日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎胎児期から人類の未来まで(明和政子『ヒトの発達の謎を解く』を読んで)

○はじめに

 二人の孫(姉2歳7ヶ月、弟9ヶ月)を短時間ではあるが見守る暮らしが続いている

 二人の孫のぎこちない動きが徐々にしっかりとしてくるのと、双曲線を描くようにわたしの体がぎこちなくなることもあり、「老」と「幼」の対照的な在り方など、いろいろな思いが出てくる。

 

 弟が出来たことで、2年ほどの違いがあるお姉ちゃんの育ちを振り返ることもあり、乳児の育ちを複合的に見ることができ、また、孫の育ちの観察から、人が育つとは、心(脳)はどのように発達していくのだろう、社会性を身につけるのはどのようなことなのだろう、などいろいろ考えるのは面白い。

 

 それに伴って、その関連の書籍に触れることが多く、明和政子『ヒトの発達の謎を解く ─胎児期から人類の未来まで』を読み、なるほどそうだなと感じることも多かった。

 

 本書は、著者自身が経験した子育ての苦悩があり、比較認知発達科学をはじめ各分野の研究成果や研究所仲間の力添いも踏まえて、2019の段階で、その成果を書き記したものである。

 

「あとがき」で次のように述べる。

《ヒトは個人というスケールで、歴史というスケールで発達するということを正しく理解すること、それを社会で広く共有してもらうことで、人類の未来をともに考え、創りあげていくことに繋げていきたい。》

 

 子育てに直面している人はむろん、胎児期から人類の未来までのヒトの発達に関心を寄せる方々にとって、考えさせられる内容に富んでいる好著と思う。

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〇明和政子『ヒトの発達の謎を解く ─胎児期から人類の未来まで』を読んで。


 本書で著者はおもに次の二点を考えていく。(序章ヒトが直面する二つの危機から)

 ひとつめは、現代社会において急増する子育てにまつわる問題――発達障害の急増や児童虐待、産後うつなど育児や子育てにまつわるさまざまな問題、少子化、若年層の精神疾患の急増などの背景にある本質を正しく理解すること。

 そのための目的に、「ヒトとは何か」「ヒトはどのように進化してきたのか」といったヒトの本質を理解することを第一に挙げる。

 

 そして、序章で次のことを述べる。

《ヒトは数百万年という長い時間をかけて環境に適応しながら、今あるような姿かたちを獲得してきた生物です。同じことは、目には見えない心のはたらきにも当てはまります。ヒトの心の特性は、進化の過程で身体を取り巻く環境に適応しながら獲得されてきた。そのまぎれもない事実をもっと考慮すべきだと思うのです。そうした基本的理解なくして、ヒトの心、そしてそれを生み出す脳のはたらきが創発・発達する道すじ、さらに、その過程においてさまざまな問題が立ち現れる理由を正しく理解することはできません。(---)

 

 本書では、「ヒトの育ちにまつわる現代社会が抱える諸問題の背後には、ヒトが本来もつ特性と現代環境のミスマッチが深く関わっている」という立場にたって論を進めます。》

 

 もうひとつは、人類の未来への責任を、今を生きる世代として果たすこと。

《今、私たちが生きる環境は、「実世界と仮想世界とが交錯する」新たな時空間へと変化を遂げつつあります。VR(仮想現実・バーチャルリアリティ)やAR(拡張現実・オーグメンテッドリアリティ)技術の開発、普及が進み、仮想世界での知覚体験は、実世界でのそれと区別できないレベルにまで達しようとしています。仮想世界では、ある知覚情報を別の感覚へと変換したり、知覚時の時空間関係を自由に調整したりすることが可能となります。ヒトの脳と心が二〇万年という長い時間をかけて環境に適応してきた時間スケールを圧倒的にしのぐスピードで、環境が激変しているのです。

 

 こうした環境が日常化したとき、それと相互作用する私たちの身体、そして脳や心には、いったいどのような影響が生じるのでしょうか。さらに未来に目を向けると、人類がこれまで経験したことのない未曽有の環境で育つことになる子どもたちの脳や心の創発・発達には、どのような影響がもたらされるのでしょうか。

 

 今を生きている私たち人類は、これらの問題に正面から向き合い、次世代が生きる未来環境をどのように設計していくべきかを真剣に考える責任があると思います。そのためには、私たちが長い時間をかけて獲得してきた生物としてのヒトの特性と、それが創発・発達していく軌跡を理解しておかねばなりません。

 本書が、人類の未来を皆さんとともに考えるきっかけとなれば幸いです。》

 

 本書の第一章「生物としてヒトを理解する」で、ティンバーゲンの「4つの問い」をベースに人間の心がどのように獲得されるのか、発生発達の視点や、進化の視点が取り込まれている。

 

 ティンバーゲンは、動物の行動を完全に理解するためには多様な領域からのアプローチが重要であると、「4つの問い」を提唱した。

➀ある生物の行動が引き起こされている直接的な要因は何だろうか?(至近要因)

②その行動は、どのような機能をもって進化してきたのだろうか?(究極要因)

➂その行動は、その生物の一生の過程で、どのような発達をたどって獲得されるのだろうか?(発達要因)

④その行動は、その生物の進化の過程で、どの祖先型からどのような過程をたどって獲得されたのだろうか?(系統進化要因)

 

 著者は、その「4つの問い」をベースに、「心のはたらきは、生物が持つ身体が環境と相互作用を繰り返すことで生まれる」そして「ヒトの発達は、『連続的』で『多様』である」と述べる。

 

「連続性」については、ヒトは胎児の頃から学習する存在で、特に「触覚体験」は、胎児期からの脳の発達を促す重要な役割を担っていて、進化の所産である身体という物理的制約に基づいて、環境に適応的な知性が生みだされる。

 

「身体性」が、知性が生まれる根幹であり、子育てにおいては身体の触れ合いが基本となる。

 

 ヒトの身体感覚には3つの感覚がある。1つめは『外受容感覚』(視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚)、2つめは『自己受容感覚』(荕・骨格・関節から生じる運動感覚、前庭器官により生じる平衡感覚)、そして3つめは『内受容感覚』(自律神経の感覚を含めた内臓状態の感覚)と呼ばれる。

 

 乳児期には、とくに内受容感覚の役割が大きいという。

「身体接触を伴いながら授乳をされると、赤ちゃんの身体の内部には,心地よさを感じる物質が沸き立ちます。血糖値やオキシトシンなどの内分泌ホルモンが高まるからです。ここまでは、哺乳類動物すべてに当てはる。

 しかし、『おなかがいっぱいだね』などと、養育者が乳児に対して笑顔で話しかけるといったかかわりをするとはヒトという生物だけなのだ。

 

 養育者の授乳や抱くことなどで、乳児の「内受容感覚」が心地よい状態となり、母親から微笑みかけられる(視覚)、声をかけられる(聴覚)などの「外受容感覚」を与えられる。こうした経験をくり返すことで、乳児の脳には記憶が生じる。母親の顔や声、匂い、肌触り、を感じるだけで母親の存在が概念として浮かび上がる。

 

 外受容感覚、自己受容感覚、内受容感覚の三つの身体感覚を、環境と相互作用する過程で同期的・連続的に経験していくことで、自分の身体が自分のものであるという自己意識が生まれてくるという。

 

 自己意識は「予測ー照合ー誤差修正」という神経システムを持っている。人間は対人関係の中で、予測を行ない、予測誤差を検出し、予測を随時修正し、予測を常に更新していく。

  自分の身体を自分でくすぐってもくすぐったく感じないのは、くすぐるというという予測と同時にくすぐられるという感覚もあらかじめ予測されているため、実際に生じる誤差が最小になるからであるという。

 

 また、子どもとの身体接触を介する触れ合いによって、養育する側の脳と心も可塑的に変化するという。

 

 子育ておいて、養育者との「アタッチメント」の重要性がいわれている。

「アタッチメント」は、私たち人が、何らかの危機に接し、恐れや不安などの感情を経験したときに、身体的な意味でも、あるいは心理的な意味でも、誰か特定の人にくっつきたいと強く願う欲求、そして現にくっつこうとする行動を指して言う。(J・ボウルビィ)

 

  生物種としてのひとの赤ちゃんの特質として、直立歩行による骨盤の構造などにより、きわめて未成熟な状態でこの世に生まれ、他者への絶対的な依存を前提として人生を出発する。その他者依存性の赤ちゃんをその場に応じて受け止めようとする養育者(母親や家族に限ったことではない)が欠かせない。

 

 『アタッチメント』という身体接触を伴う豊かな対人経験を幼少期から積み重ねていくことが非常に大切と述べる。

 

 アタッチメントについては、生物的な母親だけではなく、子どもの発するシグナルを安定的に受け止め、安心感をつねにもたらしてくれる「特定の存在」がそばにいること、そして情愛的な身体的接触経験が大切と述べる。

 

 他者の身体なくしてヒトは育たない。幼少期に養育者との間でアタッチメント形成がうまくいかないと、心身の発達に遅れや問題が生じ、病気に対する抵抗力や免疫の働きが低下するといわれている。

 

 幼児期に母親とのアタッチメントが剥奪されたケースでは思春期以降に、うつ病や多動障害、解離性障害などが現れやすくなる。母子のアタッチメント障害が子育てにまつわるさまざまな問題や、若年層の精神疾患を引き起こしている可能性があると述べる。

 

 本書では、特定の感受期の重要性を述べ、思春期開始の早まりと精神疾患のリスクについて取り上げられている。

 

 

 第六章では、情報化やロボットとの共生が進んだ近未来社会において、ヒトの育ちはどのように変化しうるのかについて語られる。

 

 わずか数十年という短時間に劇的に変化し続けてきた環境に、数百万年という長い時間をかけて獲得してきた身体が直ちに適応できるはずはない。短期間で激変し続ける環境の中で育っていく次世代の脳や心の発達に、何かしらの影響が生じる可能性は無視できないという。

 

 今の社会に起こっている子育てにまつわる深刻な問題は、社会が喫緊に取り組むべきである。こうした問題を、技術の力(AI)に頼って解消しようとしがちな今の風潮には疑問が残るとする。

もっとも

 AIで「予測ー照合ー誤差修正」がどの程度できるのか疑問というか、もっとも苦手なことではないだろうか。

 

 今を生きるヒトが、特に子育てにおいてこれまでとは異なる方法を選択していくとしたらどうなるだろう。進化とは合目的ではなく、その時代に生きた個体のうち、環境にたまたま適応的であった個体が生き残っているだけである。その生き残った個体が、ホモ・サピエンスであり続けるかどうかはわからない、とする。

 

 最期に次のことを述べる。

《本書で取り上げてきたテーマは、科学的に裏づけられた証拠が得られているものではありません。さまざまな問いに対するはっきりした答えは、これから何十年も、何百年も先に得られることになるでしょう。あくまでも、心の進化と発達を専門として、今を生きている研究者が抱いていた私見として受け止めていただけば幸いです。》

 

※明和政子『ヒトの発達の謎を解く ─胎児期から人類の未来まで』(ちくま新書、2019)