日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

読書ノート:工藤勇一著『学校の「当たり前」をやめた。』を読んで。

○いろいろな方面から注目されていて、日曜劇場「御上先生」の教育監修をしている工藤氏の最初の書籍である。

むろん、工藤氏の進め方に疑問を呈する教育関係者もいる。

 

例えば、東京学芸大学教職大学院の特命教授の立田順一氏は【「カリスマ校長の」が去ったあと】で3回に分けてネットに投稿している。

その内容は「工藤校長(当時)の学校改革は、公立中学校の「当たり前」を見直そうとする画期的なものだった。しかし、それが「持続可能」なものだったかどうかについては疑問が残る。」などとしている。

 

私はある校長の強力なリーダーシップよりも、学校を作っていくのは一人ひとりの学生であり、その後の学生たちの人生においてどのようなことを齎すようになったかを見ていきたいと思っている。

そのことを抑えた上で本書の特徴を見ていきたいと考えている。

------

本書の中で、工藤校長は「学校の最上位目標は何か?」ということで、「目的と手段を取り違えない」「上位目標を忘れない」「自律のための教育を大切にする」などの基本的な考え方を軸に学校を再構築しようとする。

 

学校は子どもたちが、「社会の中でよりよく生きていけるようにする」ためにあると考え、子どもたちは「自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質」すなわち「自律」する力を身に付けさせ、主体性のある子どもをつくる必要があり、この「教育の原点」に立ち返らないといけないと考えて、様々な「当たり前」を見直していく。

 

そして、次のことを述べる。

日本の学校の教育活動の多くは「本来の目的」を見失っているように感じ、その事実に教育関係者の多くが気付いていないのではないか、つまり「手段」であるはずの学習指導要領や教科書が「目的」となり、消化してこなす対象になっているように思う。

このような「手段の目的化」は至るところで見られ、「何のために」という目的もよく考えられないまま、多くの教員が続けている現状ではないだろうか。

 

また、次のことも述べる。

今の学校は手取り足取り、世話をし過ぎて、自律してない大人を育ててしまっている。そして、壁にぶつかると「あれが悪い」「国が悪い」。など誰かのせいにしてしまう。それは、子どもたちや保護者がサービスの「消費者」であり、「当事者」ではないからとしている。

 

当事者性とは、集団や社会で生きる中で起きたトラブルを自分で解決しようとする力。

徐々にだが、自分たちで解決していく経験を通して当事者性が育まれ、他者を尊重しながら対話をし、確かな社会性を獲得していく。

 

そのため、対立をいとわない。

第4章【「当たり前」を徹底的に見直す学校づくり】の2【「対立」とどう向き合うか】の中で、社会においては予定調和などなく、何かを始めた際に、何の反発も反対意見も出ないことなど、あり得ないことで、生徒にも「対立があって当たり前、それを対話で乗り越えていかなくてはいけないと」と話している。

そして、考え方に違いがあることを「当たり前」のことと捉えた上で、上位目的を見据えながら、合意形成を図っていくことが大切と述べる。

 

本書は、著者の考え方がある程度わかる一書となっているし、参考になることもいくつかある。

※工藤勇一著『学校の「当たり前」をやめた。』(時事通信社、2018)