日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎人の「弱さ」に焦点をあてることで見えるもの

〇人は根本的に”弱い“生き物

 NHKスペシャル「人類誕生」第 1 集「こうしてヒトが生まれた」は、次のように構成されていた。

 霊長類から人類誕生の過程で、二足歩行‐道具の発明‐脳の発達、と身体の進化に相伴って、最近の研究成果から、家族の形成・一夫一妻‐仲間と協力する集団・連帯感‐心の進化・共感力‐好奇心が、過酷な自然条件の中で生き延びてきた大きな要因であるとする見方で展開されていた

 

 第2集「最強ライバルとの出会い そして別れ」は次のように構成されていた。

 霊長類から人類誕生の過程で、現在の人間につながるホモ・サピエンスとネアンデルタール人の出会いと共存がテーマになっていた。屈強なネアンデルタール人が絶滅したことに対して、華奢なホモ・サピエンスが現在につながっていったのは、「実はその弱さにこそあったと考えられている。弱いからこそ、安全な狩りを行うことができる道具を生み出し、仲間同士で力を合わせる「協力」を高めたのだ。そうして人口を増やしていったことで、脳の進化が促され、ホモ・サピエンスは全く新たな力「想像力」を獲得したと考えられている。」と紹介されていた。

参照:http://www.nhk.or.jp/special/jinrui/archive.html#onair2

 

「その“弱さ”が人類の進化を促してきたと考えられている」ところに、何かしら共鳴するものを感じた。

 

 以前にブログ「高齢社会に思うこと」に、エリック・ホッファーの「病弱者や障害者、老齢者に対する思いやりがなければ、文化も文明も存在しなかっただろう。」との一説を取り上げたことがある。

 

〈・「思いやり」:37人間は「この世の弱きもの」として生まれたが、「力あるものを辱めるため」に進化した。そして人間という種においては、弱者は往々にして生き残るだけでなく、強者に打ち勝つための能力と装置を開発している。実際、人類の驚異は、弱者の生き残りに由来する。病弱者や障害者、老齢者に対する思いやりがなければ、文化も文明も存在しなかっただろう。部族の男たちが戦いに出ている間、背後にとどまらざるを得なかった不具の戦士こそ、最初の語り部であり、教師であり、職人であった。老齢者と障害者は、治療と料理の技術の開発にあたった。尊い賢人、発狂した呪医、の預言者、盲目の吟遊詩人、才知に長けたせむしや小などが、そうした人々である。〉(「人間の条件について」からの考察)

 

 1902年生まれのエリック・ホッファーは7歳の時に母と死別、同年失明するが15歳の時に回復、その後、正規の学校教育を受けることがなく、季節労働者、港湾労働者としての厳しい生活の中から独自の思索を深めていく。 上記の言葉は、「力あるものを辱めるため」など、どうかなと思えるような表現もあり、随分強引なところもある人類史へのアフォリズム(評言)だと思うが、ホッファーの著作に一貫して流れている独自の観察力と洞察力からの、ある一面面白い見方だなと思う。

 

 あたりまえのことだが、病弱者や障害者、あるいは老齢者や幼い子どもに限らず、人は自然環境に、他者たちに依存しないでは生きてゆけない。

 ところが現社会は「自立」した個人を前提とした秩序であり、何かを生み出すことをあるものの価値基準とする思考法である。成長、成熟ということをわたしたちの社会は、自分の身体を含めて、さまざまのことを自分でできること、生きるに必要な多くのものを「意のまま」にできることとして了解してきた。

 つまり、自己決定と自己責任が可能な「強い」主体という概念を骨格にした法と社会制度の社会である。

(※鷲田清一『老いの空白』「4〈弱さ〉に従う自由」(p105)参照)

 

 このような社会で暮らしていくことで、成長するのがよい、できるのがよい、意のままにできることがよい、などというようなことが無意識的に根付いているのではないだろうか。

 一方、さまざまな理由で、それの困難な“弱い”人たちへの、多かれ少なかれ精神的な圧迫感を与えていると思う。

 

 だが、ことさら自己決定・自己責任といわなくとも、一人のひととしては、他にかけがえがない一人ひとりであることは自明の理である。また少し考えてみれば、一人では生きられない根本的に“弱い”生きものである。

 一人ひとりの自立的で創造的な交わりと自然環境との交わりのなかで、ともに依存しあうことで生きてゆけるのだろう。

 

 内田樹は次のように述べている。

〈ひとりひとりおのれの得手については、人の分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意な人にやってもらう。この相互扶助こそが共同体の基礎となるべきだと私は思っている。自己責任・自己決定という自立主義的生活規範を私は少しもよいものだと思っていない。

 自分で金を稼ぎ、自分でご飯を作り、自分で繕い物をし、自分でPCの配線をし、自分でバイクを修理し、部屋にこもって自分ひとりで遊んで、誰にも依存せず、誰にも依存されないで生きているような人間を「自立した人間」と称してほめたたえる傾向があるが、そんな生き方のどこが楽しいのか私にはさっぱり分からない。

それは「自立している」のではなく、「孤立している」のである。〉(内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』より)

 

 自分のことを見ていくと、年を取るにつれて、いろいろなことが以前に比べてできなくなっている、ぎこちなくなっているのを感じている、特に身体面において。だがその視点から、逆に老いるということはどういうことなのか考えている。

「老い」に限らないが、人生を「できる」ということからではなく、「できなくなる」というほうから見つめてみると、また、人は根本的に”弱い“生き物であるとみることで、もっと違ういのちの光景が眼に入ってくるのではないだろうか。

 

参照:鷲田清一『老いの空白』(岩波書店、2015)

内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文春文庫、2011)

◎高齢社会に思うこと(エリック・ホッファーの「人間の条件について」からの考察)

※改訂再録

〇病弱者や障害者、老齢者に対する思いやりがなければ、文化も文明も存在しなかっただろう。

 先日老年学会から「高齢者の定義を75歳以上に」という提言があった。老齢意識は人それぞれであり、目安として健康寿命があり、統計では男女いずれも70歳を超えている。

 一人ひとりの状態に合わせた見方、あるいはそれぞれの意識の持ち方で、ひとくくりにできないが、施策上70歳~75歳を一つの目安とするのは致しかたない気がする。
 ただし、個人レベルでどう見るのかはそれぞれに任せること、社会保障については今適用している枠組みに直接結びつけず、慎重に見ていく必要を感じる。

 また、老年学会が提言している就労意識には結び付けないでと思っている。個人意識にもよるが、ある程度の年齢になったら、好きなことをしながら暮らせるような社会を望むし、それが就労につながることもあるだろう

 私は福祉活動をしてきて、それなりに高齢社会のことに関心があったが、70歳近くになる現在、改めて自分の状態に腰を据えながら、高齢社会の課題に向き合っていきたいと思っている。

 

 この項では、病弱者や障害者、老齢者に対するユニークな見方をしている、エリック・ホッファーの『魂の錬金術』の「人間の条件について」の項目に照らして、私見を述べてみる。

「思いやり」37〈人間は「この世の弱きもの」として生まれたが、「力あるものを辱めるため」に進化した。そして人間という種においては、弱者は往々にして生き残るだけでなく、強者に打ち勝つための能力と装置を開発している。実際、人類の驚異は、弱者の生き残りに由来する。病弱者や障害者、老齢者に対する思いやりがなければ、文化も文明も存在しなかっただろう。部族の男たちが戦いに出ている間、背後にとどまらざるを得なかった不具の戦士こそ、最初の語り部であり、教師であり、職人であった。老齢者と障害者は、治療と料理の技術の開発にあたった。尊い賢人、発狂した呪医、の預言者、盲目の吟遊詩人、才知に長けたせむしや小などが、そうした人々である。〉

 

 1902年生まれのエリック・ホッファーは7歳の時に母と死別、同年失明するが15歳の時に回復、その後、正規の学校教育を受けることがなく、季節労働者、港湾労働者としての厳しい生活の中から独自の思索を深めていく。
 上記の言葉は、随分強引なところもある人類史へのアフォリズム(評言)だと思うが、ホッファーの著作に一貫して流れている独自の観察力と洞察力からの、ある一面面白い見方だなと感じた。

 この著作は、「情熱的な精神状態」「人間の条件について」の二つの大きな論考から構成してあり、印象に残る評言が数多あり、ものごとの正・負両面から見ているので、一つの項目だけではわかりにくい面もあるが、まず、「病弱者や障害者、老齢者に対する思いやりがなければ、文化も文明も存在しなかっただろう。」の文章に絞ってみていく。

 

 福祉分野の根幹をなす理念に「ノーマライゼーション」がある。
 ノーマライゼーションとは,障害者(広くは社会的マイノリティも含む)が一般市民と同様の普通(ノーマル)の生活・権利などが保障されるように環境整備を目指す理念で、逆にいえば,このような考え方が出る背景には,障害者を取り巻く環境は,普通ではなかった(アブノーマル)ということになる。(※「普通」というとらえ方は曖昧で曲者ではあるが)

 また、福祉に携わるひとによく取り上げられる著名な言葉に、「この子らを世の光に」がある。
 知的障害者福祉の父と言われている糸賀一雄の、〈この子らを世の光にとてささげける いのちのかぎり春をまちつつ〉からの悲願ともみえる思想だ。

「福祉に力を入れるのは依存体質から人間をだめにする」という発言が公然となされている一方、多くの人は福祉のあり方、可能性の関心はかなりあるとは思う。

 だが総じて、「普通の生活ができるように援助する」「ひとりの尊厳ある人として見ていく」「ハンデキャップを抱えた人としてケアしていく」など、支援を必要している人へのほどこし的な色合いが濃い〈客体〉的な見方、対象者とする見方が多いのではないだろうか。

 もちろん、この観点は大事なことではあるが、〈強者〉とされている人たちによる社会保障関連の施策や方式が決められていくことが多い現状である。

 それに対してホッファーの言葉は、弱者とされる人たちも、文化や文明を担ってきた〈主体〉ではないだろうかと、通常とは逆転した見方であり、その見方に至る観察、実証と思索を踏まえたものである。
 そのような面もあるのではないかと思い、このような角度から見るのも大事ではないかと考える。

 

 疑問あるいは留意点として思ったことをあげる。
「力あるものを辱めるため」「強者に打ち勝つため」というのは、弱者の集団化から組織化した場合の陥りやすい論理である。一旦、組織の力が強大になり権力的になると、反面して始末の悪い様相を顕すことが多い。

 どうであれ、「力あるものを辱めるため」というような視点は結局弊害をもたらすことになるのではないか。

 障害者や老齢者の個人レベルでは、上記のような論理ではなく、自分らしく自由に生き生きと暮らしたいとの思い、願いが強いだけである。

 障害者の運動史を見ると、集団として機能することで影響をもたらしたことは多々あるが、ホッファーのいう人間は〈未完〉であるという自覚が強いのか、整然と秩序ある組織化にはなじまず、紆余曲折しながらの重なり合いによる色合いが濃いものになっていくことが多いような気がしている。

 また、障害者運動では当事者の個々の声、それに携わる人たちの取り組みで、相当な影響を及ぼしてきた面があるが、老齢者からの声は、ほとんど取り上げられていない現状である。

 

 ホッファーの評言に魅力を覚えるのは、私は未だかってない超高齢社会の当事者にならんとしている。私を含めた当事者、〈弱者〉のあり様の蓄積が、次なる社会に影響を及ぼすのではないだろうかと思うからだ。

 生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、進歩や効率や出来ることに価値をおく前のめりの気風などが色濃い現社会を変えていけるのは、厳しい生産現場に直面している人よりも、そこにある程度の距離をおいた、数々の経験、失敗の豊富な老齢者たちのあり方が大きな役割を担うのではないかと考えている。

 鶴見俊輔の岡部伊都子との対談『まごころ』の最後の部分に、次の発言がある。
〈鶴見:若さからの解放が、そうとう楽しいことなんですよ。—-それは若い人にはわからないね。年をとっているのは、みんなみじめで、若くなりたいと思ってると、それが若い人の錯覚なんだよ。〉

 このような心境にはまだまだな私であるが、弱者感覚というよりも、「年をとるのは面白いな、いいものだな」と思えるような生き方をしていきたいと思っている。

 

【参照資料】
※ホッファー「人間の条件について」第一章に絞って、いくつか挙げてみる。
・「未完の動物」1〈自然は完全なものだが、人間は決して完全ではない。完全なアリ、完全なハチは存在するが、人間は永遠に未完のままである。人間は未完の動物であるのみならず、未完の人間でもある。他の生き物と人間を分かつもの、それはこの救いがたい不完全さにほかならない。人間は自らを完全さへと高めようとして、創造者となる。そして、この救いがたい不完全さゆえに、永遠に未完の存在として、学びつづけ成長していくことができる。〉

・2〈完全さには、どこか非人間的なところがある。熟練者の仕事は、われわれの目には本能的かつ機械的なものに映る。技術の習得にかける努力はこの上なく人間的なものだが、技術の完全な習得は非人間的なものへの接近である。これはひとつの逆説である。人間を完成させたものにしようとする者たちは、結局、人間を非人間的なものに変えてしまう。〉

・3〈人間の創造性の源泉は、その不完全さにある。人間は、自らの欠陥を補うために創造力を発揮する。人間は、特殊器官の欠如からホモ・ファーベル(武器や道具の製作者〉に、生来の技術のなさからホモ・ルーデンス(演奏家、職人、芸術家)になり、動物がコミュニケーションの手段としているテレパシー能力のなさを補うために言葉を話すようになった。そして、本能の不十分さを補おうとして思索者になったのだ。)

・「遊び」27〈—-アルタミラ洞窟の天井に比類のない動物壁画を描いた旧石器時代の狩猟民たちは、粗末な道具しかもっていなかった。芸術は実用品の製作よりも古く、遊びは労働よりも古い。人間は必要に迫られてしたことよりも、遊びでしたことによって形作られてきたのだ。人間の独自性と創造性の源泉は、その子どもじみたところに隠されているのであり、遊び場はその能力と才能を開花させる最適な環境なのである。〉

・「学ぶこと」32〈教育の主要な役割は、学習意欲と学習能力を身に付けさせることにある。学んだ人間ではなく、学び続ける人間を育てることにあるのだ。真に人間的な社会とは、学習する社会である。そこでは祖父母も父母も、子供たちもみな学生である。激烈な変化の時代において未来の後継者となりうるのは、学び続ける人間である。学ぶことを止めた人間には、過去の世界に生き術しか残されていない。〉

・「思いやり」36〈人間のほとんどすべての高貴な属性(勇気、名誉、愛情、希望、信仰、義務、忠誠など)は、魂の錬金術によって無慈悲さへと変えられうる。そのなかにあって、思いやりだけが、われわれの内面で生じる善と悪との不断の往来から距離を置いている。思いやりは魂の抗毒素である。思いやりがあるところでは、最も有害な衝動でさえ相対的に無害のままでいられる。—-〉

・37〈人間に対する限りない、すべてを包みこむ思いやりをもってしても、巨大で激烈な変化の時代の明らかに解決不能な問題に対処することは、できないのでなかろうか。これまでのところ、社会が再出発をはかると、そこにはつねに悪魔がひそんでいた。〉

◎前未来形で自分の過去を回想する(改訂再録)

〇みなで支え合いながら、よりよく生きていこうよ
​ 多くの人にとって、過去のつらい出来事や思い出話を語るとき、「過去におきた事実」をありのままに語ることはできないだろうと思っている。意識的か無意識的であるかは、人によって違いはあると思うが、現在の自分に納得できるように、あるいは、そのように思いたいように語っていることもあるだろう。

 相談など自発的に人に聴いてもらうとき、関係のあり方により多少の違いがあるにしても、その話の聴き手に「自分はどういう人間だと思ってほしいか」を願っている。話を聴き終わった時点で、聴き手からの人間的な理解や信頼や愛をめざして、人は自分の過去を語り出すことも多いのではないだろうか。私自身を振り返っても同じようなものだと思っている。

 

 精神分析家のJ・ラカンはこのような人間のあり方を「人間は前未来形で自分の過去を回想する」と説明している。

「前未来形」というのは、「明日の午前中に私はこの仕事を終えているだろう」「四月に私は介護職についているだろう」という文型に見られるような、未来のある時点において完了した動作や状態を指示する時制のことである。

「わたしを他者に認知してもらうためには、わたしは「かってあったこと」を「これから生起すること」をめざして語るほかないのである。

 わたしは言語活動を通じて自己同定を果たす。それと同時に、対象としては姿を消す。わたしの語る歴史=物語のなかでかたちをとっているのは、実際にあったことを語る単純過去ではない。そんなものはもうありはしない。

 いま現在のわたしのうちで起きたことを語る複合過去でさえない。歴史=物語のなかで実現されるのは、わたしがそれになりつつあるものを、未来のある時点においてすでになされたこととして語る前未来なのである。」
(J・ラカン「精神分析における言葉と言語活動の機能と領域」、『エクリ(Écrits)』。『コミュニケーションの磁場』内田樹訳より)

 

 だがこれについては、多かれ少なかれ誰にとっても抱えている限界でもあり、これを自覚していることが大切だと思う。
 語りに限らず自分のことを表現するのは、過去の体験や最近の出来事を振り返り、今の自分に引き付け他の助けを得ながら、結局は、何とか人に理解してほしいと願い、これからもっとより良く生きようとする希望があるからだろう。

・甚だしい瓦礫の中で、母と生き別れた遺族代表の方の話に次のような言葉がありました。
「あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数え切れないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。すべてが今もまだ夢のようです。

----震災で失ったものはもう戻ってくることはありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消えることもないと思います。しかしながらこれから得ていくものは自分の行動や気持ち次第で、いくらにでも増やしていけるものだと私は思います。前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいのものを私の人生を通して得ていけるように、しっかりと前を向いて生きていきたいと思います。」

 

 過去に体験した決して消えることのない苦しみを抱えながらも、何とか今を生きようとする、また、自分たちと同じような苦しみを決してさせまいと人々に語りかける、その話は私に鮮明な印象を残した。

 その語り口の真摯な姿に、「並々ならぬ悲嘆」と「皆で支えながら、よりよく生きていこうよ」という強い意志の力を感じました。

 

【折々のことば】
 鶴見俊輔悼詞』編集グループSURE、2008。より(※鶴見さんが、交わりのあった百数十人の故人について悼む心を綴ったもの)

 「あとがき」

 私の今いるところは陸地であるとしても波打際であり、もうすぐ自分の記憶の全体が、海に沈む。それまでの時間、私はこの本をくりかえし読みたい。

 私は孤独であると思う。それが幻想であることが、黒川創のあつめたこの本を読むとよくわかる。これほど多くの人、そのひとりひとりからさずかったものがある。ここに登場する人物よりもさらに多くの人からさずけられたものがある。そのおおかたはなくなった。

 今、私の中には、なくなった人と生きている人の区別がない。死者生者まざりあって心をゆききしている。
 しかし、この本を読みなおしてみると、私がつきあいの中で傷つけた人のことを書いていない。こどものころのことだけでなく、八六年にわたって傷つけた人のこと。そう自覚するときの自分の傷をのこしたまま、この本を閉じる。
(二〇〇八年八月一九日  鶴見俊輔)

◎「人間の人間たるゆえんは家族にあると考えている。」(山極寿一)

〇ダーウィンの進化理論以後、そもそも霊長類からヒトはいかにして生まれたかの根本問題に光が当たるようになり、戦後日本において霊長類学が再興されたことなどにより、様々のことが解明されてきた。

 

 その研究成果から、700万年の間に、霊長類から人類誕生の過程で、直立二足歩行‐道具の発明・使用‐身体の構造変化‐脳の発達と身体の進化に関しては一般的な見解となってきた。その身体の特徴とともに、家族の形成・一夫一妻‐仲間と協力する集団・共同作業‐心の進化・共感力‐分配・交換‐同情心・好奇心など過酷な自然条件の中で生き延びてきた大きな要因であるとする見方が強まってきた。

 

 つまり、ヒトになるための大きな三つの条件、直立二足歩行・家族の成立・コミュニケーションとしての言葉がそれぞれそれ絡み合いながら進化していき、現在の人類につながっていったらしい。

 

 特に、家族形成が人類進化の源流であり、一見そのように見える「種」はあるが、ある一定の期間だけで、生まれてから死ぬまで生涯にわたって家族であり続けるという形態は、人間の家族だけだといわれている。

 

 家族とは人間社会だけの普遍的な現象らしい。さらに人間の特徴は、単体ではなく複数の家族が集まって共同体を作る二重構造を持っていること。複数の家族を内包した共同体は人類だけの不思議な社会システムらしい。集団が巨大化し複雑化しても、家族という基本的な社会単位が崩れることなく存続し続けた事実があり、共同体を中心に、食物を共同で生産し、分け合って食べる。子育ても共同。家族単体ではできないから、共同で行なう。

 

 原初の人類の在りようから直ちに現社会や家族のあり方に結び付けることは留意する必要があるが、現在の家族を考えるうえで、その知見に学ぶことの多い山極寿一は次のことを述べている。

〈どうしてそんなにお節介になるかというと、共感力を高めて作り出したシンパシー(同情)という心理状態がもとになっている。

同情心とは、相手の気持ちになり痛みを分かち合う心です。この心がなければ、人間社会は作れません。共感以上の同情という感情を手に入れた人間は、次第に「向社会的行動」を起こすようになります。

向社会的行動とは、「相手のために何かをしてあげたい」「他人のために役立つことをしたい」という思いに基づく行動です。人類が食べ物を運び、道具の作り方を仲間に伝えたのも、火をおこして調理を工夫したのも、子どもたちに教育を施し始めたのも、すべて向社会的行動だろうと私は思います。

大昔から人類は家族のために無償で世話を焼き、共同体の中では互いに力を出し合い、助け合っていたのでしょう。認知能力が高まったから、このような思いやりのある社会が作られたというよりは、その逆で、向社会的行動が人類の認知能力を高めたのだと思います。(山極寿一『「サル化」する人間社会』p161~162)

 

「向社会的行動が人類の認知能力を高めたのだと思います。」の箇所が印象に残る。また、向社会的行動は、直面する現実対処とともに明日に向けて描く、行動する力を強化することになったのではないだろうか。

 

 そして、人間の持っている普遍的な社会性について、次の三点をあげている。

(1)見返りのない奉仕をすること:人は自分を愛してくれる家族のもとで「見返りのない奉仕(献身的にしてあげる)」の精神を培い、その環境の中で「誰かに何かをしてあげたい」という気持ちが育っていく。その思いは家族の枠を超えて共同体にたいして、もっと広い社会に対しても広がっていく。

(2)互酬性(何かをしてもらったらお返ししたくなる):互酬性とは個人あるいは集団間で、贈与を受けた側が与えた側に何らかの返礼をすることによって、相互関係が更新・持続されること。人類学において,贈答・交換が成立する原則の一つとみなされる概念。

(3)帰属意識:自分がどこに所属しているかという意識を、一生持ち続ける。その帰属意識がアイデンティティの基盤になり、そこにたって、自分自身の行動範囲や考え方を広げていけることになる。人は相手との差異を認め尊重し合いつつ、きちんと付き合えるのはその基本に帰属意識があるという。

 

 現社会のいろいろな家族関係は、複雑な様相があるように思い、また、あまりにも社会性を単純化して捉えているように見える。

 

 だが、自分のことを振り返ってみると、家族(特に父母)や叔母などから一方的に何かをしてもらっていたなと思える。50歳すぎてから、ある共同体を離れ介護関係の仕事に携わるとき、養護学校のボランティア活動を立ち上げるときも、何か役に立つことをしていきたいなと考えての選択だった。

 今も、無理はしない程度に、何かをしてあげたい気持ち、贈答をしたくなるこころ、役に立つことをしていきたいことも、素直に見ていくとあるのではと思っている。

 ことさら社会性と言わなくても、手助けしたいこと、街中のゴミを拾う・汚れたものを片付けることなど、何の見返りも求めず、多くの人の心の中にあるのではないだろうか。

 

 そして社会性は、信頼が培われるような家族や質のよい人間関係のもとで、より育っていくのではないだろうかとも思えてくる。

  また、このような家族関係が広がっていくような社会になっていく道筋もあるのではないだろうか。

 

※参照:山極寿一『「サル化」する人間社会』(集英社インターナショナル、2014)

河合雅雄『サルからヒトへの物語』(小学館、2004)

◎共同体は一つの大家族ともいえないか(福井正之『追わずとも牛は往く』から)

〇『追わずとも牛は往く』は、著者の40年ほど前の「北海道試験場」(「北試」―ヤマギシ会)の体験をふまえ、書き進められた。記録文学である。

 この作品では、「北試」の体験をもとにした物語上の村『睦みの里』での、厳しいが豊かな自然・大地の中で、追わずとも牛は往く農体験の記録、里人との心温まる交流が描かれている。

 実際の「北試」というより、その可能性をひろげた著者自身の想定した「睦みの里」であり、創作を加えることで、より真実性を帯びる面もある。その本文からいくつかの特徴を見ていく。

 主人公の西森丈雄(34歳)は、ある時に、北海道別海町で農民が主力になって、そこに仕事をしないブラブラ族の若者もいて、小さなコミューンを築いていたことを知り興味を抱き、『睦みの里』を初めて訪問し、そこで東北山形から入植した五十歳代後半の須崎氏など三人の男から説明を聞く。

 

 さまざまな説明受けて、須崎氏から次のように言われる。

「ここじゃ『財布ひとつ』の『大きな家族』という考え方になる。お互い助けおうて必要を満たしていく生活体をつくるのはそんな大げさな難しいもんやない。むかしは空想的社会主義とかいうたが、今はイスラエルのキブツでも、他の共同体でもやってることや。しかしそういうところは契約でそうしてるようや。

 でもな、うちらはもっと心境面を大事にしたいんや。お互いもっと家族みたいに仲良うなって、お互いのことをもっと思い合えるようになったら、そんな細かい約束事もあんまり要らんようになる。それに家族は金のやり取りはせんやろ。その家族がそのまま大きくなっていったらいいんや。もっとも最近の家族はバラバラで先細りのようじゃがのう」

 

 なるほど、これはわかりやすいと丈雄は思った。もちろん実現可能性はわからないが、別に社会運動の経験がなくとも、離農問題への関心がなくとも、血のつながっていない人々同士が大家族のように仲良く助け合って暮らしたいというのは、夢としては不自然ではない。少なくとも自分たちのような故郷親族から離れ、いったん事あれば危うい核家族の小市民的生活者にとって。

 

 その後、「なにか報酬があるわけじゃない。まるっきりのタダ働きですから。そこが自発的にできるかどうか、つまり『他を思う』というのが、ここでの最大の課題になりますね」と言われ、身が引き締まった

そこで須崎氏が言い添える。

 

「そうやな、『他を思う』なんていうと話がちと固うなる。一軒の家じゃ親が働いて子どもらを食わせる。もちろん自分らもそれで食う。その動機は家族を養うということや。子どもは働かんから、家賃、食費を払わんから食うな、という親はまずおらんやろ。まあ《働かんでも食ってよし》じゃ。別に遠慮せんと大きな顔していてよい。ところがこの家をもっと大きく広げて考えてみなされ。中には子どもみたいな大人もおる。働いても稼ぎが乏しい人、体の具合が悪うて働けん人、それにブラブラしていたい人もおる。親ならそんな人らを放っておけんやろ。いや別に親とは誰と決まっとるわけやない、なんとかそんな人らを食わしていくのが親や」

「まあ大変かもしらんが、これまたよくできたもので『してあげる』のは苦労も多いが、楽しみも多い。子どもらもそれなりにだんだんと育ってくるしな。それから長い目で考えれば、人間、親ばっかりやっとるわけやない。子どものときもあれば、年寄りのときもある。親はやれるときにやったらいい。人間お互い様じゃ」

 

 ふうむ、そういうことになるのかな。それにしてもこの「大きな家族」の大きさはどの範囲まで拡張可能なのか、いささか心許ない。丈雄は須崎氏の語りに理論的信憑性はよくわからないながら、深い人生智のようなものを感じる。

 特殊な共同体を考えるとき、「一つの大家族」というような比喩で語られるが、この説明の中に共同体の原初的な心があるのではないかと思っている。

 それには、一人ひとりの息遣いが感じられ、少なくても適度に交流できる人たちの適正規模であることが欠かせないが。

 

 最近の研究成果から、家族形成が人類進化の源流であり、一見そのように見える「種」はあるが、ある一定の期間だけで、生まれてから死ぬまで家族であり続けるという形態は、人間の家族だけだといわれている。

 家族とは人間社会だけの普遍的な現象らしい。さらに人間の特徴は、単体ではなく複数の家族が集まって共同体を作る二重構造を持っていること。複数の家族を内包した共同体は人類だけの不思議な社会システムらしい。集団が巨大化し複雑化しても、家族という基本的な社会単位が崩れることなく存続し続けた事実があり、共同体を中心に、食物を共同で生産し、分け合って食べる。子育ても共同。家族単体ではできないから、共同で行なう。

※(集団の規模が大きくなり)人数が増えると百人から百五十人の集団ができる。これは信頼できるコミュニティとして最大の規模で、互いの顔と名前が一致する関係性の上限人数。百五十人という人数は、人類学では「マジックナンバー」と言われている。(山極純一『「サル化」する人間社会』より)

 

 内田樹は共同体について次のようにいう。

〈あらゆる人間はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人となり、心身に傷を負う。だから、集団のすべての構成員は時間差をともなった「私の変容態」である。

 それゆえに集団において他者を支援するということは、「そうであった私、そうなるはずの私、そうであったかもしれない私」を支援することに他ならない。

 過去の自分、未来の自分、多元宇宙における自分を支援できることを喜びとすること。

 そのような想像力を用いることのできない人間には共同体を形成することはできない。〉

 

〈ひとりひとりおのれの得手については、人の分までやってあげて、代わりに不得手なことはそれが得意な人にやってもらう。この相互扶助こそが共同体の基礎となるべきだと私は思っている。自己責任・自己決定という自立主義的生活規範を私は少しもよいものだと思っていない。

 自分で金を稼ぎ、自分でご飯を作り、自分で繕い物をし、自分でPCの配線をし、自分でバイクを修理し、部屋にこもって自分ひとりで遊んで、誰にも依存せず、誰にも依存されないで生きているような人間を「自立した人間」と称してほめたたえる傾向があるが、そんな生き方のどこが楽しいのか私にはさっぱり分からない。

 それは「自立している」のではなく、「孤立している」のである。〉

(内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』より)

◎福井正之『追わずとも牛は往く』-労働義務のない村でー書評

〇本書は、著者の40年ほど前の1976年から2年程の「北海道試験場」(「北試」―ヤマギシ会)の体験をふまえ、書き進められた記録文学である。

 読むに従って、共同体とは何か? 労働とは? 人と人との生身の人間としての心の交流とは? など、ともに考えていく内容に満ちている。

 

 著者が1976年から2年間体験した「北試」は、当時さまざまな研究者などから注目されていた。

 小学校教員をやめて、「北試」で暮らした体験をもつ野本三吉は『いのちの群れ』(社会評論社、1972)に次のように語っている。

「北試の人びとは、北海道の土に自ら還ることが、最も自然な姿なのだということを知っている。土と人間はもともと一体であり、無数の死者によって大地が形成されていることも知っている。北試には単なる共同生活体への興味を越えた、ある種の前衛的なパイオニアとしての興奮も感じさせる。それはあくまで理念を固定せず、北試という冒険の中でとらえようとしている姿勢そのものの中にあるものだろう。」

 

 1978年、北海道試験場は、太平洋戦後日本の社会に形成されたコミューン(共同体)の中で、かなりの影響をもたらし、今も活動を取り上げられることがある「実顕地」の一つとして位置づけられることになる。

 

 この作品では、「北試」の体験をもとにした物語上の村「睦みの里」に、一家四人が入村するところから始まる。

 主人公の西森丈雄(34歳)は、60年代吹き荒れた学生運動に関わり、その後北海道東部で高校の教職についていたハンカクサイ(現実離れの青臭さを諷するこの地方の方言)な青年だった。

 ある時に、北海道別海町で農民が主力になって、そこに仕事をしないブラブラ族の若者もいて、小さなコミューンを築いていたことを知り、半ば閉ざし埋没してきた夢想がときめくのを感じる。-------

 

 一読しての感想は、「理念」でつながる共同体と、一人ひとりの「生命力」でつながる共同体の本質的な違いを思う。

 

 本書は不思議な構成の作品である。

「睦みの里」の「大空と大地と牛と夢太き人々」との一年余交流が、本書280頁のうち248頁に及び、終章「岐路」に、全国的に展開されていた「全人愛和会」に取り込まれていく過程が10頁余に書かれる。

 丈雄は、もっとも信頼している慎ちゃんから「結局は自分のことは人任せになってしまうんや。それはつまり人事や指導部任せになっていくちゅうことや。良さったて最後は全人愛和会のあり方・理念の線に合うかどうかやろ」と言われ、全人愛和会への期待が急速に萎みだした。

 

 エピローグでは、一九七八年三月『睦み』メンバーはほとんど全員が『全人愛和会』に最参画。『睦みの里』は解散した。(会支部として残る)

 慎ちゃんは、他の何人かの若者といっしょに全人愛和会への参画を拒否し、皆から離脱していった。「なーに理念に負けたんやない、ゼンコに負けたんや」慎ちゃんが丈雄に告げた最後の言葉だった。

 西守夫妻は残ることにした。丈雄はわずか二年の体験だけでは、たとえ全人愛和会に模様替えしたからといって、この道の可能性に見切りをつけられそうな気がしなかったのだ。

 

 上記の記述から始まり、『全人愛和会』=『ヤマギシズム実顕地』での著者の体験の20年余にわたる総括が述べられる。

 

 さらに10数年後になって『睦み』についての記述が始まる。

〈そう、今思い返しても、あそこは独特のあたたかさがあった。そこは、今だからこそかえって心底願う「働かざる者食ってよし」の世界に見える。そしてあの『睦み』の体験がなぜかしら、深い哀惜の念とともに蘇ってくるのである。とすればそれは何なのか。おそらくそれは理念でもシステムでもない。もっと単純で心豊かなもの、丈雄にはそれはやはり『好きな』世界だったというしかない。それももちろん雑多な人間集団のことだから、いいことばかりでなく、辛いことも、厳しいことも、いろいろあった。ただそこにいつも地のまま、過度のままであるような人々がいたということ。それも大空と大地と牛という存在に照射されながらの。〉

 

 最後に著者の現在が語られる。

〈「このことは人生についても言えるだろう。死期に近づけば近づくほど人生を右肩上がりに描きたくなる。丈雄ももはや七十半ばである。しかし三度も人生コースを変更してきた自分には、これからの余生に寄りすがれる記憶は何もなかったように思っていたのである。しかし、まったくそうではなかった。今、その悔恨を別海『睦み』への愛惜によって溶かしながら、希望への、言いかえればわが自己肯定への道に、微かながらに灯りがついたように感じる。(完)〉

 

 このエピローグの10頁程の文章は秀逸で、本書のある意味「核」となるのではないだろうか。

『睦みの里』での、厳しいが豊かな自然・大地の中で、追わずとも牛は往く農体験の記録、里人との心温まる交流と共に。

  

 ※本書の紹介チラシから

幻視される「金のためには働かない時代」

〈著者は、巨大化したコミューンを離脱して十数年。しきりに想い出すのは別海町の「睦みの里」である。仕事をしないブラブラ族の若者、東北からの転住農民---たちが小さなコミューンを築いていた。厳しい冬、はじけるようにやってくる春、牛たちとの生活。 労働とは?  共同体とは何か? 

 机上のコミューン論を超えた、草まみれ糞まみれの記録文学である。〉

 http://blog.livedoor.jp/chalk27/archives/7900278.html 

 

(追記)エピローグはよく纏まっているが、今後の希望も含め、次のことも考える。

 エピローグの『ヤマギシズム実顕地』での著者の体験の20年余にわたる総括部分は、ある程度「実顕地」を知る人にとっては、簡潔にまとめてあるように思う。

 しかし、著者自身のことを主にして、「実顕地」の村人一人ひとりがどのように変容していったのか、その心の動きなど、著者の視点から、きめ細かく描いていくことが、「ヤマギシズム実顕地」について、さらに『睦みの里』と併せて読むことを通して、机上のコミューン論を超えた一つの記録文学になるのではないだろうか。(4月11日記)

◎映画「種をまく人」を観る

〇友人の紹介で大阪アジアン映画祭、映画「種をまく人」を観る。 

「種をまく人」は 監督・脚本・編集:竹内洋介、撮影監督・主演:岸建太朗で、この映画祭が日本での初上映となる。

 

▼第57回テッサロニキ国際映画祭にて、最優秀監督賞と最優秀主演女優賞を受賞した本作は、3年ぶりに病院から戻った光雄(おそらく東日本大震災の状況からくる精神疾患から精神病院に入院していた)は、その足で弟・裕太の家を訪れる。光雄との再会を喜ぶ姪の知恵(10歳)とその妹でダウン症の一希に迎えられ、彼はつかの間の幸せを噛みしめる。光雄は知恵にせがまれ、被災地で見たひまわりについて語る。知恵はその景色を思い浮かべながら、太陽に向かって咲くひまわりと、時折空を見上げている一希の愛らしい姿を重ね合わせるのだった。翌日、光雄は知恵と一希を遊園地に連れて行くことになるが、そこで誰も予想だにしなかった不幸が訪れる…。

 失われる小さな命と、少女の嘘が招いた家族の崩壊を鮮烈に描きながらも、そこから再生しようと懸命に生きる人々の姿を丹念に描く竹内洋介監督の演出手腕に引き込まれる秀作。

 

 知恵は遊園地で妹を抱いて連れだしていた時に、妹を落として死なせたことに茫然自失になり、光雄が落としたと嘘を言ってしまう。光雄は、それを丸ごと引き受け、周りのさまざまな、疑い・非難の眼の中で、一希を弔うべく、ひまわりの種をひたすら植え続ける。光雄を演じている岸は、この作品でロサンゼルス・アジアンパシフィック映画祭の最優秀主演男優賞を受賞。

 一方知恵は、妹一希を死なせたことによるどうしようもない虚脱に加えて、嘘をついたことで光雄が窮地に陥ること、それによって家族が崩壊していく様子に、幾重にもわたる苦悩にさいなまれる。

 説明的なことば、セリフを極度に制限しながら、ひたすら知恵(竹中涼乃)と光雄(岸建太朗)の姿・表情で描くことや、道沿いに咲くヒマワリの花、ひまわりの種を植え続ける光雄の仕種を追っていく。

 どこまでも映像を通して語り続ける作品が心に響いてくる。

 

 一緒に見ていた妻によると、10歳頃の少女の気持ちが、自分にも心当たりがあり身に迫ってきたそうだ。

 

▼監督・竹内洋介のコメントから

・「ゴッホの絵画を見て以来、彼が残した手紙や絵画をもとに映画を作りたいという思いがありました。そして、東日本大震災のときに荒廃した地で見た一輪のひまわりと、その半年後に産まれたダウン症の姪との関わりが、この映画を作るきっかけとなりました。本作の登場人物の感情に寄り添い、何かを感じ、考えるきっかけを持っていただけたらうれしく思います」(第57回テッサロニキ国際映画祭上映前の舞台挨拶から)

 

・「ダウン症という障害を持って誕生した姪は、同じ年代の子供たちと比べると成長のスピードがゆっくりです。しかし彼女なりのペースで感情の表し方を覚え、コミュニケーションの取り方を身につけ成長しています。 そして何よりも彼女の屈託のない笑顔はまるで天使のようで、本当に周囲を明るく照らすのです。

 彼女の無垢な心、その笑顔に触れるたび、障害とは何か、個性とは何かを考えさせられます。 映画「種をまく人」を通して、障害と個性、それらを受け入れる社会や人のあり方について今一度考えたい という欲求と、そして何よりダウン症の姪の笑顔をこの映画に残し、より多くの人に見てもらいたいという 想いがこの映画を作らせました。」(監督・竹内洋介の言葉から)

 

・「この映画のもとになったゴッホという画家は生きている間は認められることがありませんでした。しかし死後、残された家族の力によって光を当てられ、現在私たちに多くのものを残してくれています。

 私は今回偶然、このような形で光を当てられることになりましたが、世の中には光を当てられずに、影の中で生き続けている人たちがたくさんいます。そういった人たちがいるからこそ、ここにこうして自分がいる。そのことを忘れずに、私はこれから映画を作り続けていきたいと思います。」

 

・東日本大震災との関わりを問う質問を受け、竹内監督は「遺体撤去などをして心が病んで、病院に入ってしまった方がいるという話を聞いていた」と。さらに「心が病んだりしたとしても、時間とかいろいろ何かが変えてくれると信じて、この映画を作った」と語った。

 観客の中には宮城県出身の方も。主人公・光雄が入院するに至った経緯を最初から感じとっていたと話し、映画に登場する首を傾けたひまわりが印象に残っていると感想を述べた。竹内監督は「ひまわりは自分たちスタッフが種を植えて生えたものしか使っていない」と明かし、種をまくことは「一言で言うと、祈りみたいなものだと思う」と答えた。(大阪アジアン映画祭日本での初上映後の挨拶から)

 

▼・「大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」((ルカによる福音書8章4節から8節から)

 

・「我々の足が続く限り人生を歩き続けよう。足が疲れても、どんなに苦難が大きくても、世の中の騒音で耳がぶんぶんいっても、人生を進み続けよう」(「ゴッホの手紙」より)

※映画『種をまく人』公式サイト https://www.sowermovie.com/

◎語りきれないこと、語ること

〇2018年東日本大震災追悼式 福島県遺族代表・五十嵐ひで子さん(70)の言葉から

・〈あれから7年の月日がたちました。

 もう7年なのか、いやまだ7年なのか、心の中で、いくら考えても導かれる答えがでてきません。そうだよね。想像などできない、あの絶望のふちに立たされた悲しみ、いたみ、そして傷つき、ただ呆然(ぼうぜん)としていましたから。

 震災当時、私たち家族は相馬市の海沿いで民宿を営んでおりました。

 あの日、大きな地震とともに、電気が切れ、全ての情報が途切れました。

 消防団の方から「今、岩手・宮城にすごい津波が来ているから早く逃げてください」と言われましたが、何回も海を見に行き、すぐには逃げませんでした。

 消防団の方に促され、私は夫と叔父と3人で避難を始めた直後、大きな津波に襲われました。波に体を4メートルぐらい持ち上げられ、隣の家の松の木につかまりましたが、波はどんどん押し寄せ、一緒にいた叔父が私の手から離れていき、夫も私から離れていきました。夫は、「ひで子~」「ひで子~」「ひで子~」と3度叫び、それに応えて、私も夫の名前を叫びましたが、返事はありませんでした。壁のように高く、真っ黒な波が私をのみ込んで、そのまま800メートルぐらい流され、気付いたときには、がれきの中でした。「助かった~」。でも寒さで、身も心も凍るほどでした。意識が遠くなりそうな時、消防団のみなさんに助けられて、気付けば病院のベッドの上でした。

 あの時、「父ちゃん、早くにげっぺ」の言葉さえ言えていたらと思うと、自分を責める気持ちでいっぱいでした。

 そんな思いが消えないまま1年がたった頃、「貴重な教訓として語り継いで」と誘われ、現在、語り部として活動しています。この震災を風化させず後世に伝えるために、「自分の命は、自分で守る」「逃げる意識」を伝え続けていきたいと思います。

 最後に、本当に7年なんですね。全国の皆さんからいまだに、勇気をもらい、励まされ、一歩ずつ前に進んでいます。この震災で学んだことは、忘れてはいけません。亡くなられた方々の安息をひたすら祈念し、追悼の言葉と致します。

 平成30年3月11日〉

 

〇鷲田清一『語りきれないこと』から

 東北大震災以後に書かれた、鷲田清一『語りきれないこと』を読み返している。「まえがき」で鷲田は次のように述べている。

〈被災地の人たちのからだの奥で疹いたままのこの傷、この苦痛の経験が、やがて納得のゆく言葉でかさぶたのように被われる日まで、からだの記憶は消えることはないでしょうし、また消そうとしてはならないと、つよく思います。 震災で、津波で、原発事故で、家族を、職場を、そして故郷を奪われた人たちは、これまでおのが人生のそのまわりにとりまとめてきた軸とでも言うべきものを失い、自己の生存について一から語りなおすことを迫られています。語りなおしとは、じぶんのこれまでの経験をこれまでとは違う糸で縫いなおすということです。縫いなおせば柄も変わります。

 感情を縫いなおすのですから、針のその一刺し一刺しが、ちりちりと、ずきずきと痛むにちがいありません。被災地外の場所で、個々のわたしたちがしなければならないことは、まずはそういう語りなおしの過程に思いをはせつづけること、出来事の「記念」ではなく、きつい痛みをともなう癒えのプロセスを、そのプロセスとおなじく区切りなく「祈念」しつづけることだろうと思います。〉

 

 この著書について、「語る」ということに関連してみていく。

〈・「物語としての自己」、「〈わたし〉という物語の核心をなすもの」

「わたしたちはそのつど、事実をすぐには受け入れられずにもがきながらも、(中略)深いダメージとしてのその事実を組み込んだじぶんについての語りを、悪戦苦闘しながら模索して、語りなおしへとなんとか着地する。そうすることで、じぶんについての更新された語りを手にするわけです。」

「最終的にはいろんな決着のつけ方があります。(中略)わたしのいう語りなおしは、周りの関係も含んだものです。周囲にも新しいストーリーを受け入れてもらわないといけないのです。周囲のじぶんを見る目も、理解して変わってくるというプロセスを経ないと、本当の着地はあり得ないのです。」〉

 

 何か異常なことを体験した、たいへんな目にあったと思っていても、ある程度まとまって言葉として表現していく、あるいは、すぐに言葉にならないとしても、グッと心に宿るように煮詰めていく。それをしていかないと、結局薄れていき、無意識のなかに防衛機制として閉じ込めていくことにならないだろうか。

 言葉については、「もともと客観的に世界の事物があり、それを言語で呼んだのではなく、人間は言語で初めて世界を分節して、世界をいろいろな事物に区分した。」といわれている。

 いろいろな角度から考えるとき、どんなに記憶に鮮明さがあるとしても、漠然としているものに包まれていて、もやもやしている。その形のなきものに形を与えるものが言葉のはたらきであり、言葉にすることで、はじめて見えてくることがあるように思う。言葉を重ねて、私の物語をつくることで、言葉にならない心の奥にわだかまっていたものが、かすかに動きだしていく。

 一方、どこまでいっても言葉では充分には表現できない、結局言い尽くせないと言うジレンマにもおそわれる。意味するものと意味されるものの関係は常に不均衡なものだと思う。

 

〈・「言葉は心の繊維」、「言葉の環境」

「もし人が言葉を持たなかったら、じぶんを襲っている感情が喜びなのか悲しみなのか恥ずかしさなのか、そういう区別がつかない(ガブリエル・マルセル)」

「感情というのは確かに言葉で編まれていて、言葉がなかったら、感情はすべて不定形で区別がつかない。言葉を覚えることで、じぶんが今どういう感情でいるかを知っていく。語りがきめ細やかになって、より正確なものになるためには、言葉をより繊細に使いわけていかなければならない。心の繊維としての言葉をどれほど手に入れ、見つけていくかは、とても大事なことです。」「心を編みなおすための繊維の一つひとつになる新しい言葉、いままで使えなかった言葉、知らなかった言葉。大人が教えるのではなく、周囲で勝手に話している中から、フッと子どもが横取りできるような環境を作ることが望まれます。言葉の意味ではなく言葉の感触。その背後にある時間をくれているということ。そのなかに、話された内容とは無関係に人をケアし、支える真実があると思います。」〉

 

 私たちは言葉で思考し、言葉で整理する。言葉で癒されもする。〈心の繊維〉としての言葉は、繊維の本数(いわゆる語彙の数)が多ければ多いほどよいものではない。それぞれの小さな繊維を自分の心に編み込んでいかなければ、自分の心を形成してくれる繊維には決してならない。

「自分たちの心の中にある思い」というようなものは、実は、ことばによって「表現される」と同時に生じたと言うよりむしろ、ことばを発したあとになって、私たちは自分が何を考えていたのかを知るのです。それは口をつぐんだまま、心の中で独白する場合でも変わりません。 私たちが「心」とか「内面」とか「意識」とか名づげているものは、極論すれば、言語を運用した結果、事後的に得られた、言語記号の効果だとさえいえるかも知れません。

 鷲田が言うように、語りなおしとは、じぶんのこれまでの経験をこれまでとは違う糸で縫いなおすということ。縫いなおせば柄も変わる。 感情を縫いなおすのですから、針のその一刺し一刺しが、ちりちりと、ずきずきと痛むにちがいありません。

 辛い試みになることが多いとしても、そのような模索が、ともすれば負の要因である体験から、より一層よく生きていくことに繋がる何かをつかむことにもならないだろうか。

 

〈・「語りなおしと、その〈伴走者〉」、「語りを奪わず、ひたすら待つこと」

「じっと見守ってくれる人がいる、案じてくれているという感覚は、一番の支えになる。 けれども「がんばって」という言葉は、逆境のなかで挫けてなるものかとみずからを叱咤している人びとを後押しする言葉にはなりえても、時とともにいよいよ厚く重くのしかかる困難に、息も絶え絶えとなって、立っているだけで精いっぱいといった状況にある人には、むしろ苛酷なものとなります。」

「〈分かる〉というのは、おそらくその字のとおり、〈分かたれる〉ということです。話しているうちに気持ちが一つになる、同じになるというよりも、むしろ逆に、一つの言葉に込められたものの意味や感触がそれぞれに異なること、相手との差異・隔たりがいよいよ細かく見えてくるということです。〈分かる〉というのは、そのことを思い知らされることでもあるはずです。」〉

 

 ひとは他者とのインターディペンデンス(相互依存)でなりたっている。「わたし」の生も死も、在ることの理由も、他者とのつながりのなかにある。

 出産から葬儀、糧の調達から下水処理、介護や病気の世話まで、お金を払ってサービスを受けられるようになって久しいので、切実な課題になり難いが、そのことで、いのちの面倒を見る能力が失われてしまった。大震災のようなことに限らず、日常の暮らしの中で、人が困難に出会う可能性は、どの人にもある。

 最近の進化生物学は、ヒトは同胞とともに社会をつくり、助け合い、共存を図るという戦略によって、他の生物とは異なる特徴的な発展を遂げることに成功したようです。そうだとすると、人間の遺伝子や脳には共存に適した社会関係を維持するためのプログラムも備わっているのではないかとの仮説を提示している。

 この知見の信憑性は、何んとも分からないが、その可能性はあるかもしれないと私は思っている。鷲田氏に限らず、少なからずの人が、いざとなったときに助けてくれる人がいる、つかず離れずの距離を置いた、新たなネットワーク、相互依存、共同性の仕組みを模索し始めている。

「支援をする人・される人」の関係が固定したものでなく、随時「助ける人・助けられる人」と変わりながら地域が「同じいのちをもった人の支えあい」の社会になっていくように。

 

〈・「言葉の溝」、「語りの文化」

「震災直後、被災地の人たちと、被災の全貌を知ることができずに遠くから案じるだけのわたしたちのあいだには、どうしょうもない隔たりがありました。寸断された交通網も少しずつ復旧して、報道の人たちがようやく各地の被災の現場に行き、被災者の方々にインタビューする放送記者の人たちと当の被災者のあいだには、おそらくもっともっと大きな隔たりがあったと思われます。それはちょうど、介護施設でスタッフが食事のお世話をしながら「おいしい? 」と訊ねることと、ユニットケアの施設や、グループホ-ムでスタッフが入所者の人たちと同じ食べ物をともに口にしながら「おいしいね」と囁きあうこととのあいだの落差のようなものではなかったかと思うのです。」

「言葉の世話についてずっと語ってきて、ああ、根っ子のところがまだ語れていないという思いでいます。—-言葉がどうにも出てこないという経験のことです。語りきれないという前に、そもそも言葉が出てこない。何ものもどうしても言葉のかたちに置き換わらずに渦巻き、わたしたちのなかで内圧だけはどんどん昂じてくる。爆発するか硬直するか、火のように噴きだすか岩のように固まるか、そんな二つの途しか残されていないような、寸前のぎりぎりの状態です。」〉

『かたりきれないこと』には、東北大震災のような特殊な状況にかかわらず、人と共によりよく生きていくときの大事なことが書かれているのを感じている。介護など福祉関連の活動をしてきて、親たちの〈看取り〉をしてきて、後悔することも多々あり、随所に繰り広げられたことばが身に沁みてくる。

 そのような意味では、日々の暮らしの中で、意識していくことなのだろうと思っている。

(鷲田清一『語りきれないこと 危機と傷みの哲学 』(角川oneテーマ21)、角川学芸出版、2012)

◎社会的な生きづらさを抱えて(発達障害の当事者の話から)

※2015年4月に書いたものを改訂して再録。

〇発達障害の当事者が自らの障害を語る講演会が松江市であった。発達障害は、親のしつけや教育の問題ではなく、先天的な脳機能の障害とされる。自閉症、アスペルガー症候群、注意欠如・多動性障害(ADHD)、学習障害、チック障害などいくつかのタイプに分類されている。

 発達障害は個人差がとても大きく、本人も周りの人もよく分からないケースも多い。コミュニケーションや対人関係をつくるのが苦手で、その行動や態度に「自分勝手」「変わった人」「困った人」などと誤解され、敬遠されることも少なくない。

 一人ひとり違いはあるが、あえて、いくつかの特徴をあげると、
・対人的な関わりにうまく対応できない(場にあった行動がとれない)
・他人の気持ちにこだわり、読心術ができているかのような妄想を持つ
・コミュニケーションの障害(相手の気持ちがつかめない 話がかみ合わない)
・行動、興味、活動が限定していて反復・常同的  などとなる。

 当日は、大阪在住のG氏(46)が「自閉症と私」と題して講演。Gさんは看護短大を卒業後、介護の仕事に就いてから、利用者とのコミュニケーションに悩んだ経験を明かしていた。そして、38歳の時にうつ病を発症して発達障害と分かり、「原因が判明し、ホッとした気持ちもあった」と語っていたことに、感じるものがあった。

 現在は就労支援事業所に務めていて、「人の話を聞き、信頼関係を築くよう心掛けている」と述べ、自分の特性を知って工夫する必要性を強調していた。

 

 私の知人が、50歳代になってから初めて精神科の診察を受けて、アスペルガー症候群の認定を受けた。彼女は純朴でいい人だと思うのだが、戸惑うことが度々あった。

 この話を聞いて、福祉関連の活動をしていた私の中で、「あーそうだったのか」と随分納得するものがあった。それ以上に、本人自身が大きな安心を覚えたようだ。おそらく本人自らが相当悩んでいたのではないだろうか。

 その後の彼女の動きを見ると、このことが大きな転機となり、支援グループや仲間との交流のなかで、自分のことをよく観察する機会に恵まれたようで、今は穏やかに暮らしているそうだ。芸術関連の分野では、アスペルガー症候群の人もかなりいるようなことも聞いている。

 このことは、二つの課題があると思っている。
 一つは「自分を知る」ことの大きさ。自分の行為、言動、思考、感情などが、どのような内面、育ち、どのような社会関連から生じているかを観察する、探っていくことの大切さ。

 二つ目は、私たちは表面の現象に現れたもので、人のことを分かろうとしている、分かったつもりになっている。その現象がどのような内面から生じているのか。あるいは、その人の内面はどうなっているのだろうかと、見ていくことの大事さ。それが尊重ということ。

 

 自閉症については、小澤 勲『自閉症とは何か』(洋泉社,2007)に、「自閉は人と人とのかかわりのなかで生起する事態とみるべきであり、症状としてとらえるべきではない------自閉症範疇化の中核症状は自閉である、というのが筆者の結論である」とあるように、生物学的、医学的あるいは心理学的概念であるよりは社会的範疇として把握されるべきであるとの論がある。

 対人関係やコミュニケーションの取りづらさについて、私もそのように思うときもあり、弱い立場にある人には、なおさらつきまとうような気がしている。

 自閉症やアスペルガー症候群に限らず症状によっては、社会的な生きづらさでとらえていくことが、その本質に迫っていけるのではないかなと思っている。

 大きな不自由をかかえていても、どのような人でも、生き生きとした安定した生活を送れるような社会が望ましいと考えている。

 以下に、若い当事者の、暮らしに根差したエッセイをあげる。

 なお、発達障害者や自閉症の人たちの、他人との関係づくりやコミュニケーションの取りづらさの視点から、人がどのように社会性を身に着けていくのかという「社会脳」研究者の研究課題としても取り上げられている。

 

【参照資料】
東田直樹 「オフィシャルブログ 自閉症の僕が跳びはねる理由」から
「原始時代からタイムスリップ。批判、駆け引き、競争が苦手」

「あの人変だよね」
 この言葉を聞くたび、私は泣きたい気持ちになるのです。他の人からの刺すような視線に耐えられず、その場から逃げ出したいと、いつも思っています。

 街中で、わけのわからないひとり言をつぶやく、おかしな動きを繰り返す、ピョンピョン跳びはねる、そんな人を見かけたことはありませんか?

 見かけても、かかわりたくないと避けたり、顔をしかめたりされた方もいることでしょう。

 身体のどこも悪そうに見えないのに、言葉が通じない。意味のない行動ばかりやりたがる。普通の人から見れば自閉症は、わからないことだらけの障害だと思います。

 話せないから、心がないのでしょうか。
 みんなと違うから、異星人なのでしょうか。

 私は、自閉症とは、自分で自分のことをうまくコントロールできない障害だと考えています。
 なぜなら、自分はまるで、壊れたロボットの中にいるようだと感じているからです。

 たとえば、先生から指示が出されたとします。みんなはすぐにその指示に従うことができますが、私は話の内容は理解しているのに、どうすればみんなのように、言われた通りに行動できるのかが、わかりません。
 みんなと同じことができない。

 自分勝手に動き回り、先生やみんなに迷惑をかけ、怒られてばかりの私は、人の役に立ついい子になりたいと、心から願いました。しかし、話そうとしても頭の中が真っ白になるので、弁解どころか、人に謝ることさえできません。こんな毎日が、つらくてつらくて仕方ありませんでした。「何のために生まれてきたのだろう」
 動物のように奇声を上げ、人の言うことを聞かず、自分のペースで生きようとする。自閉症の私が、この社会で存在する意味を知りたいと思うようになりました。

 

 本当の私は、誰からも制約を受けることなく、時間の枠を超え、ただひたすら声の限りに叫び、大地をかけていたいのです。あるいは、音も言葉もない静寂な水の中で、じっと息を殺し、永遠に続く宇宙の鼓動を感じ続けていたいのです。
それこそが、私の憧れる世界であり、生命の輝きを感じる瞬間です。

 けれども、この社会では、そんな自由は許されません。生きるためにやらなければいけないことが、たくさんあるからです。自立のために、私も少しずつですが、自分でできることを増やしています。

 お日様を見れば、光の分子に心を奪われ、砂をさわればその感触に全神経を集中させてしまう私たちですが、決して人が嫌いなわけではありません。声をかけられても知らん顔をするのは、近くにいても気づかなかったり、どう答えていいのかわからなかったりするためです。

 人は誰でも、ひとりで生きられないことを知っていると思います。自閉症者は、普通の人が考えている以上に、自分のことをわかっています。

 常に成長しなければならない現在の社会では、自閉症者は、じゃま者でしょうか。
自閉症者の中には、こだわりなどの特徴を生かして、社会で立派に働いている人もいますが、目立たないように、ひっそり暮らしている人も多く存在しています。

 自閉症は、近年増えてきているそうです。
 その理由を、世の中の人にも、考えてほしいと思っています。

 まるで、原始時代からタイムスリップしてきたような自閉症者たち。人を批判することも、駆け引きをすることも、競争することも苦手な人間。
 私たちを見て、あなたは、何を感じますか?
(2009年11月1日発売、THE BIG ISSUE JAPAN 130号より、東田直樹さんのエッセイを転載) 

◎逆転の発想 「浦河べてるの家」の地域活動から

〇精神障害の分野で、著名でよく紹介される活動に「浦河べてるの家」の地域活動がある。
 ウィキペディア (Wikipedia)によると、「1984年に設立された北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点で、社会福祉法人浦河べてるの家、有限会社福祉ショップべてるなどの活動の総体である。そこで暮らす当事者達にとっては、生活共同体、働く場としての共同体、ケアの共同体という3つの性格を有している。
 特徴ある取り組みとしては当事者研究が有名で、当事者の社会参加を支える充実した支援プログラム、投薬の量が全国平均の3分の1、病床数の削減など、先進的な取り組みがなされており、世界中から毎年3500人以上の研究者・見学者が訪れる。」と紹介されている。

 様々な批判もあるが、精神障害に携わっている関係者には、一つの模範になっている。

 

 べてるの家の理念は、「・三度の飯よりミーティング・安心してサボれる職場づくり・自分でつけよう自分の病気・手を動かすより口を動かせ・偏見差別大歓迎・幻聴から幻聴さんへ・場の力を信じる・弱さを絆に・べてるに染まれば商売繁盛・弱さの情報公開・公私混同大歓迎・べてるに来れば病気が出る・利益のないところを大切に・勝手に治すな自分の病気・そのまんまがいいみたい・昇る人生から降りる人生へ・苦労を取り戻す・それで順調」
 この理念のもとに、ことあるごとにメンバー同士で集まり病気や共同生活のことについて会議をしている。特に当事者研究が盛んで、自分の病気にオリジナルの病名をつけて毎日の経過をまとめ、報告するのが定例化している。例えば統合失調症の場合、幻聴が症状として現れるが、この幻聴の声の主を「幻聴さん」と呼び、尊重する。

 同伴者として、当初から携わっているソーシャルワーカーの向谷地氏は「べてるの家では世間並みに十分醜い人事抗争も発生する」と言う。

 本音やエゴをぶつけ合い、妄想の世界と現実を行き来しながら、自分や相手の病気を受け止め、あるがままを生きる。失敗を繰り返す自分、そういう自分を許し受け入れてくれる仲間がいることを実感し、自分もまた仲間を許し受け入れる。その活力に医療関係者や見学者も巻き込まれ、「がんばり過ぎている自分」「無理している自分」を振り返らずにはいられないらしい。逆に見学者たちが「べてるに来ると病気になる」などと言われている。

 

 私は、講演などでその動きと人に触れたことがある。ささやかな体験だが、そこで接した当事者は、その頃僕が接していた人たちと、身体の動きなどにそれほど違いは感じなかった。

 だが、自分自身のことを語るときに、とつとつだがおどおどした感じはなく、冷静に分析しようとしている人もいた。全体に自己肯定感があり、明るく自分のことを語っているのは印象的だった。

 私が接していた人たちは、時の話題や趣味などを話すときは生き生きしているのだが、自分自身のことは語りたがらないし、自己否定感など付きまとっている人が多かった。

 この自己肯定感があるというのが大きなポイントだと考えている。

 

【参照資料】
「べてるは、いつも問題だらけだ。今日も、明日も、あさっても、もしかしたら、ずっと問題だらけかもしれない。
 組織の運営や商売につきものの、人間関係のあつれきも日常的に起きてくる。一日生きることだけでも、排泄物のように問題や苦労が発生する。しかし、非常手段ともいうべき「病気」という逃げ場から抜け出て、「具体的な暮らしの悩み」として問題を現実化したほうがいい。それを仲間どうしで共有しあい、その問題を生きぬくことを選択したほうが実は生きやすい。
 べてるが学んできたのはこのことである。こうして私たちは、「誰もが、自分の悩みや苦労を担う主人公になる」という伝統を育んできた。だから、苦労があればあるほどみんなでこう言う。「それで順調!」と。」
(『べてるの家の「非」援助論』「今日も、明日も、あさっても」より、浦河べてるの家編、医学書院、2002)

「地域で、最も弱い立場にある人たちのつながりが、地域の枠を越えて新しい文化を創造しはじめている。しかし、べてるの家は、きっと、このまま、ずっと問題だらけであり続けるに違いない。一級品の生きづらさを抱えた当事者達が、生きるというエネルギーを地域にもたらし、当事者研究のように、そこで生まれた生き方のアイデアが、世界中に発信されようとしている。それは単に問題を問題に終わらせず、思い煩うのではなく、常に「研究する」という営みを大切にする生き方の提案である。統合失調症などの症状をかかえる当事者の生活場面には、実に数多くの「苦労の素材」がころがっている。

 特に、浦河は町全体に手つかずの苦労が充ちている。この地域全体を濃霧――浦河の語源はアイヌ語で霧深き河(ウララベツ)である――のように覆う“生きづらさ”を素材に、町民みんながそれぞれの苦労のテーマを持ち寄り、共に研究――生涯研究の町――しあう風景を、今、私たちは夢見ている。
(『ケアその思想と実践① ケアという思想』「逆転の発想―問題だらけからの出発」向谷地生良、岩波書店、2008)

◎働く幸せとは(2)(大山泰弘と障がい者)

〇福祉分野の根幹をなす理念に「ノーマライゼーション」がある。

 ノーマライゼーションとは,障害者(広くは社会的マイノリティも含む)が一般市民と同様の普通(ノーマル)の生活・権利などが保障されるように環境整備を目指す理念で、逆にいえば,このような考え方が出る背景には,障害者を取り巻く環境は,普通ではなかった(アブノーマル)ということになる。(※「普通」というとらえ方は曖昧で曲者ではあるが)

  また、福祉に携わるひとによく取り上げられる著名な言葉に、「この子らを世の光に」がある。

 知的障害者福祉の父と言われている糸賀一雄の、〈この子らを世の光にとてささげける いのちのかぎり春をまちつつ〉からの悲願ともみえる思想だ。

 

 だが現社会では、「普通の生活ができるように援助する」、「ハンデキャップを抱えた人としてケアしていく」など、支援を必要している人へのほどこし的な色合いが濃い〈客体〉としての対象者とする見方が多いのではないだろうか。

  この観点も必要なことではあるが、障がい者の主体性をないがしろにした、〈強者〉とされている人たちによる社会保障関連の施策や方式が決められていくことが多い現状である。

 

これに対して、障がいがあろうと無かろうと、すべての人が主体者となって、働く幸せを実現できるように経営している会社がある。現会長・大山泰弘氏の所属する日本理化学工業株式会社である。

  この会社は、1960年二人の知的障がい者を受け入れ、その働く姿に感応し、積極的に障がい者を社員として雇用してきた。

 その過程は、さまざまな困難があり紆余曲折をしながら、障がい者を含めた社員と試行錯誤しつつのりこえてきた。

 そして、知的障がい者がお世話される側・施される側から脱却し、力強い労働者になる方法を考え出していき、次のことを会社の理念とする。

 

「重度の障がい者だから福祉施設で一生面倒を見てもらえばいいというわけでもありません。つまり、健常者が障がい者に寄り添って生きる『共生社会』ではなく、『皆働社会』なのです。そのことに気付いた私は、福祉施設改革による『皆働社会』の実現を経営理念の一つにしました」

 その理念のもとに、半世紀以上経過している現在、全社員80名余の7割以上を知的障がい者が働き、その輝きは薄れていない。

 

 その過程を大山泰弘『利他のすすめ』(WEB出版、2011)を引用しながら、みていく。

 この著書は、大山氏が知的障がい者を含めた社員とともに困難を乗り越えながら経営し、社会の偏見や無理解といったことにもわずさわれずに、著者が社員と向き合う中で気づいた「無言の説法」というものが随所にちりばめられていて、一つひとつに重みがある。言葉ではなく、相手のことを本気で考え、行動したとき、たくさんのことに気づくことができたそうだ。

大山氏が知的障がい者の働く姿から経験し、実感した言葉を、いくつか引用する。

・「人を育てる-----。これは、実に骨の折れることです。時間はかかりますし、辛抱もしなければなりません。それでも、私は『待つ』ことを大切にしたい。

 人は、誰かの役に立つ幸せを求めて、必ず仕事に真剣に向き合うようになります。周りの人が、その小さな成長に眼を向け、励まし、支えることで、その人は必ず育っていくのです。

 そして、「待つ」ことによって、私たちは、『絆』という大きな果実を得ることができるのです。」(p44)

 

・「知的障がい者には理解力に限界があります。そのため“戦力”になってもらうためには、さまざまな工夫をこらす必要がありました。経営的に厳しい時期もありました。-----試行錯誤の連続でした。しかしその過程で、私は実に多くのことを学ぶことができました。(p31)

・「彼らは障害のために理解力に限界があります。これは、逆らいようのない現実です。だから、うまくいかないからといって彼らのせいにしても意味がないのです。

 その代わりに、私が工夫すればいい。------

 私はずっと、彼らが数字を理解できないことが『壁』になっていると思っていました。しかし、それは間違いでした。『壁』は私のなかにあったのです。

 このとき、私は『障害者のせいにはできない』ということを心に刻みました。そのほうが可能性は広がりますし、何より私自身が成長することができるからです。」(P56)

 

・「私たちは、ついつい自分にとっての『当たり前』を相手に押しつけようとしてしまいます。そして、相手が理解してくれなければ、それを相手のせいにしてしまう愚を犯してしまいがちです。

 しかし、相手のせいにしても何の解決にもならないのです。他人を変えることはできません。しかし、私たちは自分を変えることはできます。そして、自分が変われば、相手も変わり始めます。この普遍的な真実を、私は知的障害者に教わったのです。」(p58)

 

・「知的障がい者は、感じたことを正直に表現します。-----もしも、彼らに不信感をもたれてしまうと、「無反応」という「拒否」の意思表示になります。」(p66)

「健常者は、相手に不信感を抱いていても、それを正直に表現することはありません。いわゆる“大人の対応”をして取り繕おうとします。そのほうが、波風を立てないですむからです。

 もちろん、それも生きていくうえでの『知恵』には違いありません。しかし、あくまで虚飾です。表面上はそれなりの関係を保っていても、心のなかではそっぽを向いているのです。------。

 本気で生きること。そして、本気で相手のためを思うこと。それ以外に、強い絆をつくる方法はないのです。」(P72)

 

・「私は知的障害者との関係に悩む社員にこう語りかけています。

「君は本気で仕事に取り組んでいますか? 本気で彼らのためを思っていますか?  君が本気でなければ、彼らは応えてくれないんだよ」

 すると、ほとんどの人がわが身を振り返るようになります。そして、彼らに真剣に向き合うようになり、やがて信頼関係を築き始めます。

 知的障害者の正直さが、彼らを成長に導いてくれるのです。」p72

 

・「仕事がうまくいかないときや、障害者が言うことを聞いてくれないときには、相手のせいにするのではなく、自分の態度や指示の仕方を見直すようになります。そして相手の立場に立って、相手に伝わるような対応をする力をつけていきます。『人のせいにしない』からこそ、自分を磨くようになるのです。」(p76)

 創業者の父は丁稚奉公からのたたき上げの苦労人だったという。その父が立ち上げた会社に、教員志望を断ち切って入社したのが現会長・大山泰弘(当時24歳)。

 1960年大山氏27歳の時、二人の知的障がい者を受け入れ、その以後障がい者の雇用は増え続け、大山氏の描く理念が着々と実現しつつあった。

 19996年に、長男の現社長・大山隆久が経営に加わる。

 その時分、チョーク業界は切迫の度を高めていた。隆久氏は障がい者雇用の縮小や合理化、近代化を考えたという。  

 だが一年もたたないうちに、知的障がい者たちと一緒に働いていくなかで「すごいな、かなわないな」と素直に感動し、尊敬するようになり、「日本でいちばん大切にしたい会社」の一つとと言われるようになっていく。

 この会社の「志」が確実に、世代から世代へ受け継がれていく。

 2016年に現社長・大山隆久は、NHK解説「視点・論点」で話をされている。

番組で、現在のこの会社のことが簡潔に述べられていて、そこからすこし抜粋する。

 

〈会社の理念の中で、大事にしていることは、「相手の理解力に合わせて伝える」ということです。数字や字の読み書きの理解のレベルはそれぞれ違いますが、それで良い悪いとするのではなく、彼らの持っている理解力でできることは、少しの工夫や配慮だけで大きく広がるということなのです。

 チョークの計量をする際に、数字や文字を使いマニュアル通りに教えてもなかなか伝わらなかったことがありました。そこで、文字や数字は苦手でも一人で工場に通ってくる中で、いくつもの信号を無事に通ってくることから、その信号機をヒントに、文字や数字の替わりに色を使って作業することでしっかり理解してくれた様から気づいたことがありました。

 彼らの持っている理解力に合わせて段取りをしたり、その中で教えられることができれば、彼らは自分が理解したことについては誰よりも一所懸命にやってくれるので、安心して仕事を任せることができるのです。

 よほど、私より仕事に忠実で素直な分、信頼できる人たちですので、大きな戦力になってくれています。

 そんな中で、1つ厳しい教えもあります。

 それは、私たちが障がいのある社員に何かを教えたときに、その人ができなかったとき、「それは教えたほうがいけないのだ」と一言で片付けられることです。

 こちらも理解してもらおうと何度かトライしても伝わらなかったときには、どうしても相手のせいにしてしまいます。

 しかし、それでも相手のせいにしてはならないといわれると、何度もチャレンジしていれば頭にもきますし、言われて悔しい言葉です。しかし、『教えた方がいけないのだ』という言葉があるから簡単にはあきらめることはできませんし、相談できる仲間とともに新たな伝え方から理解してもらったときには、あーやっぱり伝えられるやり方はあるのだとうれしさと納得感がわいてきます。

 それが教える側の喜びなのだと思います。

(「誰もが人の役に立ち 働く幸せを」日本理化学工業株式会社社長・大山隆久(NHK解説アーカイブス視点・論点)2016年05月03日)〉

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/243814.html

 上記の、〈「待つ」ことを大切にする。「壁」は私のなかにある。自分の「当たり前」を相手に押しつけない。わが身を振り返る。人のせいにしない。〉など、どれも含蓄の深い言葉で、大山泰弘氏の長年の経験からにじみ出たものだろう。

 これは、会社経営とか、障がい者に対する心の持ち方とか、そういう範囲のことだけではなく、人とともに暮らしていくときの、欠かすことのできない要点だと思う。

 またこのことが、会社経営のエッセンスになるところが、この会社の凄さともいえるかもしれない。

 

 大山氏やこの会社の素晴らしさや可能性を大いに認めつつ、次のことも考える。

 現社会で働くことは、その成果として収穫する、換金して稼ぐあるいは給料をもらい自らの生活を成り立たせていく。その結果として、人として一人前に扱われるように思っている人も多いだろう。これは根強い思い方になっている。

 しかし、現社会では、働きたいけれど、身体的に、精神的に、能力的になどいろいろな理由で、働くことが困難な人たちがいる。障害の程度も一人ひとり極端に異なる。

 この会社だけではなく、障害者に理解を示し、積極的に受け入れしている会社もある。そのような会社に雇用されても長続きしない人たちもいる。また会社の方でも当然、限界がある。

 

 知的障がい者に限っても正規雇用されている人は10%程度といわれている。さまざまな生活保障制度はいくらかあるにしても、「自ら生活を成り立たせられない人」という内面化した規範は、その人の自尊心を奪っていく。そうすると、引っ込み思案になりやすく、余計働くことから遠ざかり悪循環になっていく。その人だけではなく、家族も巻き込んでいく場合もある。

 先日紹介した、小松成美『虹色のチョーク 働く幸せを実現した町工場の奇跡 』では、障がい者の家族のことも三例紹介されていたが、それを読んでいてもしみじみした思いが出てくる。

 

 そのような現状がある中で、「福祉施設改革による『皆働社会』の実現を経営理念の一つにしました。」との日本理化学工業株式会社の試みは大切にしたいなと考える。 

※大山泰弘『利他のすすめ』(WEB出版、2011) 

 

◎働く幸せとは(1)(大山泰弘と日本理化学工業に触れて)

〇ある人との出会いや体験から、その後のその人の生き方を決定づけることがある。

 そのことから、ある「理想」を描き続けることもあるだろう。

 だが、ときの経過とともに、理想と現実のはざまで、描いた理想が薄れていき、あるいはおかしなものに歪んでいくこともある。

 その理想が、次第に周りの人々に共感され、会社の理念となり、やがて「日本でいちばん大切にしたい会社」と注目されるようになるのは、現会長・大山泰弘氏の所属する日本理化学工業株式会社である。

 

 ここでは、目配りのきいたと思われるノンフィクション、小松成美『虹色のチョーク 働く幸せを実現した町工場の奇跡 』など参照しながらみていく。

 

 この会社から、大きく二つのことを思う。

  • 一個人の描いた理想が多くの人に共感され、会社の理念となり、半世紀以上経過しても、その輝きが持続していること。
  • 働きたいけれど、身体的に、精神的に、能力的になどいろいろな理由で、働くことが困難な人たちがいる。この会社は知的障がい者を雇用し、様々な困難に真摯に向き合いながら、その人たちと共に成長してきたこと。

  障がい者が働くこと、その家族たちの在りようについては、私にとって身近なことでもあり、いろいろなことを考えさせられた。この稿では、まず①についてみていく。

 

 日本理化学工業は1937年設立のチョーク製造会社。1960年、現会長大山泰弘氏が知的障がいを持つ二人の少女を受け入れたことをきっかけに、障がい者雇用に取り組み始める。2017年現在、社員83名のうち7割を越える62名の知的障がい者を雇い、日本のチョークのシェア50%を占める筆頭メーカー。

 2008年出版『日本でいちばん大切にしたい会社』(坂本光司著、あさ出版)と、同年放映された村上龍司会の「カンブリア宮殿」の紹介により経営と福祉の両方の面から注目を集め続けている。

 

 父が社長を務める会社に入社して3年程した1959年に大山泰弘氏(当時27歳)は、工場の近くの養護学校の先生から、「卒業する生徒を雇ってほしい」と言われ、素っ気なく「責任を持てない」と断る。その後も懇願は続き、その先生の二つの言葉が胸を突く。

「卒業後、就職先がないと親元を離れ、一生施設で暮らすことになります」。「働くという体験をしないまま、生涯を終えることになるのです」。

  何度も断るが、「就職は諦めましたが、せめて仕事の体験だけでもさせていただけないでしょうか。私はこの子たちに、一度でいいから働くというのはどういうことか、経験させてあげたいのです」と言われ、大山氏の心が動き、2週間の期限を設け、少女2名を預かることになる。

 

 実習最終日に中年女性社員の中から、「専務、たった二人なら自分らで面倒見るから雇ってほしい」と直談判を受け、その勢いに押され了承することになる。

  入院中の創業者の父に報告すると、「そんな会社が一つぐらいあってもいいんじゃないのか」という返事。父は10人兄弟のひとりで、丁稚奉公からのたたき上げの苦労人だったという。

 

 その二人の少女は大山氏の想像を超えてよく働いた。その働きぶりをみて、大山氏はある疑問を抱く。

「福祉施設にいたほうが、楽で、幸せで、守られている。そう思っていた私は、なぜ彼女たちが懸命に働くのか、不思議でなりませんでした。当時は、彼女たちにとっては、労働=苦役と思っていましたから。それなのに、何かミスをして従業員から怒られ、『もう来なくていいよ』と言われると、『嫌だ』と泣いている。『会社で働きたい』と言うのです。不思議でした。それに、私のなかには障がいのある人を働かせているという後ろめたさがどこかにありました」

             

 知的障害のある二人の少女の一生懸命働く姿を見ながら、沸き起こったいくつもの感情、いくつもの疑問を払拭したのは、出向いた法事で同席した禅僧との出会い。

 彼女たちの話をしながら、疑問を投げかけると、「人間の究極の四つの幸せ」の話を禅僧から聴く。

 

「曰く、物やお金をもらうことが人としての幸せではない。

人に愛されること/人に褒められること/人の役に立つこと/人から必要とされること。この四つが人間の究極の幸せである」と。そして付け加える。「人に愛されることは施設や家でも感じることができる、けれど、人に褒められ、役に立ち、必要とされることは働くことで得られるのですよ。その人たちは働くことによって、幸せを感じているのです」

 その瞬間から、世の中の光景も映る色も変わって見えたという。

 

 その後、職場に起きたさまざまな軋轢と逆境を乗り越えて、会社とは何か、経営とは何かと考え続けて、一つの答えを出した。

「重度知的障がい者の幸せを叶える会社を作り経営する。日本理化学工業は、利益を出し成長を遂げるとともに、すべての社員に幸せを提供する。という二つの目的を叶えるために働くのが経営者だと言い聞かせた」という。

 また、知的障がい者がお世話される側・施される側から脱却し、力強い労働者になる方法を考え出していく。

 さらに、「健常でも障がいがあっても働くことで幸せを感じてもらう。働くことこそ、人も自分も幸せにする。“皆働社会”を実現することが、私の人生の目的となりました。」となり、大山泰弘氏は次のように述べる。

 

「私が提唱しているのは『皆働社会』です。日本国憲法第13条には『すべての国民の幸福追求を最大限に尊重する』とあり、さらに第27条で『すべての国民は勤労の権利と義務を負う』とある以上、重度の障がい者だから福祉施設で一生面倒を見てもらえばいいというわけでもありません。つまり、健常者が障がい者に寄り添って生きる『共生社会』ではなく、『皆働社会』なのです。そのことに気付いた私は、福祉施設改革による『皆働社会』の実現を経営理念の一つにしました」

 

 大山泰弘氏が描く通りの理想的な会社となるまでには紆余曲折があった。

 長男の現社長・大山隆久さんが1996年に経営に加わったころ、チョーク業界は切迫の度を高めていた。少子化とホワイトボードの普及でチョークの需要は下り坂だったことと、日本理化学工業はチョーク製造の他に大手企業の下請けの作業もしていたのだが、その他の事業が消滅に向かっていたため、隆久氏は障がい者雇用の縮小や合理化、近代化を考えたという。  

 しかし、父も叔父も姉も製造部長も頭ごなしに否定することはなかったが、今ある流れを変えようとはしなかった。

 隆久氏も、現場で社員と同じ時間を過ごすうち、彼らの仕事への姿勢、まじめさ、笑顔などに触れ、彼らと働けることこそ、自分の喜びだと考えるようになっていった。

「誰かから何かを言われて、自分の考え方が変わったのではありません。知的障がい者と呼ばれる人たちと一緒に働いていくなかで『すごいな、かなわないな』と素直に感動し、尊敬したからです」という。

  2009年、大山会長は渋沢栄一賞を授与され、その頃には「日本でいちばん大切にしたい会社」と経営、福祉をはじめ、各方面から注目されるようになる。

 

  2016年7月26日の相模原殺傷事件の衝撃に言葉を失いながら大山泰弘氏(84歳)は次のように呟く。

「生きていて意味のない人間など一人もいない。重度の障がい者であっても、それぞれが必ず、誰かに寄り添い寄り添われ、必要とされている。誰かの心を支え、役に立っているのに-----」

  1960年に二人の少女を採用して以来、すでに半世紀は経つ障がい者雇用の体験から、大山氏は、日本の障害者福祉を切り開いた第一人者として知られ、「社会福祉の父」とも呼ばれる糸賀一雄の「この子らを世の光に」から、次のように語る。

 

 「彼らこそ、世の中を照らす光になるはずだ、彼らから生きることの意味や人の役に立つ幸せ、そして働く喜びを教えられた」

 「彼らこそ世の光であると知っている私が口を閉ざしてはならない。どんなにゆっくりであっても、否定や障壁を感じても語り続けなければ」と考える。

(つづく)

 

※・小松成美『虹色のチョーク 働く幸せを実現した町工場の奇跡 』(幻冬舎、2017)

・日本国憲法第13条:すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

・日本国憲法第27条:すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

 

・〈日本理化学工業株式会社のビジョン/目標:日本一強く、優しい会社を目指す。

 経営的にも強く、精神的にも強く、人に優しく接することができ、人と環境に優しい商品を作り続ける。

 「働く幸せの像」彫刻制作及び寄贈  松阪 節三

 刻まれた言葉:導師は『人に愛されること、人にほめられること、人の役にたつこと、人から必要とされること、の4つです。働くことによって愛以外の三つの幸せは得られるのです』 と。

「その愛も一生懸命働くことによって得られるものだと思う」

 社長 大山 泰弘(現会長) 平成10年5月〉

 

 

◎オートファジーとファスティング

〇近年、ファスティングのように一定期間断食を行うことで、細胞内でオートファジーが活性化していることに、その関連の専門家、実際家の間では注目されている。

 水島昇『細胞が自分を食べる オートファジーの謎』を参照しながらまとめてみる。

 

▼細胞とタンパク質

 私たちの体を構成している生命の最小単位である細胞内は、汚れがたまるなど徐々に悪くなっていく。そのため、細胞内を常に新鮮な状態に保つべく、汚れを処理したり、不要になったものをリサイクルしたり、細胞そのものを入れ替えたりする。

 短期間で人の体のほとんどの細胞は新しいものと入れ替わっているといわれている。

(※細胞の寿命:白血球、腸の上皮細胞・3~5日、皮膚・1ヶ月、赤血球・4か月、肝・一年半、骨・2~10年、神経細胞・ほぼ一生)

 なぜ入れ替える必要があるか? 基本的には、①新鮮さを保つため、②栄養を獲得するため、➂変化するため、である。

 

 細胞内は、タンパク質はもっとも量が多く、ヒトでは2万種類以上のタンパク質が作られている。生体内の化学反応の制御(酵素)、酸素や栄養素の運搬、ホルモンやそれに対する反応、筋肉の収縮、細胞の固定や接着、微生物などからの防御(抗体)、細胞の構造の保持など、実に様々な働きをしており、これこそが生命活動の基本となっている。そして、私たちは生きるために、毎日大量のタンパク質を合成している。

 実は、食事を通して摂取することができる、3倍もの量のタンパク質を毎日、分解しては、また新しく合成している。

 このすべてに、オートファジーが重要な働きをしている。

 

▼オートファジーの役割

 オートファジ(自食作用)とは私たちの細胞の中で起こっている分解作用である。細胞内のタンパク質の一部を少しずつ、ときには激しく分解し(食べる)、新たにリサイクルする作用を指す。

 

・オートファジーの基本的役割は飢餓に耐えることである。飢餓は生物の最大のストレスであり、体の中に蓄えられたタンパク質をアミノ酸まで分解し、飢餓状態の栄養補給に重要な役割を果たしている。

・発生の過程で細胞内を大規模に入れ替えないといけないようなときにも起こる。

・細胞内をきれいにする浄化作用を持っている。

・抗原提示という免疫を成立させるために必要な作用であることがわかりつつある。

・過激なオートファジーが起こると細胞にとってむしろ傷害をきたす可能性があるとも考えられている。

 

 このようにその役割は多岐にわたっている。これらが分かってきたのは最近のことである。大隅良典教授がノーベル生理医学賞を受賞したように、日本は最先端を行っているそうで、世界中から注目されている。さまざまな生命現象を語る上ではもはや不可欠らしいが、まだまだ検証、探求を重ねる必要があると思われる。

 細胞内をきれいにする浄化作用を持っていることや、タンパク質(アミノ酸)を食べ物として他の生物から取り続けることが不可欠な人にとって、それが絶たれた時に活性化するというオートファジーの作用を知ると、一定期間の断食の効果が望まれている所以でもあるが、その可能性を丁寧に探っていく必要があると思う。

 

 私の家族や知人などいろいろな方がファスティングをされていて、ほとんどの方がその効果を実感しているようだが、それぞれの反応はさまざまである。

 私の場合は、①毎日快便状態である、②血糖値が基準以下で安定している。➂内臓脂肪が1,5キロ減少したことで、自分でも驚いているが、ただちにファスティングだけに結び付けるのは慎重にしたいと思っている。

  

※水島昇 (著)『細胞が自分を食べる オートファジーの謎』 (PHPサイエンス・ワールド新書) 2016版  HP:水島研究室分子生物学分野

 専門研究者だけに限らず、各方面から評価の高いオートファジー関連の著書と知り、読んでみたが、分かりやすく、いろいろと示唆に富むものであった。

 

【参照資料】

※水島昇『細胞が自分を食べる オートファジーの謎』へのアマゾンのカスタマーレビューから

 投稿者・荒野の狼さん

〈私はオートファジーが関連しているとされるウイルス学、免疫学、神経学を研究している者ですが、現在、医学研究において注目を集めているこの分野を網羅した本を探しておりました。本書は、2011年9月に書かれた215ページからなり、数時間で通読できますが、内容は基礎から2011年に発表された最先端の知識まで書かれてあり、この一冊で、オートファジーに関する理解は、類書の(専門書も含めて)どれを読むよりも深まるといえます。この本は、まず、オートファジーの発見からの研究の発展の経緯が丁寧に書かれてあり、酵母での研究から、哺乳類のノックアウトマウス、蛍光物質のGFPを用いたオートファジーの同定方法が、研究者以外の一般の人でもわかるように、書かれています。たとえば、細胞内の構造物(リソソームなど)を豊富な図(電子顕微鏡写真なども含む)で解説しており、よくここまでわかりやすく基礎から解説していながら、大著にならずにまとめたられたかが不思議なほどです。網羅されてある分野は多岐にわたり、酵母、免疫学(抗原提示)、受精卵(母性効果の記述は秀逸)、ユビキチン・プロテアソーム系、細菌感染、パーキンソン病、腫瘍などでのオートファジーの果たしうる役割が、今まで明らかにされてきたことと、今後、期待の持てる内容(まだ確かではない部分)がはっきり分けられて書かれてあり、生命科学の専門家でも、学べる知識は多く(特に非専門分野での)、一般の人よりも、医学や植物学研究を専門とする第一線の研究者にこそ勧めたい一冊。特に発見からの経緯は、今後新しい知見が得られても、古くなることはなく、日本発信の医学研究の歴史の1ページとして重要。参考文献が21ページに、一度示されている他は、他に特に記載はないのは一般向けを意識してのことと大著になるのを憂慮してのことだろうが、各章末に主な参考文献をつけても大幅なページの増加にはならないので、改訂の際には、望みたいところ。〉

◎自己とは何か(多田 富雄『多田富雄コレクション1』から)

※『多田富雄コレクション1、1免疫という視座―「自己」と「非自己」をめぐって』を学びほぐしながら読む。

 ・「免疫とは何か」

 人類は、生存を脅かす伝染病の流行に何度も曝させながらも、何万年もの歴史を生き延びてきた。それは私たちの体に、病原微生物の侵入から体を守り、病気から回復ための免疫機構が備えられているからである。人間ばかりだけではないが、人については全身の7割ぐらいの免疫細胞が腸に集結し、60兆と言われている細胞の数倍もいるとされている「腸内細菌(叢)」と情報をやりとりしていることで、腸での免疫のバランスが保たれていると最近の研究から分かってきたらしい。

 

 人間の体は、親から受け継いだDNAに加えて、今までの食生活や環境によってつくられてきた腸内細菌や微生物との共生によって自分の身体が成り立っている。生命現象など細胞内の要であるミトコンドリアも真核生物の細胞小器官で他生物由来のものである。

 また、他の生き物を食べて、タンパク質などの栄養を取り入れることで生きながらえてきた。現在の地球生態系は、生命体が互いに角逐し合い、共存し合いながら維持してきたものである。

 

・「自己」と「非自己」

 免疫は、基本的には「自己」と「自己でないもの(非自己)」を識別して「非自己」を排除して「自己」の全体性を守る機構である。

 なぜ、「自己」に対しては反応を起こさず、「非自己」に対して不寛容に排除の反応を起こすのか。免疫学の先端にたっての研究成果から、「自己とは何か」「生命とは何か」と考察を重ねたのが本書第1部の特徴となっている。

 

 第Ⅰ部は、生命科学の研究者はもちろん多くの人に影響を与えた『免疫の意味論』(青土社、1993年)の内容をかみ砕いて書き直した『免疫・「自己」と「非自己」の科学』(NHK出版、2001年)からの再録を中心に据えて、免疫という複雑な現象を精緻に伝えている。

 とはいうものの専門用語が多く、私にとっては決してわかりやすいものではなかったが、「免疫をめぐる『知』の歴史」、「免疫の内部世界」、「自己免疫の恐怖」、「あいまいな『自己』―移植、がん、妊娠、消化管」、その他伝染病やアレルギーの話など、何度も行ったり来たりしながら、文学作品を読むような楽しさもあった。

 その研究成果から、多田富雄の「自己とは何か」「生命とは何か」を展開した論考に入っていく。

 

・「ファジ―な自己」 ※ファジ―fuzzy:あいまいなさま.

〈意識の「自己」は身体の「自己」の上に成立し形成される。その身体の「自己」を決定している最大のものが免疫系であることは異論がないと思われる。〉そして、次のように述べている。

 

〈近代の免疫学は、免疫系とは、もともと「自己」と「非自己」を画然と区別し「非自己」の侵入から「自己」を守るために発達したシステムと想定してきた。そんなに厳格に「自己」を「非自己」から峻別している事実があるとすれば、その判断の基準は何か。そして免疫系が守ろうとしている「自己」とはそもそも何なのか。というのが免疫学の問題の立て方だった。〉(p150)

 ところが、〈「自己」は「非自己」から隔絶された堅固な実体ではなく、ファジーなものであることが分かってきた。それでも一応ウイルスや細菌の感染から当面「自己」を守ることができるのは、むしろ奇跡に近い。

免疫学はいま、ファジ―な「自己」を相手にしている。ファジ―な「自己」の行動様式は、しかし、堅固な「自己」よりはるかに面白い。〉(p157)

 

「非自己」の侵入から「自己」を守るために発達してきたとされる免疫機能だが、実はその「自己」があいまいで、「非自己」との境界は後天的にシステム自体が作っていくものであることが免疫学の最先端を踏まえて語られる。

 また、時に自己免疫症のように自己を攻撃したり、アレルギーのように過剰に非自己を攻撃したりするあいまいさを有している。

 免疫機能に限らず、自分のからだは、現実には私の意のままにならないことからも、意識でとらえた精神的な自己、人格的な自己も、つきつめて考えていくとあいまいなものではないのか。

 

・生命のアイデンティティー(p158~p165)

 個体が人の生命として全体性を持つためには、全一性とか連続性が重要な属性である。その全一性を保つためには、「自己」という概念を離れては考えることができない。免疫学では、身体の「自己」を問題にする。それでは免疫学的「自己」の全一性とか連続性すなわち同一性(アイデンティティー)とは何を指すのか。と、人のもつ「自己」の同一性から免疫学「自己」の同一性、さらに生命の同一性へと多田は論を展開する。

 

・自己の同一性

  • 見られる自己と、見る「自己」の同一性:自己は自分によって見る、非自己(他者)によっても見られる存在であるが、その間にはギャップが生じる。自己というのは非自己に対する反応性、即ち自己の行為として現れるが、非自己(他者)は行為者の意図とは異なったやり方で認識することがある。
  • 時間的な同一性:日々様々な事件に遭遇し、異なった経験を積むことによって「自己」を変革していく。しかし、昨日の自己と今日の自己、20年前の自己と20年後の自己は連続したものと意識はとらえる。
  • 全体と部分の同一性:自己の行為の様々な断片をみても、そこには共通した「自己」らしさというものを発見する。一人の作家の生涯の作品のどれをとっても、全体としてその作家の表現の一部であることがわかる。民族の同一性というときも、国家や民族という全体と構成要素としての集団や個人によって規定される部分との同一性が問題にされる。全く異なった断片が全体の中に含まれた場合は、排除されるか同化されて、同一性に吸収される。

 

・免疫学的「自己」の同一性

  • 見られる自己と、見る「自己」の同一性:「非自己」に対する反応様式、基本的に「自己」内部への適応によって決定されていたことになる。
  • 時間的な同一性:一度遭遇した「非自己」を長期間記憶することで同一性が保たれる。ハシカに一度かかると一生二度とかからないのはこの記録のせいである。ワクチンを注射しておくと、たとえかかったとしても軽くすむというのも免疫学的記憶が成立したからである。
  • 全体と部分の同一性:ひとつの個体を形成しているすべての細胞は、その人独自の同じHAL分子をもっている。すべての臓器や組織の細胞は免疫系によって「自己」と認識されている。他人の臓器や組織もまたすべて他人のHALでマークされているので、そのいかなる断片でも「自己」にとっては「非自己」である。免疫系の「自己」の個性は、この著しく個人差があるHLAという内部世界に適応するというやり方で形成される。

 

 自己の同一性は、どこまでも人の意識がとらえたものだが、免疫による自己の同一性は身体そのものが内部への適応によって決定されていくところが、次元が違う面白さだと思う。

 

・生命の同一性

 多田は、免疫系における同一性の成立機構をもとにして、生命体の同一性を考えていく。

〈私は、免疫系や脳神経系のように、自ら「自己」をつくり出し、「自己」の反応様式を形成し、「自己」の運命を決定していくようなシステムを「超システム」と呼ぶことを提案する。

「超システム」は基本的に、自ら作り出した「自己」を持つシステムである。〉

 

〈個体の生命は、単一の受精卵から多様な要素が生成し、自己組織化をしてゆく過程である。遺伝的に決定された最初の原因は、次の結果を生み出すとともに、それに適応する第三の過程を生み出す。こうして自ら原因を作り、結果を生み出すという過程のつながりの中に、同一性というものがつくり出される原理がある。〉

 

〈生命の同一性は、DNAによってすべて決定されるわけではない。内部および外部世界に適応し、積極的に偶然性やランダム性を取り込み自己組織化するところに同一性なるものが形成されると考える。〉

 

・「超システム」としての生命

 多田は、免疫系に見られる生命の「技法」を「超システム」という概念を提案した。

〈「超システム」は自分で自分をつくり出し、条件に応じて自分の運命を変えながら動いていくシステムをいう。プログラムの一部は遺伝子によって決定されているが、すべての運命について完璧なブループリントがあるわけではない。〉

 

〈「超システム」は通常の工学機械のような目的を持たず、自己の構成要素と、要素間の関係を作り出していく生命の「技法」として、免疫系に限らず、脳神経系や個体発生等にも当てはめることができ、個体としての生命は免疫系、脳神経系などの複数の超システムが複合して構成された高次の超システムと考えられる。〉

 

 そしてさらに多田は「超システム」を「言語の成立、都市の形成、民族や国家の生成、経済や企業の発展など様々な文化現象」の中に生命活動と共通する「技法」を読み取ろうとした。

 

「超システム」については、本書「Ⅱ『超システム』としての生命」に様々な角度から触れている。

 

 わたしは、魅力的なエッセイもあるこの著作からいくつかのことを思った

・科学は客観性を重んじるが、要素に還元するだけではつかみようがない「自分とは何か」「生命とは何か」については、ファジ―ではあるが免疫機能、「超システム」から考えていくのは、刺激的である。

・心とか意識を、生物学の対象として「身体化」して考えるのは、現代生物学の趨勢である。心という実体のないものも、実体としての脳神経細胞によってつくられたネットワークの活動でつくり出されたものである。「心の身体化」から生命論を複眼的思考で探求していこうとする多田富雄の先見性を思う。

・多田富雄は新作能・詩・エッセイなど幅広い執筆を重ねている。脳梗塞に倒れた晩年は、老い、病、死などのテーマは多くなるが、基本には科学があり、丁寧な分析と精緻な文章表現で語り、死に至るまで「歩き続けて果てに息む」の姿勢をつらぬいた一人の人間として印象に深く残り続けている。

 

※多田 富雄『多田富雄コレクション1 自己とは何か 免疫と生命』(藤原書店,2017)

◎2018年 年頭にあたって

〇質のよい生活に向けて

 渡辺京二『さらば、政治よ』の「質のよい生活」について、次の三つの要点に絞って簡潔に述べている。

  • 暮らしている街なり村なりの景観が美しく親和的であること。は
  • 情愛を通わすことのできる仲間がいること。
  • 人は生きている間、できる限りよい物を作ること。

 その観点の要約を参考にしながら、生活を振り返り、今後に向けて描いていく。

------

・1.暮らしている街なり村なりの景観が美しく親和的であること。

「そこで暮らすのだから、歩いていて汚かったり、殺風景であったりしてはたまらない。景観の魅力だけではなく、よい店やよい施設もなければならない。そういう愛すべきわが街、わが村の中で生きるのが生活の質のよさなのだ。」

------

  2年半ほど前に住み始めた街は、今ではわたしたちにとって愛すべき街になっている。

 ただ、賃貸マンションに暮らしていて、隣近所との交流はあまりなく、これについてはもっと行き来があったらとも思っている。古くからこの街に暮らしている知人によると、特に震災後は何かと気をかけていく気風が育ったが、ここは特殊だと仰っていた。

 住んでいるところが親和的であるためには、ものや施設などが豊富に揃っているとかないとか、自由にできる財産があるとかないとかにかかわらず、暮らしにまつわるいろいろなことについて、街や人々に“安心感”を覚えていて、この要素がもっとも大きなことではないかと思っている。

 災害、人災あるいは大きな病気などに遭遇したら、しばらくはそれどころではなくなるかもわからないが、徐々にではあるとしても、立ち還っていくときの大事にしたいことは、根本から“安心感”を覚えるような暮らしにあると考えている。

 ------

・2.情愛を通わすことのできる仲間がいること。

「何かにつけて助け合うということも含まれるが、人間は一人自立せねばならぬ人類史的段階に来ている。しかし一人でありつつも、互いに情愛の働く場がなければ、人の生は不毛なのだ。よい質の生活とは、人々の情愛ある出会いを可能にする、開かれたフリーな場が備わっている生活のことだ。」

------

 人間誰しも一人では生きられない、というのは少し考えてみると分かるし、現社会では、全て他の人の助けがあるからできるというのも、よく考えると納得せざるを得ない。

 それでも、孤独であることに幻想でありながらも心を置いている人もいる。

 

 鶴見俊輔は悼詞』の「あとがき」で次のように述べている。

「私は孤独であると思う。それが幻想であることが、黒川創のあつめたこの本を読むとよくわかる。これほど多くの人、そのひとりひとりからさずかったものがある。ここに登場する人物よりもさらに多くの人からさずけられたものがある。そのおおかたはなくなった。

 今、私の中には、なくなった人と生きている人の区別がない。死者生者まざりあって心をゆききしている。」

 

 ここで、情愛を通わすことのできる仲間について考えてみる。

 ねっとりとした関係ではなく、適度な距離おきながら、意見が違う・同じに関わらず、根っ子のところで互いに肯定しあう、そういう差異を前提としながら、崩れようがない関係を保てる仲間だろう。

 ごくありふれた母親が、条件をつけずに赤ん坊をいつくしむように、子ども時代から大人になっても、小さく壊れやすいわたしという「存在」を、何かとささえてくれている仲間なのだろう。

------

・3.人は生きている間、できる限りよい物を作ること。

「物を作るといってもいろいろある。サービスだって広い意味でのもの作りだ。文章を書く人はその質・中味を、店を出す人は店の構え・雰囲気、タクシーのドライバーは運転の仕方・客の接し方など、その人の創造によるもので、みんな一能一芸を極めることができる。」

------

 日常生活の隅々まで、自分の身体を使って様々なことをしながら暮らしている。

 何も芸術・文化的な作品制作だけではなく、どんなささやかであるにしても、何かから託された仕事をする。シャドウワークと言われる調理、掃除、洗濯、買い物、ゴミ出し。人との交流など、すべて、一人ひとりの創造的な働きかけによって質のよさが生まれる。

 生きるというのはそういうことではないだろうか。

 

 そして、次の文章につながっていく。結局、自分の生き方に帰することになる。

------

・「このような質のよいさまざまな創造を、思い思いに実現しようとし、またその実現がスムーズに行くのが、質のよい生活だ。ところが実際には、粗悪で見かけばかりが気をひくような「物作り」が横行している。質のよい生活とは、本当によい物を作る行為がむくわれる生活のことだ。」

・「だとすれば、問題はおのれに帰る。自分の書くものに意味があるか、少しは真実に近づいているか、いくらか良質になっているか、自問せねばなるまい。」

------

 ※(渡辺京二『さらば、政治よ――旅の仲間へ』晶文社、2016))