、時にハッとするほど厳しく、時に深く共感しつつ、等身大で向き合う。その人らしい最期の時間を患者や家族たちと話し合いながら作っていく。〉

 この番組は、超高齢化社会を支える在宅医、医療制度や福祉制度、老々介護などの介護を巡るありようという普遍的な内容や問題提起をしながらもただそれだけじゃない内容だ。それぞれの当事者や家族の姿、そして小堀医師の姿・ことばが心に残る。

(今日の一句)・うららかや病者に寄り添う人と人

 

(26日)・春眠のつづきのやうに母逝けり(藤ゆきこ)

 番組の中で、小堀医師がもっとも気にかけている親子、末期の肺がんを患う84歳の父と介護する全盲の47歳の娘と小堀医師の心の交流が特に身に染むものだった

 幼いころ視力を失った娘を両親は一生懸命育ててきた。8年前に妻が脳梗塞になり、父が二人の世話を一人で担ってきたが、妻もなくなり、父も末期の肺がんで寝たきりになった。

 病院で病名がわかったときに在宅で治療するか、入院するかと聞かれた父が、「不自由な娘がいるので、入院はしたくないです」と答えた。娘は父の気持ちを叶えたいので、在宅で介護しようと思ったという。

 診療以外の日も、2人の様子を見に行く小堀医師。ある日、娘さんから「父の反応がない」と小堀医師のもとに連絡があり、結局息を引き取ることになる。

「これが最期だね」と小堀医師がいうと、それを聞いて娘さんは、お父さんが、足が痛いというようなことを言ったときに、お父さんに対して「そんなこと言わないでと泣いちゃった。泣かなければよかった」といったときに小堀医師が次のようにいう。

「笑ったり怒ったりそれが当たり前なんだよ。それが家族なんだよ。」

 医師は医師として、当事者は当事者として、介護者は介護者として精一杯気負いなく生き抜いていき、お互いのことばの一つ一つが、慈しみに満ちたもので、まさに大往生でした。

((今日の一句)・眼の力失せたる義母へ梅一枝

 

27日)・一日に何度も笑ふ笑ひ声と笑ひ顔を君に残すため(河野裕子)

 上記は乳がんで亡くなった歌人河野裕子の病中吟。

 小堀医師と父娘の交流から、V・E・フランクル『それでも人生にイエスという』(春秋社、山田邦男・松田美佳編訳)の次の言葉を思う。 

〈なにをして暮らしているか、どんな職業についているかは結局どうでもよいことで、むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最前を尽くしているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのは、その活動範囲において、最前を尽くしているか、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかだけなのです。〉

〈「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私をまっているかと問うだけなのです。〉

 本書は、ナチスによる強制収容所の体験として全世界に衝撃を与えた『夜と霧』の著者が、その体験と思索を踏まえてすべての悩める人に「人生を肯定する」ことを訴えた講演集。

(今日の一句)・鶯やなにを期待す人生は

 

(28日)・死ぬときは箸置くやうに草の花 (小川軽舟)

 昨日友人の93歳になる父親が亡くなる。妻同士は頻繁に電話交流をしていて、話題が一緒に暮らしている友人の両親のことに及ぶことがあり、ある程度様子はつかんでいた。お互いにいろいろ思うことはあり、大笑いしながら愚痴も含めて話し合うことも多い。

 医療や介護体制のこともあるが、身近に忌憚なくやり取りできる仲間がいることは大きいと思っている。

(今日の一句)・おしゃべりも介護のうちや山笑ふ

 

(3月1日)・生き代わり死に代わりつつわがうちに積む星屑にいのち華やぐ(柳澤桂子)

 老化ということ自体は自然現象であり、さほどの問題でなく、多くの身体、生理能力が減少するということは、中年や青年でも個人差の範囲に入り、相対的な問題である。

 老人問題は、一般的長寿化の時代にあっては、その病気にある。したがって医療体制や介護体制の充実が大きな課題となる。現状はまだまだの感があるが、そこに気をおいて活動している人も少なからずいる。

 なお、「在宅医療と在宅介護の現状と誤解・問題点」は『ケア大学』のHPに詳しく掲載されている。 https://caredaigaku.com/zaitaku-iryo-kango/

(今日の一句)・癒えずとも今日のいのちや木の芽和

 

(2日)・福寿草ふくらみふくらみ万力を聚(あつ)めてひらく光の中に(上田三四二)

『早春の六甲山と六甲高山植物園を訪ねて』に参加。最初に、薬用植物に詳しい沖和行氏の講座「植物のちから」を解説付きでスライドを見ながら早春の花やその薬効を学ぶ。

「花の色、葉の色、紅葉や落ち葉の色、そして植物の香りや味、そうしたものにも生きるための理由があり、私たち人類は古くよりそうした植物の力をうまく生活の中に取り入れてきた。病気を治し、健康を維持するために用いる薬のほとんどが植物から作られていることを、植物の目線からひも解いていくと生きるための仕組み『植物のちから』の一つを利用させてもらっているにすぎません。」という。

 妻は薬草に熱心で、わが家では皮膚などには手作りのドクダミ(十薬)液がもっとも身近な薬になっている。私も聞いていてとても面白かった。

(今日の一句)・六甲山友と十薬摘みにけり

 

(3日)・菫ほどな小さき人に生まれたし(夏目漱石)

 講義のあと、鶯の初音を聞きながら高山植物園へいき、沖氏の案内で散策する。この植物園は1933年(昭和8年)に開園。植物学者・牧野富太郎博士の指導を受けていたそうだ。普段なら見向きもしない野の草・花に話を聞きながらじっくり見ていく。

 この植物園で植栽では日本最大といわれる「バイカオウレン((梅花黄蓮))」があちこちにあり、とても小さく2~3センチぐらいで、地面に張り付いたように咲いていた。

 白い部分は花びらでなく、黄色の点に見えるのが花びらになるそうだ。花が白いウメのようで、オウレンというのは、黄色い根という意味で、切断してみると黄色がはっきりしているそうだ。こういうのはじっくり見ないとわからないので、感嘆しながら見ていた。

 (今日の一句)・梅花黄蓮の宇宙春の植物園

 

◎マルクスの自分中心的な人間観から「地動説」的な人間観への転換(内田樹『寝ながら学べる構造主義』から)②

 わたしは知識としては地動説を知っているが、感覚としては,日が昇り・日が沈むといい、自然界の動きなどについてはほとんど、自己を軸にした天動説な見方をしていることが多い。これはものの見方、思考方式そのものが、少なからず天動説的な感覚を持って暮らしているのではないだろうか。

 

 本書の「マルクスの地動説的人間観」を面白く読んだ。マルクスのことはあまり詳しくないし、あくまでも内田氏の説から考えたことであり、ここでは、脱‐中心化や地動説的人間観に焦点を合わせてみていく。

 

〇第1章3「マルクスの地動説的人間観」で著者はこう述べる。

〈自分の思考や判断はどんな特殊な条件によって成り立たせられているのか、という問いを突き詰め、それを「日常の生き方」にリンクさせる道筋を発見した最初の例は、カール・マルクスの仕事です。構造主義の源流の一つは紛れもなくマルクスなのです。(p26)〉

 

 マルクスは、「意識が生活を規定するのではなくて、生活が意識を規定する」として、人間は「どの階級に属するか」によってものの見え方が変わってくると考えた。人間は自由に思考しているつもりで、実は階級的に思考している、という分析をした。

 その世界観の核心は、社会経済問題に対する制度と価値の考察を通じた規範的分析である。マルクスが『資本論』で訴えているのは、人類の救済であり、彼の理論で最も卓越していた点は、経済学というより歴史理論と政治学である。(『ウィキペディア』より)

 

〈私たちは自分が「ほんとうのところ、何ものであるのか」を、自分が作り出したものを見て、事後的に教えられます。私が「何ものであるのか」は、生産=労働のネットワークのどの地点にいて、何を作り出し、どのような能力を発揮しており、どのような資源を使用しているのかによって決定されます。

 自己同一性を確定した主体がまずあって、それが次々と他の人々と関係しつつ「自己実現する」のではありません。ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで「作り出した」意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義のいちばん根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方です。(p31-32)〉

 

 これは「階級」だけではなく、さまざまな人との交流、ネットワークや環境によって「私」の見方が形成される。

 一人ひとりは、その人ならではの普遍的人間性が宿るというような人間観を退け、人間の個別性をかたちづくるのは、その人が「何ものかであるか」ではなく、そのネットワークのなかで「何ごとをなすか」によって決定される、とマルクスはそう考えた

 

〈ネットワークの中心に主観的・自己決定的な主体がいて、それがおのれの意思に基づいて全体を制御しているのではなく、ネットワークの「効果」として、さまざまのリンクの結ぶ目として、主体が「何ものであるか」は決定される、という考え方は「脱―中心化」あるいは「非―中心化」とも呼ばれます。

 中核に固定的・静止的な主体がおり、それが判断したり決定したり表現したりする、という「天動説」的な人間観から、中心を持たないネットワーク形成運動があり、そのリンクの「絡み合い」として主体は規定されるという「地動説」的な人間観への移行、それが二〇世紀の思想の根本的な趨勢である、と言ってよいだろうと思います。(p32)〉

 

「脱―中心化」とはフランスの M =フーコーが現代社会と現代人の行動を特徴づけるために用いた語で、狂気と理性、異常と正常といった区別は「歴史」の中でつくられたものであるとし、「理性」「主体」などの西欧近代の既成的な概念を脱中心化した。

 フーコーは、このような人間の内面的意識を拘束する社会の規範構造を明らかにすることによって、それにとらわれた自我を解放し、自由に思考する知性をそなえた真の自己を回復しようとした。

 

 おそらく構造主義の文脈とは少しずれると思うが、「脱中心化」について心理学者ピアジェの理論も思う。幼児の認知発達段階における前操作期(2歳~7歳)から具体的操作期(7歳~12歳)への移行段階で生じる、自己中心性の思考から脱する過程を「脱中心化」とした。自己中心性とは、自分にしか通用しない特殊な象徴化パターンにより、すべてのものを把握、表現しようとしたり、自分が得た知覚情報のみですべての状況を認知、理解、判断し、他者の視点や立場にたって考えられない状態をいう。

 具体的操作期に入ると、この自己中心性から脱して、さまざまな知覚情報を組み合わせることができ、より抽象的で一般的な象徴化が可能となる。さらに、具体的な体験を通して、自分の観点と他者の観点が異なることを理解するようになり、他者の観点からも物事を客観的に見られるようになる。成長するとはそういうことなのだろう。

 

 わたしたちは、外界の事物が世界を構成していると思いがちだが、実は、過去の経験の記憶に基づいて、それぞれの意味の世界をつくり、そこからあらゆる現象を見ている。

 日々いろいろな判断をしながら暮らしているが、その判断のよって立つ根拠はそれぞれの時代、地域、集団や周囲の環境によって、作り上げられたもので、そこにはさまざまな偏りがあると思われる。

頭で理解していても、自己中心的にものごとをとらえていることで、その自覚がないまま他の人との会話がギクシャクしたものとなり、ひどい場合には争いになっていく。

 

 内田樹は『こんな日本でよかったね(構造主義的日本論)』の「あとがき」で次のようにいう。

〈構造主義というのは1950〜60年代にフランスを発信源としたいくつかの学術分野に共通していた、ある種の知的な「構え」のことです。どういう「構え」か、一言で言うと、「自分の判断の客観性を過大評価しない」という態度です。……「自分の判断の客観性を過大評価しない」と言うのは、言い換えると、「自分の目にはウロコが入っているということをいつも勘定に入れて、『自分の目に見えるもの』について語る」と言うことです。〉

 さらに次のようにいう。〈自分の判断の客観性を過大評価しない」と言うのは単なる倫理的な心構えや自戒のことではありません。もっと技術的でクールな手続きのことです。〉

 技術的でクールな手続きとはどんなことだろう?

 

◎日々彦「詩句ノート」、浅井慎平句集から

〇浅井慎平句集から

・『ノスタルジア』(浅井愼平句集 2008)

「ノスタルジアは人生そのものである。人はなにかを見ればなにかを思い出す。五感すべてがノスタルジアの装置というわけだ。ぼくの場合俳句という表現にノスタルジアが、いつも忍び寄ってくる。ノスタルジアがあるから俳句が生まれるといっていい。」(あとがきより)

花いばら十七才のブルージーンズ 

銀河屋の赤きセーター又三郎

凧あげて助手をつとめし昭和かな

夕焼けに叫べばムンク冬に入る

冬の蝿とんで昭和の窓辺かな

雪ひらり人懐かしき人嫌い

 

・『冬の阿修羅』(浅井愼平句集 2009)

「小説も詩も、ぼくという宇宙のどこかでビックバンがあり、星がぶつかり、散り、漂い、集まり、それが言葉になって溢れ出てくる。」(著者・跋より)

青い空蓑虫見あぐ山頭火

ふるさとは持たず写真師百日紅

逝きし友白きシャツのまま見送れり

蚊帳匂う星の香りと思いけり

遠花火父を見捨てて少年期

夕立や失意いくつも跳ねている

木枯やこころは見えず二人酒

木枯しや中原中也のゆやゆよん

モナリザの微笑消えはじむ冬近し

雪霙霰青空五合庵

 

・『二十世紀最終汽笛』(浅井愼平句集、1993)

「言葉の花束を捧げたい。:様式の深さに自由の翼を。世紀末の闇をつらぬいて飛べるのは想像力だけ。想像力こそ希望。しかし、絶望を持たぬものに希望はない。絶望を抱くあなたに言葉の花束を捧げたい。明日のために。」

飢ゑ知らず戦後もしらず成人す 

ルノワール女の腰の春深く 

春の雨郵便ポストから巴里へ

風花や燐寸するとき夜の雲

始まりも終わりもなけれ冬銀河

雪くれて昭和彷う黒マント

 

〇2019年四季折々(2月18日~24日)

(18日)・まヽ事の飯もおさいも土筆かな(星野立子)

 昨日のNHK俳句・題「土筆」に浅井愼平(81歳)氏がゲストで出演された。写真家・浅井氏は俳句をたしなみ、俳人として数冊の写真俳句集を出している。

氏の想像力あふれる発想で投句者などの心情をおもんばかる発言に面白さを覚えた。

 昨日の一席は「汽車の音浴びてすくすくつくしんぼ」(徳竹邦夫)   

 立子の句は俳句を作り始めた頃の句で、虚子が述べるように「自然の姿をやはらかい心持で受け取ったまゝに諷詠する」その感性に心地よいものを感じる。

印象深い句から。「囀をこぼさじと抱く大樹かな」「美しき緑走れり夏料理」「朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ」「しんしんと寒さがたのし歩みゆく」

(今日の一句)・古稀超えの少年少女土筆野へ

 

(19日)・象という宇宙冬の動物園(浅井愼平)

 NHK俳句に紹介された象の句は『哀しみを撃て』(浅井愼平 写真俳句集、2015)所収。他に「はじめから翳はありけり人の春」「花いばら痛いじゃないか純粋は」「紫陽花や鉄の匂いのする街に」「ジョバンニの森抜けて風青々と」「きみの弾くショパンは昏しソーダ水」「信長の消息来たる枯野かな」「漱石の古書干しにけりまたの冬」「初雪や赤きバケツに二粍ほど」「冬近し汽車の音する印刷機」「さみしさという定型や去年今年」

 氏の俳句集は、写真はもとより、添えられた俳句、詩、跋などに素晴らしさを感じる。印象に残る句集から。

 

・『冬の阿修羅』(浅井愼平句集 2009):「小説も詩も、ぼくという宇宙のどこかでビックバンがあり、星がぶつかり、散り、漂い、集まり、それが言葉になって溢れ出てくる。」(著者・跋より)

(今日の一句)・風に立つライオン春のノスタルジア

 

(20日)・玉砂利のおと柔らかき雨水かな(勝子)

 時折、友人から俳句を紹介される。定期的に俳句書籍などは送られてくるが、友人の句を読むのはその人の個人的な暮らし、心情をおもんばかるなど特に楽しい。

 上記の句は夫の大病の癌の手術が無事に終わり、伊勢神宮にお礼参りしたときの句という。他の句に「梅早し拝殿の鈴鳴らしけり」「御手洗の龍の口より春の水」がある。

 雨水は二十四節気の一つ草木が芽生える頃で、昔から農耕の準備を始める目安とされてきた。また、忍び寄る春の気配に草木が蘇るとの意がある。それと快癒の喜びと「玉砂利のおと柔らかき」との取り合わせに、心の春に向かう気持ちが現れたのだろう。

(今日の一句)・雨水の日おこす大地の湯気青し

 

(21日)・萬緑の中や吾子の歯生え初むる(中村草田男)

 先日「お食い初め」(おくいぞめ)のお祝いを娘夫婦と私たち夫婦でとり行った。

「食い初め」とは、生後初めて赤ちゃんにご飯を食べさせる祝いの行事。歯が生えるほどに成長したことを喜び、こどもが一生食べるものに不自由しないように祈り、健やかな成長を願う儀式です。平安時代頃から行われていたらしい。

 生後120日余りで、まだご飯を食べさせることはしていないが、生えている歯へ形ばかりのご飯などを添えた箸を当てていく。

 娘夫婦は由緒のある家系の影響もあるのか、このようなことに熱心で、関心の疎い私にはそのことを面白くみている。このようにして、ワイワイやるのは楽しいものだなと思った。

(今日の一句)・のどけしや親子嬉しきお食い初め

 

(22日)・鰯雲仰臥の子規の無重力(東国原英夫)

 孫は生誕時の体重が3キロ弱から今は7キロ弱になっている。妻によると体は重くなっているが、首がすわってきたので、抱っこすることがずいぶん楽になったそうだ。

 それまでは全身を受けとめ手に委ねていたわけで、少しずつ、重力に対応できる筋肉やからだ全体の発達が進み、自分自身で支えるような動きになってきたのだろう。

 まだハイハイはしないが手足の動きも活溌化してきて、驚きなのか喜びなのか大きな声を出すときがある。意志・意欲もかなり出てきているのを感じる。

(今日の一句)・重力に応ずる吾子や牡丹の芽

 

(23日)・瓦礫みな人間のもの犬ふぐり(高野ムツオ)

 エアコンの掃除に息子の紹介で業者に来ていただいた。越してきてから3年半ほどになり、普段あまり使わないのだが、かなり汚れたひどい状態になっていたという。建物そのものは築10年ほどになり、以前に、住んでいた人からのものも蓄積していたのだろう。

 わが家では掃除機をかけるのはわたしの担当になっていて、ほぼ毎日しているが、集塵状態を見ると、目に見える以上に埃はたまっているのがわかる。エントロピー増大の乱雑さは、自身の体、暮らしや社会の汚れを含めて、あらゆるところに及んでいくのだろう。

(今日の一句)・春塵や時間も塵になっている

 

(24日)・「ともどもに平らけき代を築かむと諸人のことば国うちに充つ」(皇后陛下)

 天皇陛下の平成在位30年記念式典のお言葉は、〈近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。〉と述べ、〈日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。〉と振り返り、しみじみしたものと感じた。

 永田和宏氏はお二人の数多の慰霊の歌について次のようにいう。

〈寄り添い方には今の国民に対する共時的なものと、歴史的、通時的なものがある。災害でいま苦しんでいる人々へのお見舞いと、戦争の犠牲者への、悲しみの記憶を持って生き続けた人たちの時間に寄り添う慰霊とは、同じ寄り添うことの両面なのだと思う。平成の天皇の象徴性は、寄り添うという行動の中にあるものと考えたい〉(※1/17神戸新聞より)

 ささやかでも、寄り添うことの両面を大切にしていきたいと思っている。

(今日の一句)・陽炎や過去も未来も今のこと

◎私たちは「偏見の時代」を生きている(内田樹『寝ながら学べる構造主義』から)①

 

〇本書のまえがきで次のように述べる。

〈知性がみずからに科すいちばん大切な仕事は、実は「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。

 知的探求は(それが本質的なものであろうとするならば)、つねに「私は何を知っているか」ではなく「私は何を知らないか」を起点に開始されます。-----入門書が提供しうる最良の知的サービスとは、「答えることのできない問い」、「一般解のない問い」を示し、それを読者一人一人が、自分自身の問題として、みずからの身に引き受け、ゆっくりと噛みしめることができるように差し出すことだと私は思っています。〉(p11‐12)

 

 本書を何度か読んでいるが、「人間はどのようにものを考え、感じ、行動するのか」というような、私たちふつうの人の日々の営みの本質的なありかたを分かりやすく問い続け、解明した著書で、自分自身の問題として、みずからの身に引き受け、ゆっくりと噛みしめながら、印象のある個所をアンダーラインならず、ノートに書き写した。

 

 本書第一章1「私たちは『偏見の時代』を生きている」で、次のように述べる。

〈私たちはつねにあるイデオロギーが『常識』として支配している、『偏見の時代』を生きている」という発想法そのものが、構造主義がもたらしさ、もっとも重要な「切り口」だからなのです。〉(p19)

〈構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
 私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。(p25)〉

 

 自分の属する社会集団、地域、時代、環境などによって偏ったものの見方をしているのではないだろうかという自分に対する問いかけは、大事ではないだろうか。

 私はある理想を掲げた組織に長く所属していたので、上記のことはなおさら思う。

 社会心理学用語で認知的不協和理論がある。

 知識の矛盾状態における行動の傾向について、フェスティンガーが展開した理論。 信念・意見・態度などを含む我々の知識を<認知要素>と呼ぶ。自分の中にあった<認知要素>と、新たに与えられた<認知要素>の情報が矛盾する状態が<認知的不協和>である。人はこの状態を不快に感じ、この矛盾を解消しようとする。このとき、自分にとって変えやすいどちらか一方の<認知要素>の内容を変えることで、協和した状態へ導こうとする傾向がある。

 しかも、特殊な組織への加入は、それまでの生活方式とはなはだ違った状況に出会い、当人が認知的不協和を解消しようとする結果、組織への主観的評価を高めると考えられている。

 このことは特殊な集団への帰属に限らないだろう。普段よく交流している人のなかで、あるいは、自分と全く違う見方の人などと出会ったとき,考え方の違いに限らず、感情、行動を含めた心身が周りと、その人とそぐわなくなり、落ち着かない気分から何とかのがれようとするのは、普通の人のあり様ではないかと思う。

 

 人は直面していること、目の前で展開されていることを、現時点での自分のもっている見方や感情など〈身についた思い込み〉で解釈し、簡単にやり過ごすことも多いだろう。

 むろん、これは次々に入ってくる情報を、いちいちつぶさに考えることや戸惑いを少なくして、迅速に処理することで日常生活がスムーズにいくというメリットがある。

 一方、簡単にやり過ごすことで、日常の何気ないことに潜んでいる、おかしさ、不思議さへの発見に乏しく、見直ししたり、揺さぶられたりしながら、そのことを問うことをしないまま、マンネリ化した暮らしを続けることにもなる。また、一旦身についた見方、先入観からなかなか逃れられないデメリットがある。

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 私たちの言動を大きく左右する、「よい・わるい」、「正しい・間違い」の判断も、よく調べていくとその基準は時代や地域によって全く違った捉え方になったりする。「正しい」というのは「それが自分にとって心地いい」かどうかと言い換えてもいいぐらいだと思う。そのほうが精神的には安定するから、それを無意識に求めてしまう。自分が「心地よく」感じて「好感」を覚えるものを、僕らは「正しい」と判断しやすい。

 

 普段の生活の中で、だれかに対して「それは間違っているよ」と注意したりする。その「間違っている」を、「おれはその態度が嫌いだ」と言い換えてもいいくらいだ。「正しいよ」と言ったりするのも、「俺はその思い方が好きだ」と言っている場合が多い。

「正しい・間違い」というのは、ほとんど無意識的に、個人的なあるいは社会的な意味での「好悪」のバランスの問題になっているのではないだろうか。

 

 正常・異常についても同じことが言えると思う。正常とは、社会の(圧倒的)多数のものによって受け入れられているような事態だと言い換えることができる。それに対して異常とは、社会の圧倒的多数者の目に、自分とは異なっているという違和感を覚えさせるものをいうのではないか。つまり、多数者にとって自然に思える事柄が正常な事態だとして無条件に前提されているがゆえに、それから少しでも外れた事態が、正常の反対としての異常として受け取られるのではないか。したがって、人によって、時代や地域によって、そのとらえ方は極端ともいえるほど違ってくる場合がある。

 

〈世界の見え方は、視点が違えば違う。だからある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎づけられない。私たちはいまではそう考えるようになっています。このような考え方の批評的な有効性を私たちに教えてくれたのは構造主義であり、それが「常識」に登録されたのは四十年ほど前、一九六〇年代のことです〉(p25)

 

 現代を生きる私(たち)は、さまざまな価値観が世の中に存在し、絶対的な善も悪も容易に区別することはできず、それぞれの価値観は相対的なものでしかないと思っている。西洋文明は先進的で優れており、未開の部族の文化は後進的で劣っているとは考えない。ある地域で紛争が起き武力衝突するとき、それぞれの勢力にそれぞれの立場があり、それぞれの言い分にも一理あるのではないだろうかと思う。

 このように現在の私は考えているが、この見方・考え方が構造主義による成果であることが、この著書を通して気づかされた。

 昨今の情勢を見る限り、そのような思考が現代人の間でどれだけ共有されているか、疑いたくなるようなニュースも多いが。

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 本書のあとがきで著者は次のようにいう。

 この著は、著者が20歳の仏文学生時代、構造主義の諸思潮が注目されていたが、それについての主著はどれもむずかしい概念をただむずかしい訳語に置き換えただけのもので、何を言おうとしているのか少しも分からなかった。当時の著者でもすらすら分かるような、「ふつうのことば」で書かれたフランス現代思想の解説書があったらありがたいと思っていた。

 それから幾星霜。人並みに世間の苦労を積み、「人としてだいじなこと」が何であるか、しだいに分かってきて、かつては難解と思われた構造主義者たちの「言いたいこと」がすらすら分かるようになり、落語に出てくる横丁の隠居の驥尾に付して、構造主義者の滋味深き知見を「横丁のみなさん」に説き聞かせようと思った入門書である。

なお、本書のもとになったのは、フランス現在思想や哲学についてほとんど予備知識がない平均年齢六十歳ぐらいの市民講座のための講義ノートだそうだ。

 

 構造主義の構想、構築に大きく参与した人たち(マルクス、フロイト、ニーチェ、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカン)とその思索を紹介、解説しながら本書は展開する。その名前には馴染みはあるが、その思索について、ほとんど読んだことないか、触れたけれどよく分かっていないことが、内田氏のとらえ方を通してであるが、「ああ、なるほど、そういうことって、たしかにあるよね」と得心しながら、ときにはどういうことだろうと思いつつ、自分に引き付けて考えていく面白さがあった。

 

※参照・内田樹『寝ながら学べる構造主義 』(文春新書、2002)

◎日々彦「詩句ノート」、さだまさし作詞・作曲『風に立つライオン』

〇さだまさし作詞・作曲『風に立つライオン』

突然の手紙には驚いたけど嬉しかった

何より君が僕を怨んでいなかったということが

これから此処で過ごす僕の毎日の大切な

よりどころになります ありがとう ありがとう

 

ナイロビで迎える三度目の四月が来て今更

千鳥ヶ淵で昔君と見た夜桜が恋しくて

故郷ではなく東京の桜が恋しいということが

自分でもおかしい位です おかしい位です

 

三年の間あちらこちらを廻り

その感動を君と分けたいと思ったことが沢山ありました

 

ビクトリア湖の朝焼け 100万羽のフラミンゴが

一斉に翔び発つ時 暗くなる空や

キリマンジャロの白い雪 草原の象のシルエット

何より僕の患者たちの 瞳の美しさ

 

この偉大な自然の中で病いと向かい合えば

神様について ヒトについて 考えるものですね

やはり僕たちの国は残念だけれど

何か大切な処で道を間違えたようですね

 

去年のクリスマスは国境近くの村で過ごしました

こんな処にもサンタクロースはやって来ます 去年は僕でした

闇の中ではじける彼等の祈りと激しいリズム

南十字星 満天の星 そして天の川

 

診療所に集まる人々は病気だけれど

少なくとも心は僕より健康なのですよ

僕はやはり来てよかったと思っています

辛くないと言えば嘘になるけど しあわせです

 

あなたや日本を捨てた訳ではなく

僕は「現在(いま)」を生きることに思い上がりたくないのです

 

空を切り裂いて落下する滝のように

僕はよどみない生命(いのち)を生きたい

キリマンジャロの白い雪 それを支える紺碧の空

僕は風に向かって立つライオンでありたい

 

くれぐれも皆さんによろしく伝えて下さい

最后になりましたが あなたの幸福(しあわせ)を

心から遠くから いつも祈っています

 

おめでとう さようなら

※出典: http://lyrics.jetmute.com/viewlyrics.php?id=2424991

 

 柴田紘一郎氏は「風に立つライオン」を収録したアルバム「さだまさしベスト」にコメントを寄せているが、その一節に次の文がある。

〈“風に立つライオン”は小生のアフリカでの2年あまりの体験及び浅学菲才のゆえの雑談を医師を例にとり、人としての生き方をまさしさんの感性と才能で創作した曲である。

 この歌は、現代人の心の不摂生のため、過剰にしみついた魂の脂肪に対する警告でもあるように聴こえる。小生もアフリカの大地を通して学んだ事をすこしでも役立てて“風に立つライオン”のようになりたい。〉

  

 また、別のところで医者について次のように述べている。

「医者の良い点というのは、我々はどこにいても、例えば無医村にいても都会にいても、相手となる患者さんというのは尊厳価値においては同一じゃないですか。どういう所にあっても全力で仕事ができるというところでしょうか。悪い点は、医者の中には”自分が治している”と勘違いしている人がいる、ということでしょうね。患者さん自身が治ろうと、治そうとしているのに、医者はそれを神様と共にちょっと手助けするだけなのに、”自分が治している”と思い上がった心を持ってしまう…。まあこれは僕だけの意見ですけどね。」

(出典:小説『風に立つライオン』と柴田紘一郎先生 | チーム八ちゃん)

 

〇2019年四季折々(2月11日~17日)

(11日)・極寒の鷲へ撮る人溶け込めり 

 神戸では朝から雪。今年一番の寒さとなる。9日の北海道内4地点で零下30度を下回り、釧路市の阿寒湖畔など10地点で観測史上、最も低い気温を記録したという。北海道鶴居村で国の特別天然記念物タンチョウが、川面から立ち上がる水蒸気が冷気に触れて霧になる「けあらし」の間を飛び交う幻想的な光景が一枚の写真として新聞に掲載されていた。

 いつも楽しみにしている井口義友氏は「大鷲の幼鳥の鼻の孔付近は呼吸の息が凍り白く塊に、目の周りも目の涙が凍り付いて白くなっている」鮮やかな写真をFacebookに掲載していた。

 撮る人は、そこと同じ環境の中に身を置き、じっくり待ちながら、ある一瞬を写真に焼き付ける。それを見る人はそれぞれの仕方で、そこから時空を超えた何かを感じ取るのだろう。

 

(12日)・身のうちを揺り動かすや涅槃西風

 友人から私の知り合いでもある安義寺住職の吉水秀樹氏の書いた素敵な絵本があるよと聞いて、その著『ダニヤ経 -ブッダが説くゆるがないしあわせ』を取り寄せた。

『ダニヤ経』はブッダ自身の言葉を簡潔にまとめたものと、仏教興生初期に編纂された最古の仏典のひとつとされている『スッタニパータ』の第一章の二にある。

『スッタニパータ』は難解な仏教用語はほとんどなく、ごく自然に受けとめられる平易な言葉で多くの民衆にじかに接し、問いかけたブッダの息吹が感じられる。

 本書は、ご自分の体験を交えながらわかりやすい言葉で、『ダニヤ教』を解説し、畠中光享氏の絵とともに、おそらくある程度考えることのできる10歳ぐらいの子どもから、おじいちゃんおばあちゃんまで親しんでいける大人の絵本になっているところにまず共鳴した。

『ダニヤ教』は対機説法(相手の資質に相応して理解のゆくように説くこと)で17偈(詩句)が展開される。巻末の付録に「パーリ語と読み方」が掲載されていて、原文の詩の持つ韻をふんだリズミックな詩句が美しく、これも本書の特徴となっている。

〈ダニヤ経の主題は、物質に依存したダニヤさんの「幸福」に対比される、何ものにも依存しないブッダの「真実の幸福(涅槃)」にあります。〉 と著者はいう。

本書を通して、吉水氏がこのような著書を書くようになった成果を喜びたいと思った。

 

(13日)・ありのままのあなたが好きや良寛忌

 ブッダなど仏教書を読むとき、「苦」の概念をきちんととらえておくことが肝要だと思っている。「苦」の原語はパーリ語の(DUKKHA・ドゥッカ)で、その原義は、「空(虚)しい、不安定な、困難な」というような意味で、変わらないようにするのは「苦」。無理に変えようとするのも「苦」。これが人間にとって「生きる」ことだとする。無常と同じような意味合いと思っている。

 私は、「生老病死」が四苦として、「根源的に人間は苦しいものだ」という考えに違和感を覚えていた。調べていくと、仏教で説く「苦」とは「思いのままにならない苦しみ」という程の意で、ひとつの事実認識であると思った。むしろ、「生老病死」のような現象に、「思いのままになる」と執着することのほうが、無理があり苦しみの元になると思われる。 

 自らの曇らせた「思い」で人や社会を思うように計らうことが、パラハラに限らず、おかしなことになる因となる。そして、自らの思い方を留保して、まずものごとや自分のことを「ありのままを見る」ことは、何かを考えるための自覚すべき大事なことと思っている。

 

(14日)・春星や誰のなかにも光あり

 昨日テレビで映画「風に立つライオン」を見る。

「風に立つライオン」は、さだまさしの親しくしている知人で、1960年代後半ケニアのナクールにある長崎大学熱帯医学研究所に出向した柴田紘一郎医師のエピソードをもとに、1987年さだ自身が作詞・作曲をした作品であるその後、さだ自身によって小説化され、2013年に刊行され、2015年には、大沢たかおの企画により映画監督・三池崇史のもとで映画化された。

 曲「風に立つライオン」に惚れ込んだ俳優の大沢たかおが、さだに働きかけて小説化・映画化されたのが本作『風に立つライオン』だ。スーダンの内戦で心と体に傷を負った少年たちの治療と更生に奔走する島田航一郎医師を、大沢が演じている。大沢、石原さとみらはケニアに一ヶ月滞在し、撮影に挑んだ。少年たちを演じるのは、現地のスラムで暮らす少年たちで、物語にリアリティを加えている。

 この映画は、過酷な状況の中で育ったケニヤの少年(たち)が、「医師が患者から奪ってはいけない最も大切なものはな、命じゃないんだよ。希望なんだ-----だってよ。命はその人の身体の持ち物だけど、希望は心の持ち物だろ? 人はよ、身体だけで生きてるんじゃねえだろ? 心で生きてるんだからさ」という医師や支援者によって、その「志」を受け継いだ少年が、東日本大震災の日本で医師として活躍する、といったフィクションならではの内容で、映像ゆえの、このように人は育っていくこともあるのだと、フィクションを超えた何かを感じた。

 

(15日)・風に立つライオンはるか春の虹

『風に立つライオン』は心ある医師を育てるための「NPO法人・風に立つライオン」を立ち上げ、僻地医療や災害救援の従事者を物心両面で支援する「公益財団法人・風に立つライオン基金」の設立など歌から生まれる人助けの連鎖が続き、医療従事者や海外で活動する人たち、青年海外協力隊の人々に、強いメッセージを与えることになる。

 小説の「あとがき」にさだは次のように述べる。

〈もとより歌は、すべて発表した瞬間に僕の所有物ではなくなるが、この歌のように多くの人々を刺激し、沢山のムーブメントを産み出す歌が僕に降ってきたのは初めてのことである。〉

 

(16日)・剪定や木々の語りにすます耳

 おぐらやま農場からリンゴが届いた。今月は予定していた中玉「ふじ」が足りなく「まるかじり」になり、今が旬の人参アロマレッドが入っていた。この人参はとてもおいしい。

 農場では道法スタイルの切上げ剪定をするとき「樹を元気にするにはどこを切ればいいかな」と常に樹に問いかけている毎日だそうだ。

 ここの年間会員になって3年たつが、その生産物への信頼もあるが、少しでも農場を支えていきたいと思っている。自然条件などにより、計画通りにいかないのは当たり前で、今採れるもので賄ってくれたらよいと思っている。2019年度の申し込みが始まっている。

 

(17日)・山笑う切磋琢磨の育ち合い

 今月のおぐらやま農場ニュースレターには、農場主のアキオさんの兄弟のことが載っていた。次男は「木ごころ工房」を経営する大工さん、3男はシステムエンジニアとのことで、元気に活動しているそうだ。多少の接点もある人もいて、懐かしさと感慨を覚えた

 長女の「亜里」さんは、心理学博士で「ニューヨークライフバランス研究所」の代表をしているそうだ。3月6日に『世界に通用する子どもの育て方』(WAVE出版)が発売されるという。アマゾンで予約受付をしている。

 昨秋娘が出産、わが家でも是非読んでおきたいと思っている。

〇お知らせ

「はてな」から次のお知らせが来ています。

〈はてなダイアリーは、2019年1月28日に記事の更新を停止し、2月28日には全機能を停止する予定です。〉

 そこで2月22日をめどに次のようにします。

ブログ名「日々彦の文芸欄」 http://hibihiko-ya.hatenadiary.jp/ から

〈日々彦「ひこばえの記」〉http://masahiko.hatenablog.com/ に移行します。

今後ともよろしくお願いいたします。

◎『風に立つライン』と希望をもたらす人たち

〇「風に立つライオン」は、さだまさしの親しくしている知人で、1960年代後半ケニアのナクールにある長崎大学熱帯医学研究所に出向した柴田紘一郎医師のエピソードをもとに、1987年さだ自身が作詞・作曲をした作品である

 その後、さだ自身によって小説化され、2013年に刊行され、2015年には、大沢たかおの企画により映画監督・三池崇史のもとで映画化された。

 

 この歌が、心ある医師を育てるための「NPO法人・風に立つライオン」を立ち上げ、僻地医療や災害救援の従事者を物心両面で支援する「公益財団法人・風に立つライオン基金」の設立など歌から生まれる人助けの連鎖が続き、医療従事者や海外で活動する人たち、青年海外協力隊の人々に、強いメッセージを与えることになる。

 

 小説の「あとがき」にさだは次のように述べる。

〈もとより歌は、すべて発表した瞬間に僕の所有物ではなくなるが、この歌のように多くの人々を刺激し、沢山のムーブメントを産み出す歌が僕に降ってきたのは初めてのことである。〉

 

 曲も映画も小説もそれぞの特徴があり、比較するものではないが、わたしは小説にもっともインパクトを覚えた。

 楽曲は実在のモデルからインスパイアされた作品だが、小説の登場人物の名前などは架空の人物で、東日本大震災の被災地などの楽曲制作当時と違う状況が登場するなど、フィクションとして制作されている。

 本書は、シュヴァイツァーの伝記 『アフリカの父』を読んで医師を志した主人公・島田航一郎がケニアのロピディオン戦傷外科病院で、その志に従って活躍。その影響を受けた人物が、航一郎の志を受け継いで、今度は東日本大震災の日本で活躍する、といった内容。そこに、さだまさしの人生哲学を登場人物の言葉に適宜織り込みながら物語は展開する。

 

 小説の時代背景は、1980年代から激化の一途をたどるソマリアの内戦さらにスーダン内戦が続く。ソマリアは統一政府を持たず、各地に軍閥が割拠し、一進一退の戦争を続けている。ケニアとソマリアは国境を接しているためソマリア内戦の影響は大きく、それに乗じてケニアが軍事介入している。この内戦のあまりの酷さに米軍や周辺諸国も干渉を諦め無法地帯となっている。

 1987年、大学病院から内戦の激化するケニアの研究施設に派遣された一人の日本人医師、航一郎は恋人の貴子を日本に残し、研究と臨床の充実した日々を送っていた。しかし、半年後にケニアの国境近くの赤十字病院から一ヶ月の派遣要請を受ける。航一郎がそこで目にしたのは、次々と運ばれて来る重傷を負った少年兵だった。その少年たちはみな麻薬を注射され、戦場に立たされた少年兵である事実に愕然とする。

 そんなある日、病院に銃傷を負った少年兵・ンドゥングが担ぎ込まれる。彼は両親を目の前で惨殺され、その心の傷は麻薬によりかき消されていた。航一郎はそんな彼が抱える心の闇と真正面から向き合っていく。航一郎は、ここに骨を埋める決意をする。

 

 本書は、過酷な状況の中で育ったケニヤの少年(たち)が、「医師が患者から奪ってはいけない最も大切なものはな、命じゃないんだよ。希望なんだ-----だってよ。命はその人の身体の持ち物だけど、希望は心の持ち物だろ? 人はよ、身体だけで生きてるんじゃねえだろ? 心で生きてるんだからさ」という医師や支援者によって、その「志」を受け継いだ少年が、東日本大震災の日本で活躍する、といったフィクションならではの内容で、逆に小説ゆえの、このように人は育っていくこともあるのだと、フィクションを超えた何かを感じた。 

 

 この小説の特徴でもあり面白いところは、第一章では、上司、同僚が回顧または述懐という形で語る。中心人物である航一郎自身は、全く語りません。航一郎がどうして医師になったのか、どうしてケニアに赴任したのか。そのケニアで何があったのかが、みなによって語られる。

 第2章は東日本大震災に医者として関わることになったンドゥングについて、当時、野戦病院にいた人が回顧または述懐という形で語られる。全編航一郎、ンドゥングの関係した人たちの回顧、述懐、メールという形で構成する、

 

 本書から印象に残っている言葉。

・「誰かのせいにしなきゃ耐えられない悲しみってあるんだよ」

・「医師が患者から奪ってはいけない最も大切なものはな、命じゃないんだよ。希望なんだ」

-----「だってよ。命はその人の身体の持ち物だけど、希望は心の持ち物だろ?人はよ、身体だけで生きてるんじゃねえだろ? 心で生きてるんだからさ』

・(少年兵・ンドゥング)「僕はお医者になれますか?」-----(航一郎)「勿論なれるよ」--

「いい加減な慰めを言わないで!」-----「僕は銃で九人を撃ち殺した。人殺しだ!」-----

「おめえが望むならなれるに決まってるんだ」-----「お前は九人を死なせた、それなら、---これからお前の一生を懸けて十人の命を救わなくてはならない。」-----「分かるだろう? いいかい。未来はそういうためにあるんだよ」

 

 さだまさしは次のようにいう。

〈ライオンというイメージは、医師というよりも、一人の人間として捉えてくれるといいです。僕らの国はちょっと変だつていうのは、医者だからということではなく、海外に暮らす一人の日本人としての思いなんですよね。人間というのは、職業に殉ずるといいながら、どこまでも自分を捨てることはできないでしょう。 心の中で、悩みも苦しみも、切ないこともいっぱいあるけれど、くじけるもんかっていう意味で、自分を勇気づけ励ます意味で、ライオンっていう動物を出したのです。逆境の中でもひるむことなく、心だけは王様のような、強い心を無くしたくないという、すっくと立っている百獣の王のプライドです。プライドっていうと、身勝手さを連想されると困るけれども、人間の尊厳っていうか自分の意志っていうか、そういうものに誇りを持ちたいっていう気持ちの現れです。それは医者だからではなく、生きているということに対する誇りのことです。この歌は医者の立場を借りながら、自分に対するエールでもあるわけですよね。〉

 

※参照:さだまさし『風に立つライオン』(幻冬舎、2013)

楽曲「風に立つライオン」はYouTubeで聞くことができる。

◎日々彦「詩句ノート」、さだまさし「償い」「親父の一番長い日」

※Facebookの友人たちの交信のなかで、さだまさしの曲「償い」「親父の一番長い日」が話題に出ていた。私も聞いてみて、そこからいろいろなことを考えた。

 その作詞作曲の経過は『ウィキペディア(Wikipedia)』に詳しく紹介されていて、YouTubeで検索すると、聞くことができる。

 

〇『償い』作詩・作曲:さだまさし

 月末になると ゆうちゃんは薄い給料袋の封も切らずに

 必ず横町の角にある郵便局へとび込んでゆくのだった

 仲間はそんな彼をみてみんな貯金が趣味のしみったれた奴だと

 飲んだ勢いで嘲笑っても ゆうちゃんはニコニコ笑うばかり

 

 僕だけが知っているのだ 彼はここへ来る前にたった一度だけ

 たった一度だけ哀しい誤ちを犯してしまったのだ

 配達帰りの雨の夜 横断歩道の人影に

 ブレーキが間にあわなかった 彼はその日とても疲れてた

 

  人殺し あんたを許さないと 彼をののしった

  被害者の奥さんの涙の足元で

  彼はひたすら大声で泣き乍ら

  ただ頭を床にこすりつけるだけだった

 

  それから彼は人が変わった 何もかも

  忘れて 働いて 働いて

  償いきれるはずもないが せめてもと

  毎月あの人に仕送りをしている

 

 今日ゆうちゃんが僕の部屋へ 泣き乍ら走り込んで来た

 しゃくりあげ乍ら 彼は一通の手紙を抱きしめていた

 それは事件から数えてようやく七年目に初めて

 あの奥さんから初めて彼宛に届いた便り

 

 「ありがとう あなたの優しい気持ちは とてもよくわかりました

  だから どうぞ送金はやめて下さい あなたの文字を見る度に

  主人を思い出して辛いのです あなたの気持ちはわかるけど

  それよりどうかもう あなたご自身の人生をもとに戻してあげて欲しい」

 

  手紙の中身はどうでもよかった それよりも

  償いきれるはずもない あの人から

  返事が来たのが ありがたくて ありがたくて

  ありがたくて ありがたくて ありがたくて

 

  神様って 思わず僕は叫んでいた

  彼は許されたと思っていいのですか

  来月も郵便局へ通うはずの

  やさしい人を許してくれて ありがとう

 

  人間って哀しいね だってみんなやさしい

  それが傷つけあって かばいあって

  何だかもらい泣きの涙が とまらなくて

  とまらなくて とまらなくて とまらなくて

-----

〇『親父の一番長い日』さだまさし作詞・作曲

おばあちゃんは夕餉の片付けを終えた時

弟は2階のゆりかごの中で

 

僕と親父は街頭テレビのカラテ・チョップが

白熱した頃に 妹の誕生を知った

 

それから親父は 占いの本と辞書と

首っぴきで

実に一週間もかけて

 

娘のために つまりはきわめて何事もない

ありふれた名前を見つけ出した

 

お七夜 宮参り 夫婦は自画自賛

可愛いい娘だと はしゃぎ廻るけれど

僕にはひいき目に見ても しわくちゃの失敗作品

やがて彼女を訪れる 不幸に胸を痛めた mm…

兄貴として mm…

 

妹の生まれた頃の我が家は

お世辞にも 豊かな状態でなかったが

 

暗闇の中で 何かをきっかけに

灯りが見えることがある

そんな出来事だったろう

 

親思う心に勝る 親心とやら

そんな訳で妹は ほんのかけらも

みじめな思いをせずに育てられた

ただ顔が親父に似たことを除けば

 

七五三 新入学 夫婦は狂喜乱舞

赤いランドセル 背負ってか 背負われてか

学校への坂道を 足元ふらふら下りてゆく

一枚のスナップが 今も胸に残ってる mm…

兄貴として mm…

 

我が家の血筋か 妹も足だけは速くて

学級対抗のリレーの花形で

 

もっとも親父の応援のすごさに

相手が気おくれをして

随分助けられてはいたが

 

これも我が家の血筋か かなりの演技派で

学芸会でもちゃんと 役をもらった

親父の喜びは 言うまでもない

たとえその役が 一寸法師の 赤鬼の役であったにしても

 

妹 才気煥発 夫婦は無我夢中

反抗期を過ぎて お赤飯を炊いて

中学に入れば 多少 女らしくなるかも知れぬと

家族の淡い期待 あっさり裏切られてがっかり mm…

兄貴として mm…

 

妹の初恋は高校二年の秋

相手のバレー部のキャプテンは よくあるケース

 

結局言い出せる 筈もなく

枯葉の如く散った これもまたよくあるパターン

 

彼氏のひとりも いないとは情けないと

親父はいつも 笑い飛ばしては いたが

時折かかる電話を 一番気にしていたのは

当の親父自身だったろう

 

危険な年頃と 夫婦は疑心暗鬼

些細な妹の言葉に揺れていた

今は我が家の 一番幸せなひととき も少し

このままいさせてと 祈っていたのでしょう mm…

親子として mm…

 

或る日ひとりの若者が 我が家に来て

“お嬢さんを僕に下さい”と言った

親父は言葉を失い 頬染めうつむいた

いつの間にきれいになった娘を見つめた

 

いくつもの思い出が 親父の中をよぎり

だからついあんな大声を出させた

初めて見る親父の狼狽 妹の大粒の涙

家中の時が止まった

 

とりなすお袋に とりつく島も与えず

声を震わせて 親父はかぶりを振った

けれど妹の真実を見た時

目を閉じ深く息をして

小さな声で…

 

“わかった娘は くれてやる

その変わり一度でいい

うばって行く君を君を殴らせろ”と

言った mm…

親父として mm…

 

妹の選んだ男に間違いはないと

信じていたのも やはり親父だった

花嫁の父は静かに 娘の手をとり

祭壇の前にゆるやかに立った

 

ウェディング・ベルが 避暑地の教会に

鳴り渡る時 僕は親父を見ていた

まぎれもない 父親の涙の行方を

僕は一生忘れないだろう

 

思い出かかえて お袋が続く

涙でかすんだ 目の中に僕は

今までで 一番きれいな妹と

一番立派な 親父の姿を 刻み込もうとしていた mm…

兄貴として mm…

息子として

 

〇2019年四季折々(2月4日~10日)

(4日)・立春の空も大地もうごめけり

 今日は立春。必ずしも暦とは一致しないが、俳句を趣味としているせいか、立春の感情が整えられるような気がする。特に夕方の日脚の伸びに、寒気のなかにも春の兆しが感じられる。また、長塚節『土』に、「春は空からそうして土から微(かす)かに動く」との表現を思い起こす。

 

(5日)・あの曲に親父の姿かげろへり

 先日Facebookで友人たちが私の所属していた共同体のことで「子育て」や「親のあり方」などの交信があり、さだまさしの曲「親父の一番長い日」が話題に出ていた。そこからいろいろなことを考えた。

 私は「子放し」を標榜する特殊な共同体にいたので、そこで末娘は生まれたが、それ担当の人に任せきりで、子育てには全くといっていいほど関わっていない。

 昨秋出産した娘夫婦を見ていて、受けとめ手の主体は母親であるが、夫婦でともに支え合いながら、子育ては進んでいくのだなと、見ていて思う。

 そして、若い友人がいう「子育ては大変だけど楽しかった」という貴重な体験、味わいはしていない。その間、親らしいことはほとんどやっていないのではないか。

 

(6日)・春立つや海へ大地へわが家へと

 今日は息子の誕生日。精密機械加工の仕事をしていて、41歳になる今年から個人的に事業を立ち上げる。空き家になっている事業所を借り、そこはいたるところ汚れがしみついていて、昨年12月から日曜ごとに、私たち夫婦も一緒に磨きをしている。個人事業といっても、いろいろな支援が必要だと思っていて、今後も何かと関わっていくだろう。

 

(7日)・春朧いい加減のもつ良い加減

 今日は妻の誕生日。このところ妻に気をかけてもらい、心の底で支えられて安心して暮らしているのだと思っている。

 また、娘が出産して、妻が何かと面倒を見ることがある。身体は70歳を超えた年以上に丈夫に見えるが、日に日にしっかりしてくる赤ん坊の世話は相当疲れるらしい。

 だが、子どもを育ててきているので、わたしから見ると巧みに要領を得ていて、安心感を覚える。具体的な赤ん坊の世話になると、娘もわたしにはまったく頼らず妻に任せている。

 

(8日)・あたたかな言葉を寄せる人と人

 90歳を過ぎたお母さんがインフルエンザの罹患で、友人が困難を抱えていることがFacebookに投稿されていた。何人かの人が、寄り添いの言葉をコメントしていて、どれにもその気持ちがこちらにもしみじみ伝わってきた。私もどのように声掛けしたらわからないと思いながら、いくらか言葉を添えて、「お母さんが無事快復されることを祈っています。」とコメントした。当事者がどのように受けとめるのかわからないが、このようなことを簡便にできる友達同士のFacebookの一つの機能のような気がしている。

 

(9日)・春を待つどんなときにも萌しあり

 わが家でも息子が高熱を出してしばらく寝込んでいた。医者に掛かってもよくなる保障はなく、身体の様子を見ながら、「時ものを解決するや春を待つ」(虚子)のごと、時の経過による自然治癒力をあてにしていた。

 だが、90歳を超えた高齢者の場合は肺炎などの心配もあり、まず病院に頼るしかないが、その体制も不十分な場合がままある。

 90歳過ぎの義父母と暮らしていたとき、かかりつけ医によく面倒を見ていただいていたので、容態が極度に悪くなると、適宜連絡しながら対応していたが、よい方向に向かうまでは、気もそぞろであった。

 特に高齢者にとっては、気心の知れた家庭医に恵まれていることが大きいと思う。

 

(10日)・春うらら共に育つや吾子と親

 娘夫婦の赤ん坊が育っていく経過を見ていて思うことは、3か月を過ぎると意志、意欲なども芽生えてきていることも感じるが、主に体全体に感じたことからの反応で、そこに「計らい」らしきものではないかと思っている。

 一方親の方は、赤ん坊の状態を注意深くただ見つめ、「ありのまま」受けとめて、ひたすら世話をするだけで、こんなはずではないなど出ようがない。それを当たり前のこととして楽しみながらとらえていく姿に、大変さとともに面白さを感じている。

 どのように育ってきたということが、自らの子育てに反映していくといわれているが、そこも見ていきたいと思っている。

◎「比べる」について思うこと(「ありのままを見る」ことの模索

※安義寺住職の吉水氏のFacebookの記事に示唆されることがあり、その投稿記事の「『比べる』について」を私の関心にてらして考えてみる。

〇吉水氏が述べる「比べる」は「慢」mānaマーナのことで、アビダンマの「不善心所」14項目の「欲」のグループにあり、その3つのグル分けの「慢」mānaは「計る」「比べる」の意になるという。

「比べる」を知ること、理解すること、比べていることに気づくことが大事だと、具体的に調べる順序として次の問いかけをする。

① 比べるとはどういうことなのか?

② なぜ比べるのか?

③ 比べることで幸福になっているのか?

 そして次のようにいう。

〈スマナサーラ長老は、『比べることは「ちょっとした病気」のようなものです。』と仰っていました。私たちも「ちょっとした病気」を持っていると理解されたら、その対処に良いと思います。〉

『比べる』について その二では、次のように述べている。

〈どうやら私たちは、「比べる」「比較する」「計る」「計算」「区別」「選択」「葛藤」「判断」「評価」「拒絶」「受入」「正当化」などは得意なようですが、「ありのままを見る」ことは得意ではありません。注意深くただ見つめることはしないのです。しかし、冥想とは実にこのこと以外に何もありません。〉

 大雑把だがそのようなことを書かれていると思った。

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〇ものごとや自分のことを「ありのままを見る」ことは、何かを考えるための初めに自覚すべき大事なことと思っている。だが、その自覚の不十分なまま、憶測したり、穿った見方をしたりして、失敗をくりかえしている現状である。ここではまず「比べる」「計る」のなかで「比べる・比較する」について思うことを書いてみる。

 

「比べる」は、①今現在の自分と、過去の自分像や望ましい自分像との比較。②他者との比較。➂何かと何かとの比較。などあるが、いずれの場合も、真直ぐものを見ることからはじまる。

 

 50歳を過ぎてから介護など福祉関連の活動を始めてから、さまざまな高齢者や障がい者に接してきて、自身の今の状態を「ありのままを見る」こと、あるいはその人自身の心身状態との折り合いを付ける(受容)ことの大事さを感じていた。

 私も60歳代になって、あちこち身体的な衰えを感ずるようになり、なんとなく落ち着かない気分の増えてきたこともあり、そのことをより一層感じるようになった

 

 介護関係で高齢者に接してきて、また、父母や義父母を見てきて、「この程度ならまだやれるはずだと思い込んでいる自分、あるいはそう思いたい自分」と「やれることが減っている現実の自分」にはギャップが出てくる。心身がある程度健康な時は適当な折り合いをつけながら暮らしていくのだが、老齢化により身体が弱ってくると、頭や想像力で考え感じていることと、実際の行為・行動の距離が益々大きくなり、その間の調整がつきにくくなる。

 他のだれかに言われるまでもなく、自分自身によって自己評価が下がることが、もっともつらく、受け容れ難いのだろう。

 このことは高齢者に限らないが、特に高齢期は身体的な衰微が目に見えるように進むので、それに伴って精神的な不安感がさし迫ってくるようだ。

 

 しかし、老齢化よって身体が衰えていくというのは自分で作り上げた一番良い状態の基準から見た思い込みであり、「身体」は生まれてから何れのときでも、刻々と変わりながら、自分の状態とまわりの状況との平衡状態を保とうとする働きをしている。

 過去の自分というのは、現在の自分から見たら「他者」のようなものだともいえるのでは。生きるとは変化するということであり、まさにそれが生命活動なのだろう。

 

 私については、体のギクシャクした動きで「アレッ」と思うことも増えてきている一方、70歳代になって、いろんなことを味わう深みがかわってきているのも思う。ブログなどで同年齢近く、それ以上の人の記事などを見て、こういう楽しみ方があるのだなど、より身近になってきている。老齢に応じて、心の面では深くなることもあるのだろう。

 

 鶴見俊輔の岡部伊都子との対談『まごころ』の最後の部分に、次の発言がある。

〈鶴見:若さからの解放が、そうとう楽しいことなんですよ。—-それは若い人にはわからないね。年をとっているのは、みんなみじめで、若くなりたいと思ってると、それが若い人の錯覚なんだよ。〉

 このような心境にはまだまだな私であるが、比べることのない、今の自分を「ありのままを見る」ことで、いろいろなことを素直に見ることで、「年をとるのは面白いな、いいものだな」と思えるような生き方をしていきたいと思っている。

◎日々彦「詩句ノート」、照井翠の講演

※東日本大震災は、文芸の各分野に、それを語る表現についての様々な課題をもたらし。俳句関係者(誌)も度々そのことを取りあげている。また、いろいろな体験や関心から多様な俳句が数多く生み出されている。

 東日本大震災に関しては、高野ムツオ氏や照井翠が随時意欲的な俳句を詠み、本ブログでも、2016-03-19日に照井翠句集『竜宮』を取り上げた。・

 時事や厄難を詠むに不向きといわれてきた最短詩型の俳句に、むしろ可能性を感じている他分野の人たちもでてきている。趣味の範囲を出ない私にも、俳句はこんな風に詠むことで、深いものを表現することができるのかと、改めて感じている。

 

〇2018年11月23日、俳句の未来を考える「HAIKU+」の第2回が、神奈川近代文学館で開催され、照井翠さんがテーマ「俳句の虚実 ―東日本大震災を詠み続けて―」との講演をおこなったことが「きごさいBASE」(2018年12月6日)に紹介された。

 内容は〈講演では、震災に、自分に、そして俳句に、どう向き合ってきたのか。俳句における「虚」の意味とは。この不条理な時代に俳句(文学)が担う役割とは。〉とある。

 

 その中から照井さんがまとめた要旨の一部を抜粋する。

〇俳句の虚実 東日本大震災を詠み続けて 照井翠

4 東日本大震災 釜石を詠む

 釜石で東日本大震災に遭遇した。極限状況の中、不安な日々を支えてくれたのが俳句だった。虚の側に身を置き、現実と向き合っていた。生な表現や剥き出しの観念語を用いた俳句が多い。

・句集『龍宮』より。

「喪へばうしなふほどに降る雪よ」

「泥の底繭のごとくに嬰と母」

「双子なら同じ死顔桃の花」

「春の星こんなに人が死んだのか」

「春昼の冷蔵庫より黒き汁」

「唇を噛み切りて咲く椿かな」

「撫子のしら骨となり帰りけり」

「初螢やうやく逢ひに来てくれた」

「鰯雲声にならざるこゑのあり」

「寒昴たれも誰かのただひとり」

「虹の骨泥の中より拾ひけり」

 

5 震災後の俳句(時の経過、意識の変容、震災体験の捉え直し)

 震災体験の内面化・深化を試みている。思索の沈潜化、詩としての昇華が大事だと思う。

・『龍宮』以後の俳句より。

「三月を喪ひつづく砂時計」

「螢や握りしめゐて喪ふ手」

「霧がなあ霧が海這ひ魂呼ぶよ」

「降りつづくこのしら雪も泥なりき」

「別々に流されて逢ふ天の川」

「寄するもの容るるが湾よ春の雪」

「まだ立ち直れないのか 三月来」

「三・一一みちのく今も穢土辺土」

 

※参照「きごさいBASE」(2018年12月6日) http://kigosai.main.jp/?p=30927

 

〇2019年四季折々(1月28日~2月3日)

(28日)・星冴ゆる心の宇宙のひとり旅

 小説、詩歌などの虚構による文学作品は、容易に言語化・論理化できない混沌とした状況や個人の情念を、言葉で構築せざるを得ないところに難しさがあり、面白さがあると思う。

 読む側としては、想像力を駆使しながら、語られていない部分、言葉の裏にある部分を読みとりながら、共に作っていくという醍醐味がある。

 それは、およそ31文字の短歌、17文字の俳句の短詩系の制約にしたがって、詠む方、読む方ともに想像の楽しみがあると思っている。

 

(29日)・耳すます心の中の細雪

 平成30年度第20回NHK全国短歌大会受賞作品から印象に残った作品。

・「天からの授かりものであるきみはまだ人よりも雲に似ている」

(小島ゆかり選、埼玉 関根裕治)大会大賞に選ばれる。

・「避難所のどこに置くのか通信簿見せたい母のいないその子は」

(永田和宏選、宮城 阿部みゆき)

 近藤芳美賞 「空のたまゆら」(岡山 平尾三枝子74 歳)から。

・「不条理も条理も丸ごとこの世なり土手に赤白曼珠沙華の群」

・「幾重にもかさなる雲の間より射し入る光を希望と呼ばむ」

 

(30日)・見ることは見られることや冬霞

 今日は眼科医で診察を受け、緑内障・眼圧用の目薬をもらう。

両目0.1の近眼だったが、一昨年5月白内障手術して、手術後すぐ裸眼0.8で、こんなにハッキリ見えるのだなと少し驚くが、今は両裸眼0.5ぐらいで、眼鏡なしで、日常生活やある程度本を読むには差し支えない。

 白内障は、眼の中のレンズの役割をする水晶体が濁ってしまう症状で加齢に伴って発生する場合が最も一般的で、早ければ40歳から発症し、80歳を超えるとほとんどの人が何等かの白内障の状態にあるといわれている。そのことから、自覚症状があるなしに関わらず、身体内のあちこちが汚れているのではないかと思う。レンズの工業技術などの発達により手術は簡単。これにも少し驚く。

 

(31日)・夢太き人と大地と冬の虹

I氏のFacebook掲載の素晴らしい写真があり、それから連想した俳句を練習も兼ねて詠んでいる。出来はともかく楽しみである。

 20歳代後半二年間ほど北海道別海町で酪農に従事していた。どこかに遊びに行くことは少なかったが、そこの人、牛との暮らしや風土はどっしり自分のなかにある。I氏の数々の写真から、その息吹を思い出すことも少なからずある。

 

(2月1日)・二月に入る寒さの底の大日輪

 二月は面白い月である。ときによって春を感じ、冬を感じるときもある。神戸では、昨日は雨で肌寒くどんよりしていて、今日は晴れていて風は強く寒いが明るい感じがする。

 俳句では三日まで冬、それを過ぎると春になる。実際の暦と季語のずれはあるが、よく晴れた日や光の強さに、体感そのものは寒いが気分的には春を感じるときもある今日このころである。

 

(2日)・七転び八起きの職場春近し

 友人のTさんが「イノベーション大学」の企画に参加した報告がFacebookにあった。当日のお題は「働き方」で、講師は「生きる職場」の著者・武藤北斗さん。

 以前その本を友人のKさんから贈っていたたき、いろいろ示唆されるものがあった。

 武藤北斗『生きる職場 ―小さなエビ工場の人を縛らない働き方』(イースト・プレス、2017 )の内容紹介は次のようになっている。

〈2011年3月11日東日本大震災。石巻のエビ工場と店舗は津波ですべて流された。追い打ちをかけるような福島第一原発事故。ジレンマのなか工場の大阪移転を決意する。債務総額1億4000万円からの再起。

 人の生死を目の前にして考えたのは、「生きる」「死ぬ」「育てる」などシンプルなこと。そしてそれを支える「働く」ということ。自分も従業員も生きるための職場で苦しんではいないだろうか。そんななかで考え出したのが「フリースケジュール」という自分の生活を大事にした働き方。好きな日に出勤でき、欠勤を会社へ連絡する必要もない。そもそも当日欠勤という概念すらない。これは、「縛り」「疑い」「争う」ことに抗い始めた小さなエビ工場の新しい働き方への挑戦の記録。〉

 上記の経過が丁寧に記録してある本と感じ、私は主に次のことを思った。

・石巻で著者の両親が立ち上げた「パプアニューギニア海産」で、関わった人たちに支えられて大阪移転の営業が再開するようになる。そこには生産者と消費者という間柄を超えた交流がされていた。

・パプアニューギニアと海を超えたつながりは、国と国という行政的なものではなく、著者の父親の、よいものを産み出したいとの願いからする、個人的なつながりであった。

・多額の債務を抱えての大阪移転後の再起は順調なものではなく、失敗・間違い・後悔の試行錯誤を重ねての日々であった。その中から著者が目指す「居心地のいい会社」への願いがあり、それに応じてくれる従業員の取組で、今のような職場になってきたのではなかろうか。

※「パプアニューギニア海産」  http://pngebi.greenwebs.net/

(3日)・記憶に残るひとりひとりへ福は内

 その投稿記事から、25年ほど前、T君や私がいた職場のことや、その頃の仲間のことなどの話題のコメントの交信が続いた。

 その頃職場で一緒だった学園高等部にいた若者たち、そのうち交流があるのは二人だが他の人はどうしているのだろうか、と気にかかるとともに薄らと懐かしさを覚えた。

 特殊な形態の学育方式のもとで過ごした子どもたちを見ていて、学園の同期生や仲間たちとの関係は、親密なものがあり、同じ釜の飯を食ったというような半端なものでない深さを感じることも多い。仲間たちで切磋琢磨しあいながら、ときには助け合い、ときには言い争いしながら育ってきたのだろう。

 私から見るとその学育方式はとてもお粗末だったと思っているが、その中で、その後の経過で、どのような育ちが展開したのか? ひとりひとり違いはあるだろうが、みな健やかであること祈っている。

 

◎「幸せを分け合う居心地のいい会社」とは(武藤北斗著『生きる職場』から)

※友人のTさんが「イノベーション大学」の企画に参加した報告がFacebookにあった。当日のお題は「働き方」で、講師は「生きる職場」の著者・武藤北斗さんとのこと。

 一昨年パプアニューギニア在住の友人のKさんがわが家に遊びに来てくれた。その後、天然エビの詰めあわせと、その関連の武藤北斗著『生きる職場』という本を送っていただいた。

 その著から示唆されることが多くあり、その感想を書いてみる。

 

〇武藤北斗『生きる職場 ―小さなエビ工場の人を縛らない働き方』(イースト・プレス、2017 )の内容紹介は次のようになっている。

〈出勤・退勤時間は自由」「嫌いな作業はやらなくてよい」など、非常識とも思える数々の取り組みが、いま大きな共感を呼んでいる。そして、その先にあったのは思いもしなかった利益を生むプラスの循環だった。2011年3月11日東日本大震災。石巻のエビ工場と店舗は津波ですべて流された。追い打ちをかけるような福島第一原発事故。ジレンマのなか工場の大阪移転を決意する。債務総額1億4000万円からの再起。

 人の生死を目の前にして考えたのは、「生きる」「死ぬ」「育てる」などシンプルなこと。そしてそれを支える「働く」ということ。自分も従業員も生きるための職場で苦しんではいないだろうか。そんななかで考え出したのが「フリースケジュール」という自分の生活を大事にした働き方。好きな日に出勤でき、欠勤を会社へ連絡する必要もない。そもそも当日欠勤という概念すらない。これは、「縛り」「疑い」「争う」ことに抗い始めた小さなエビ工場の新しい働き方への挑戦の記録。〉

 

 上記の経過が丁寧に記録してある本と感じ、私は主に次のことを思った。

・石巻で著者の両親が立ち上げた「パプアニューギニア海産」で、関わった人たちに支えられて大阪移転の営業が再開するようになる。そこには生産者と消費者という間柄を超えた交流がされていた。

・パプアニューギニアと海を超えたつながりは、国と国という行政的なものではなく、著者の父親として、いいものを産み出したいとの願いからする、個人的なつながりであった。

・多額の債務を抱えての大阪移転後の再起は順調なものではなく、失敗・間違い・後悔の試行錯誤を重ねての日々であった。その中から著者が目指す「居心地のいい会社」への願いがあり、それに応じてくれる従業員の取組で、今のような職場になってきた。

 

 大阪移転と再起への道筋は「第二章・僕らを突き動かしたもの」などに詳しく述べられている。その中の「立ちはだかる二重債務」に次のような記録がある。(要約)

〈東日本大震災の津波による工場の全壊様子などから会社の再起という発想は全く持ち合わせていなかった。ところが顧客からの携帯電話などによる励ましの言葉や、「パプアニューギニア海産の代わりをできる会社はほかにはない」「いつまでも待っている」などの言葉に奮い立つ気持ちがした。

 それとともに、パプアニューギニアのパートナーや現地で働いている人たちのこと、そして、両親が会社を設立してから三十年間で培ってきた意義を考えた。そして、住む場所さえまだ決まっていない状況で、規模は縮小しても、何とか継続できる道を前向きに考えるようになる。

 大阪に来て数種間は、取引先の方が用意してくれた家に住むことになり、別の方からは今の工場がある大阪府中央卸売市を紹介していただくことになる。大阪で水産工場を新しく始めるのは数多の工場設備が必要で本当に難しく、この場所を紹介していただけなければ、どんなに縮小したとしても事業の継続は不可能だった。さらに全国の取引先やお客様から寄付金をいただくことになる。

 多額の二重債務を抱えながらの再出発だったが、被災指定地で再建すれば水産加工場であれば八割以上の援助があるところ、大阪で再建をしたので国かの援助は一切ありません。どんなに国や自治体にかけあっても、助けることはなかった。

 今の自分たちがあるのは、助けていただいた全国の皆さんのおかげです。〉

 

 ところが、再起をかけて奔走する中、石巻時代からの工場長が突然退社してしまう。信頼してすべてを任せていたといえば聞こえはいいが、実のところ様々なことを押し付けていたのではないか。自分のことばかりで従業員の気持ちを考えていなかったのではないかと、自らを振り返らざるをえない状況に陥る。

 このことは武藤氏のやるせない後悔をもたらすが、それまでほとんど営業に奔走していたが、積極的に現場にかかわるような大きな転機ともなる。現場をよく知らないので、従業員のひとりひとりに積極的に聞くようになる。

 じっくりと、働く人々と向き合い、話を聞き、意見を聞いていくうちに武藤さんはどんどん変わっていく。従業員をガチガチに管理していた自分。それは従業員も嫌だっただろうが、憎まれ役なんぞを自認していた自分もまた大きなストレスを抱えて、けっして居心地よく働いていなかったことを素直に認める。ああ間違っていたと気付いた武藤さんが、ずんずん変わっていく。武藤さんが変わり、従業員も変わっていく。管理をやめたら人がやめなくなり、長く勤める熟練従業員が多くなることで商品品質も生産効率も向上、何よりも従業員の意識が変わりさらに働きやすくするためにはどうしたらいいか前向きな提案をしてくれるようになった。

 

 その後も試行錯誤を続けるうちに、「居心地のいい会社」を目指すようになる。

〈僕は根本的には仕事というものは、楽しみではなく、生きていく手段に近いものだと思っています。そのうえで、「働きやすい職場」を作るというのは、従業員一人一人が仕事をどのように感じていようと関係なく、会社がひたすらに職場環境や人間関係を整え、誰もが居心地がいい状態を目指すことだと思っています。

 仕事は必ずしも楽しいものではないけれど、そこで居心地よく働けることは大事であり、その結果として楽しみがついてくる可能性はある。〉

〈誤解がないようにお伝えしたいのは、働きやすい会社とは笑顔の溢れる、笑い声の絶えない、そんな会社のことではありません。朝礼でハイタッチもしませんし、お互いを意識的に褒めあったりもしません。そんな見せかけだけの仲よしごっこは、会社の外部に対するアピールでしかなく、従業員にとってはなんの意味もありません。

人が人を必要以上に管理する中で、幸せを分け合うというのは難しいものです。会社であっても、家族であっても。〉

 

 Kさんから送っていただいたエビは「株式会社パプアニューギニア海産」のパプアニューギニア産船凍天然えびで、大阪の会社からのネット通信販売で送られてきた。見るからに手が入っていて、そのエビの天麩羅が美味しく、娘夫婦とわいわい言いながらいただいた。

※参照: 武藤北斗『生きる職場 ―小さなエビ工場の人を縛らない働き方』(イースト・プレス、2017 )

「パプアニューギニア海産」 http://pngebi.greenwebs.net/