日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎孫の成長記録(姉2歳4ヶ月、弟6ヶ月)

〇最近は、午後3~4時ごろ弟を我が家に預け、娘がお姉ちゃんを保育園から連れて帰り、しばらく一緒に遊び、その後赤子は娘と居宅に戻り、お姉ちゃんはわが家に残りお風呂入れも含めて遊ぶという流れで、総じて3時間ぐらいで、その間は孫中心の暮らしである。

 といっても、ほとんど対応は妻がしている。

 

 弟はしばらく前から離乳食をはじめ、わが家にいる時に、おぐらやま農場のリンゴをすり卸して食べさせている。

 最初は妻がスプーンで口に持っていってもよくわからなかったのだろうが、すぐに慣れて、モグモグし始め、手応えを感じているようだ。

 

 はじめは、お姉ちゃんにはリンゴを切ったものをあげ、弟にはすりおろしたものをあげていたが、お姉ちゃんはすぐに食べおえて、すりおろしリンゴを欲しがるので、保育園に迎えに行く間を離乳食タイムにした。

 

 二歳ほど違う二人の孫をみるのは、二人のやりとりや、お姉ちゃんの成長の過程を思い起こし、面白い。

 また、二人の孫のぎこちない動きが徐々にしっかりとしてくるのと、双曲線を描くようにわたしの体がぎこちなくなることもあり、「老」と「幼」の対照的な在り方など、いろいろな思いが出てくる。

 

 妻は弟を抱っこしながら動くと、短時間であるがどっと疲れるそうである。わたしは抱っこしながら動くことは危ないのでしない。

 妻の身体は73歳の年以上に丈夫に見えるが、日に日にしっかりしてくる赤ん坊の世話は相当疲れるらしい。

 

 弟の育ちを見ていると、出産後の赤ん坊を育てていくのは、想像を絶するほどの手間暇がかかる。

 娘は赤子を抱っこやおんぶをしながら動きまわり、上手にあやしながら楽しそうに対応している様子は、たいしたものだと感心する。

 

「この世に生きていることは結局、それだけで十分な奇跡なのだ。」マーヴィン・ピーク『ガラスの吹き工』(1950)〉との言葉があるが、何らかの機縁の重なりによって生まれてきた「ひとりの人」が、娘をはじめ何人かの見守りで、ある程度順調に育っていくこと自体が貴重なことと思う。

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 友人から、次のようなコメントをいただいた。

《M・Tさん:可愛い、可愛い~と、大切に育てられている幼子-----記憶の無い幼い頃の我が身の姿を、孫を通じて、今、見ているのでしょうか?

温もりの中に居るのですね。与える者と与えられる者との空間に見えないものが流れているんですね。ふっと、感じました。》

 

 親にとって、自分のことよりも、我が子を育てることにだいぶ気をおいていると思う、そのような意味で、その様子を少し客観的に放して見れる、じじばばは、「しかと記憶の無い幼い頃の我が身の姿を、孫を通じて、今、見ている」面もあります。

 

 また、「子育て」や「介護」に限らないし、日常的な支援するものと支援を受けるものの関係は双方的で、「与える者と与えられる者との空間に見えないものが流れていると考える。