日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

有用性の秩序から離れて(子育ちアイリス通信13)

○「学校」について次のような記事をよく目にする。

《英語で学校を意味する「school」は、ギリシャ後で「余暇」を意味する「schore(スコレー)」に由来している。「スコレー」は単なる暇な時間ではなく、精神活動や自己充実にかける積極的な意味を含む時間のことを指し、「遊び」そのものだと捉える人もいる。

学校が行くことが制度化されている現代の日本では、言語の由来になっている「自ら積極的に自由になる時間を使っていく」という意味からはかけ離れた場所になっているような気がする。

 

子どもは、学校教育に限らず、ほとんど遊びで、学び・育つのではないだろうか。

誰に教えられなくても遊びを覚える。ことばも日本語の文法規則もいつのまにか使えるようになる。面白いのだろう。

 

遊びの生成・感動体験によって子どもは育つとした教育学者の矢野智司は次のことを述べる。

「――遊びによって子どもは体を丈夫にするとか、役割と規則を学ぶとか、社会的な人間関係を豊かにするとか、自然や社会についての認識能力を高めるとか言われてきた。なるほど、このような指摘は、遊びの効用として主張する限り、どれもまちがっていないのだが、教育的効果という有用性が前面に押しだされることによって、遊びが本来もっているはずの生成の力と奥行きとが削減されてしまう。遊びの中心は、そのような<経験>としての側面にはない。遊びはもともと有用性の秩序を否定し、エネルギーを惜しげもなく過剰に蕩尽する自由な行為である。遊びは遊ぶために遊ぶのであって、遊びを超えるどのような目的ももっていない。」

(矢野智司「贈与と交換の教育学」より)

 

「有用性」は役に立つ度合いなどを示す言葉で、人や物など、何かに対して役に立つことをさして、「有用性がある」という。

わたしの孫を見ていると、そこには役に立つとか何かのためになるとかはまったくなく、ただ面白いのだろう。

 

老化の進んだ私にとって、有用性の秩序から自由になることは大きなテーマだが、遊びに限らず、子ども時代は猶更である。

 

学校に限らず放課後等デイサービスも、ともすると学習効果を求めがちになる。

そのことよりも一人ひとりとらえ方は様々だろうが、「面白かったな」と思えることを最優先にしたい。

 

※放課後等デイサービス「アイリス」ホームページ

https://www.gurutto-iwaki.com/detail/2748/index.html