○姉の六歳の誕生日を迎えて
2018年10月20日、私にとって初めての孫が誕生した。
孫のお母さんは私の娘であり、孫から見たら私は祖父(じ‐じ)にあたる。
私たちは娘一家とは同じマンションに暮していて、なにかと交流をかさねている。
その後およそ2年の間隔で孫が生まれ、現在は四人となる。
面白いもので、それぞれの性格はかなり違っていて、みんな楽しいし可愛い。
私の体のこともあり、ほとんど妻(ば‐ば)が孫の世話をしているが、私にも何かできることとして、その成長記録を綴っている
またドコモ携帯の機能で、随時「フォットブック」を使って、写真で孫たちの成長記録をつくっている。今回は長女の6年間の写真記録を作った。
およそ3~4ヶ月毎に一枚だが、「ああこんなこともあったな」と懐かしくもあり面白かった。
特に弟や妹ができると、より一層なにかと逞しくなっている気がする。
以前友人から、次のようなコメントをいただいた。
〈温もりの中に居るのですね。与える者と与えられる者との空間に見えないものが流れているんですね。ふっと、感じました。》
「子育て」や「介護」に限らないし、日常的な支援するものと支援を受けるものの関係は双方的で、《与える者と与えられる者との空間に見えないものが流れている》と私も思う。
まだ半年過ぎの三女は母親がいなくなると激しく泣くが、上三人の孫と妻の間には《与える者と与えられる者との空間に見えないものが流れている》と私は感じている。
○日々の記録
10/4:リアリズム写真家として高名な土門拳の言葉に、〈気力は眼に出る。生活は顔色に出る。教養は声に出る。〉(『死ぬことと生きること』みすず書房)というのがある。
三女は生誕後半年もたつと眼の力が逞しくなってきた。そして気力がみなぎった眼で相手の顔をまじまじと見る。それと泣き声が凄まじくなってきた。人見知りが始まったのかもしれない。
10/14:スポーツの日 (体育の日)の関連なのかプールなどを開放するとのことで、三女を預かる。最初長女と弟だけ連れて行く予定していたが、次女が「なぜ、私を置いていくのか」とぐずったので一緒に連れて行ったそうだ。
次女は何か出かける事があると今まで三女と置いていかれることが多かったが、2歳2ヶ月も過ぎてそれだけの力もついてきているので上の孫たちと一緒に考えた方がいいような気がする。
10/20:姉六歳の誕生日。姉の育ちを見ていると 生まれ 成長し 大人になって やがて老いてゆく という人生を思えて感慨深いものがある。
次の日姉に私の娘から送ってくれた冬用の毛糸の帽子をかぶせたら喜んでいた。誕生日プレゼントを特にしていなかったので、まずはよかったと思った。
保育園ではいろいろ用意してくれたそうだ。
10/21:弟は何かと朝早くわが家に押しかけてくる。
今朝はゲームで遊ぼうとしたら朝からそれはやらないと言われ、面白くないのでわが家に来たという。始めウルトラマンの動画を催促したが、妻が応じないとわかると、何か破るものが欲しいというので広告のチラシを与えるとビリビリに破いて歩き回り、そのうち帰っていった。
女性の多い中で何かとエネルギーがたまっているのだろう。わが家が一種の発散する場となっているようだ。
10/31:孫たち三人が保育園の帰りわが家に押しかけお菓子を催促した。
今日はハロウィンの日で、保育園でお菓子をもらい、いろいろ衣装などを作ってくれたそうだ。
ハロウィンには、お化けや魔女に仮装した子どもたちが「trick or treat! (お菓子をくれないとイタズラするぞ!)」と言いながらお菓子をもらうために家を回るという。