日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎吉野弘と花と樹々のうた(吉野弘『花と木のうた』から)

〇これは、詩「奈々子」で読まれた久保田奈々子さんが「花と木」というテーマに沿って編んだ詩集だと述べている。

 

「あとがき」で次のようなことを書いている。

《父の詩は、日常の何気ない「こと」や「人」を題材にしているものの方が多いように思っていたが、花や木に関する詩がこんなにたくさんあったのかと再認識しました。(-----)

 父が残してきた「詩」を改めて読み返す機会が増えた今になって、父の詩の着眼点の不思議さにふっと引きこまれる私がいます。》

 

 

 前半①に収録してある詩は、他の詩集『北入曽』や『感傷旅行』などからの詩が採録されている。

 後半②は、「花の生き方」「闇と花」「沈丁華の匂い」「果実」「種子」「樹木断章」「剪定」「末と未」「欅の資質」「紅葉現象など」と続き、吉野氏の花と木や自然界の不思議さ、関連して人に関する思いが随想として縦横無尽に書かれており、思索的な洞察や観察に基づくことばに引きこまれる。

 

「花の生き方」は、ある夏、家の庭に大輪の白い芙蓉の花がいくつか咲き、それを眺めたとき、ふと奇妙なことに気づき、関心を引き、少し調べたことから始まる。

 

 芙蓉の花の鉢型の底から伸びた雌蕊は花びらの端よりもっと長く外へ突き出ているが、雄蕊はこれとは対照的に短いことなど、花の受粉の過程を調べ、花の受粉を仲立ちする他のもの、すなわち他花の花粉、昆虫、鳥、風、雨水などの力を得て受粉して生命を持続している姿に新鮮な驚きをおぼえる。

 

 それは我々人間や、生命全体にも通じるのではないか。我々は他のものの力を得て生きているし、逆に我々も他のものの生に影響を与えていると、著名な詩「生命」の

最後の言葉につながる。

 

「花が咲いている/すぐ近くまで/虻の姿をした他者が/光をまとって飛んできている/ 

 私も あるとき/誰かのための虻だったろう/ 

 あなたも あるとき/私のための風だったかもしれない」

 

 植物の「種子」は生命の源であり、果実の成長を促す主要な因子である「オーキシン」は受粉後に種子の作り出す量が多く重要な役目を果たしている。そして、不適な環境をやり過ごし、遺伝情報を親から子へ伝える媒体として働き、動くことができない母体の代わりに遠くまで散布されて「未来」への芽として子孫の分布を拡げるという、極めて重要な役割を担っている。

  

「剪定」では、栽培用樹木は人が余分な枝を切り払い、山野に自生している樹々は強い風で梢が互いに打ち合って不要な枝が払われる。そこから人間のエゴイズムが四方に枝を張り出した姿に比喩的に思い至って、「我々は張り出したエゴイズムの心の剪定をしているのか?」 と問いかける。

 

 前半①の詩作品が、後半②の随想を読むことで、さらに生き生きと伝わってくる。

 花と木を通した作者の視点、心から、大自然の「生」の息吹が立体的に浮かび上がってくる作品集と感じた。

          ☆

 

 同書から、詩3篇をあげる。

▼「種子について」

 ――「時」の海を泳ぐ稚魚のようにすらりとした柿の種

 

 人や鳥や獣たちが

 柿の実を食べ、種を捨てる

 ――これは、おそらく「時」の計らい

 

 種子が、かりに

 味も香りも良い果肉のようであったなら

 貪欲な「現在」の舌を喜ばせ

 果肉と共に食いつくされるだろう。

 「時」は、それを避け

 種子には好ましい味をつけなかった。

 

 固い種子――

 「現在」の評判や関心から無視され

 それ故、流行に迎合する必要もなく

 己を守り

 「未来」への芽を

 安全に内蔵している種子。

 

 人間の歴史にも

 同時代の味覚に合わない種子があって

 明日をひっそり担っていることが多い。

(吉野 弘詩集『感傷旅行』葡萄社、1971より)

 

 

▼「生命(いのち)」

生命は

自分自身だけでは完結できないよう

つくられているらしい

花も

めしべとおしべが揃っているだけでは

不充分で

虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする

生命は

その中に欠如を抱き

それを他者から満たしてもらうのだ

 

世界は多分 他者の総和

しかし 互いに

欠如を満たすなどとは

知りもせず 知らされもせず

ばらまかれている者同士

無関心でいられる間柄

ときに うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように 世界がゆるやかに構成されているのは

なぜ?

 

花が咲いている

すぐ近くまで

虻の姿をした他者が

光をまとって飛んできている

 

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

 

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない

(吉野 弘詩集『北入曽』青土社、1977より)

 

 

▼「樹」

人もまた、一本の樹ではなかろうか。

 

樹の自己主張が枝を張り出すように 人のそれも、

見えない枝を四方に張り出す。

身近な者同士、許し合えぬことが多いのは

枝と枝とが深く交差するからだ。

それとは知らず、いらだって身をよじり 互いに傷つき折れたりもする。

仕方のないことだ 枝を張らない自我なんて、ない。

しかも人は、生きるために歩き回る樹 互いに刃をまじえぬ筈がない。

 

枝の繁茂しすぎた山野の樹は

風の力を借りて梢を激しく打ち合わせ

密生した枝を払い落とす――と

庭師の語るのを聞いたことがある。

 

人は、どうなのだろう?

剪定鋏を私自身の内部に入れ、

小暗い自我を 刈りこんだ記憶は、

まだ、ないけれど。

 (吉野 弘詩集『北入曽』青土社、1977より)