日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

孫の成長記録(姉5歳10ヶ月、弟4歳。妹2歳1ヶ月、三女5ヶ月〕

○幼児とバイタリティ

お盆休みに息子が来た。もうすぐ6歳なる姉と4歳になる弟は大張り切り。

年に数回しか来ないが、孫たちにとって40年以上離れている叔父さんは体力もあり、思い切って遊んでくれるので、凄いエネルギーで纏わりつく。

もっとも息子はたまに来るので、思い切って遊んであげられが、これが毎日続くと、とてもそうしていられないという。

 

四人の孫は、私たちと同じマンショに暮していて何かとわが家に来る。私は孫の相手をするような体ではなく、ほとんど妻が対応しているが、孫と息子の様子を見ていると、「思い切って共に遊ぶのはいいな」としみじみと思う。

ほぼ二年違いの孫の育ちを見ていると、幼児の遊ぶイタリティはすさまじいものだなと感嘆している。

バイタリティとは、「活力」「生命力「生活力」」などを意味し、活力に満ちあふれた態度や性質を表す言葉。ラテン語の「命」を表す言葉が語源と言われている。

 

矢野智司『贈与と交換の教育学』で、次のことを述べる。

《「――遊びによって子どもは体を丈夫にするとか、役割と規則を学ぶとか、社会的な人間関係を豊かにするとか、自然や社会についての認識能力を高めるとか言われてきた。なるほど、このような指摘は、遊びの効用として主張する限り、どれもまちがっていないのだが、教育的効果という有用性が前面に押しだされることによって、遊びが本来もっているはずの生成の力と奥行きとが削減されてしまう。遊びの中心は、そのような<経験>としての側面にはない。遊びはもともと有用性の秩序を否定し、エネルギーを惜しげもなく過剰に蕩尽する自由な行為である。遊びは遊ぶために遊ぶのであって、遊びを超えるどのような目的ももっていない。」

 

やがて学校などに入り、社会性を身につけるための教育などなされていくと思うが、いつまでも小さな子どものもつバイタリティが損なわれることのなきように願っている。

また、孫たちの遊ぶバイタリティがどのように子育ちに影響を及ぼすのか楽しみでもある。

○日々の記録

8/2:久しぶりに孫たちと会食をする。どの孫も食欲旺盛で、対応する妻は大変だがわたしは見ているだけでも楽しい。

その後赤ちゃん・凪をあやすなどして、ワイワイ遊んでいた。凪はよく分からないだろうが、三人の孫たちといると、心なしか楽しそうである。

 

8/9:妹は何かと「こわい」という。「それと違うよ」「それ気にいらない」など1種のカテゴリーとして軽い気持ちで言っているようだ。

言葉を獲得していくには曖昧さやいい加減さが需要で、2歳になったばかりだが、かなりの長文も言えるし、そのうちそれに相応しいことばになるだろう。

幼児期のことばの獲得は、「理解の段階」→「模倣の段階」→「発語の段階」とすすむが、「理解の段階」はかなり早い時期からはじまっていて、今はしきりに何か言っている「発語の段階」だ。

 

8/12:息子が昨日から来る。上の孫たちは年に2回ほど会うむすこ(一応叔父さん)と遊ぶのを楽しみにしていて、朝方8時過ぎに参上。

息子は体力もあり、姉と弟は何かと力いっぱいまとまりつくが息子も上手に扱う。

姉「プリキュア」、弟「ウルトラマン」妹「アンパンマン」と動画の好みも違うが、なんとなく上手く対応する。

昼食は娘一家と会食。転んだり気に食わないことがあると、泣いたりするがすぐに収まる。それやこれやで賑やかな一時を過ごす。

エネルギーがとてもあり余っている弟は何かスポーツを考えてもいいのではないかなど、息子は娘などと話をする。

 

8/24:土・日は保育園が休みで、娘一家で水族館やプール、温泉などに行き、その間赤ちゃん・凪を預かる。

凪は4ヶ月半になり、表情も豊かになっている。対応するのは妻だけで、私は見ているだけだが、時折目が会うときがあり、この人は何だろうと思っているようにじっと見ている。

私は目上の人と対面するとき、相手の顔をじっと見続けることはあまりないと思うが、凪はただ興味の向くまま見続けているようだ。

 

8/27:今日は弟の誕生日。4歳になるが誕生日カードを作っただけで何もしていない。姉は気にしていたが。

弟はエネルギーがあり余っているように、激しく動き回っている。孫たちの中でたった一人の男の子ということもあり、今後どうなっていくのだろう。

息子によると何かスポーツクラブに入ることも考えてもいいのではという。オリンピックなどで活躍している人で4~5歳のうちから励んでいる人も多いという。