日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎"自己家畜化現象"について思う。

〇人類学では人類の進化を言い表す表現として、"自己家畜化現象" という言葉を用いる。

 動物の家畜化は、一つの種の動物がもつある特性を、人間の利益に適うように人為的に改良を重ね発達させる過程のことをいう。

 同時にその種は次第に、人工的に調整された生活条件に依存しなければ生きにくいようになる。

 

 実はヒト(ホモ・サピエンス)という動物の種も、そのような意味での家畜化を、自分自身に対してすすめてきたのである。

 つまり、元来極めて多面的であったはずのヒトの性向や能力のうち、ある社会に役立つと考えられる面を教育などによって意図的に開発し、他の面は抑圧して、いわゆる文明の進歩を実現してきた。

 一方で、その社会の調整された生活条件に依存しなければ生きにくいようになった。

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 この自己家畜化現象について、問題の所在と今後の方向をめぐり、尾本惠市編著『人類の自己家畜化と現代』との研究書がある。

 本書は、国際日本文化センターの学際的研究プロジェクトの研究を2002年の段階で纏めたもの。

 

 野生動物をてなづけ、家畜として利用してきた人類が、便利で快適な現代文明のもとで自己自身も家畜化するようになった。

 感性の衰弱、肉体の弱化、子どもの歯や顎の劣化、道徳心の麻痺、個性の喪失とクローン化など、各専門家による問題提起。

 

 編者の尾本氏は、「メタファーとしての自己家畜化」で次のように述べる。

《われわれ "文明人" と呼ばれる人類は、野生の動物とは比較すべくもない、いわば家畜と同じ存在であるという見方もできます。人類学では人類の進化を言い表す表現として、"自己家畜化現象" という言葉を用いますが、とくにこれは、自然淘汰の圧力から大幅に自由化した今日のわれわれにあてはまることでしょう。家畜はひとたび自然に戻せば生きて行くことはできないことが多いのです。今日のヒトも、科学技術という小屋と人工飼料にて保護されていますが、これは地球全体で莫大なエネルギーを費やしているわけで、ひとたびその補給がつかなくなればおそるべき結末をもたらすでしょう。》

 

 そして次のことを述べる。

《たとえば、ブタは野生のイノシシを家畜化した動物だが、両者の頭骨を比べると非常に大きな違いが見られる。イノシシでは歯や顎といった咀嚼器官が大きく発達し、また鼻先が長く突き出ているが、ブタではそれが短縮している。一般に、野生動物に比べて家畜では咀嚼のための機械的ストレスが減っているが、それが咀嚼器官の退縮の原因と考えられる。サルからヒトへの進化の途上、やはり咀嚼器官を中心とする顔面部の短縮が認められるが、これも同じ原理によると考えられる。》

 

 ブタに咀嚼しやすい飼料を与えるのと同様に、人類も、食用の獲物や採集物を、道具や火を用いて、柔らかくしてから口に入れるようになって、しだいに顔面部の造作を退縮させていった。

 

 家畜化とは、野生動物を人為的に交配させたり、成長をコントロールしたりすることだが、飼料の加工一つとっても、家畜の形態や体質の大きな変容につながる。

 

 そのことは、ひとの形態や体質にも大きな変容をもたらし、さらに便利で快適な現代文明のもとでは、その暮らし方が大きく変容したのではないのかという問題意識である。

 

 つまり、人類は家畜を有用性や効率性という観点から選別し、改良し、廃棄し、そのおなじ視線を反転させて、自己自身に向けるようになったのではないだろうか。

 

 

 同書、藤田紘一郎(寄生虫学)の「清潔すぎることの危うさ」によれば、戦後の日本社会はDDT散布と回虫の集団駆虫から始めて環境の「無菌化への道」をひたすら追求してきた。 

 

 そして殺菌剤や抗生物質、さらには抗菌グッズの濫用のなかで、日本人の体質そのものに大きな変化が生じた。確かに寄生虫感染率は減少したが、「花粉症、アトピー性皮膚炎、気管支喘息などのアレルギー疾患が1960年代の半ばごろから出現してきた」という。

 

 寄生虫や細菌といった異物を体内から、環境から排除することで、元来無関係であったダニの死骸や花粉などに敏感に反応するようになった、と述べる。

 

 

 井口潔(医学教育)「ヒトにとって教育とは何か」では、日本では「教育とは役に立つ人間を効率よくつくることだ」と当然のこととして受け取られているが、この考え自体が誤りであるという。

 

「人間らしい人間になるのを助けるのが教育の原点」でなければならない。

 人間らしい人間になったら、その結果として役に立つようになるのである。そしてこれだけが真理なのであるという立場から、教育は二つに分かれる、と述べる。

 

「生存のための教育」=生得性の能力(感性)と、「生産のための教育」=物をつくる能力(ホモ・ファーブル)。

 明治以降の教育は後者すなわち「教育とは役に立つ人間を効率よくつくることだ」という。

 

 さらに自己家畜化により価値観が固定化する危機から脱する知恵は、「役に立つ人間を効率よくつくろう」という従来の考え方から脱却し、生得性の能力、つまり「感性にかえる」ということだと続く。

 

《感性とは「人間として生きていく力」であり、これが一〇〇万年昔に猿と分かれた人間の最大の智慧だ》

 

 川田順造(文化人類学)「人間の自己家畜化を異文化間で比較する」の『三角測量による文化比較』は、さまざまなことを考えさせてくれる魅力ある論考で、別稿でのべる。

 

※尾本惠市編著『人類の自己家畜化と現代』(人文書院、2002)