〇最近の話題として、新型コロナウイルスのワクチンの入荷・用意と、その接種対象者のプランが提示されている。すでに医療従事者等への接種が順次行われている。
厚生省によると接種を行う期間は、令和3年2月17日から令和4年2月末までの予定。最初は、医療従事者等への接種が順次行われ、その後高齢者、基礎疾患を有する方等の順に接種を進めていく見込みという。
なお、高齢者への接種は、一部の市町村で4月12日に開始される見込み。当初は実施する市町村や接種する人数が限られており、順次拡大していくらしい。
年齢や体の状態から、わたしの接種順位度はかなり高いと思うが、供給量が限られている現状では、今のところ受けるつもりはない。別にワクチン接種を否定しているわけではなく、その有効性は認識しているつもりだ。
肺機能が極度に悪いわたしは新型コロナに嫌な感じを持っているが、対策としては、まず食生活をはじめ日々の暮らしで自己免疫を高めておくこと、手指消毒・マスク・三密を避けるなど必要最小限のことはして、出来るだけ医療関係の世話にはならないようにと思っている。
今話題になっているワクチンの有効性や副反応などが、もうひとつわからないこともある。だが、自分が罹患しないだけでなく他への影響をも考えると、医療従事者の心配は当然と思う。自分もその現場にいたら、おそらく受けようと思うかもしれない。
また、この機会にワクチンのことをいろいろ調べている。
その中でいろいろ考えさせられた著書に、岩田 健太郎『予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える』がある。
10年ほど前の2010年刊行で、その後の進展はいろいろあるだろうが、ワクチンに関する基本的なこと、題名にあるようなことが、簡潔に書かれていると思った。
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〇岩田 健太郎『予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える』 (光文社新書– 2010)を読む。
内容は、なぜ、ワクチンは嫌われるのか。開発と副作用による事故をめぐる歴史も振り返りつつ、今の日本の医療政策、メディア、そして医療の受け手側の問題点などを一つ一つ明らかにしていく。
新型インフルエンザ、多剤耐性菌問題、ホメオパシー、ゼロリスクなど、最新のトピックも分析しながら、ワクチン問題の「好き嫌い」と「正邪」の部分を切り離したワクチン論。
本書の基底音は、ワクチンが嫌いなのは個人的な感情だけれども、それは好き嫌いの問題であって、ワクチンが有効であるとか、正しいとか、おかしなものという問題ではないということ。
《「科学の核心部では、一見すると矛盾するかに見える二つの姿勢がバランスをとっている。ひとつは、どれほど奇妙だったり直視に反していたりしても、新しいアイデアには心を開いておくこと。そしてもうひとつは古いか新しいかによらず、どんなアイデアも懐疑的に厳しく吟味することだ。そうすることで、深い真実を深いナンセンスからより分けるのである。(-----)
科学者はいつでも「現在の常識」を捨てる覚悟を持っていなければなりません。そうしなければ医学の進歩はあり得ないですから。(p9)》
本書に一環として流れているのは科学者としての矜持で、ワクチンについてもその歴史についても、間違ったこと、おかしなことはきちんと分析、整理している一方、その有効性や及ぼした影響を簡潔に提示している。
そして、予防接種が現代医療の最大の功績であることは「常識」としながら、『現在の「常識」は将来の「常識」を保証しません。(p5)』と述べている。
《予防接種を行う価値のあるワクチンというのは、この「予防接種をせずに病気に苦しむ人」と「予防接種を打って副作用で苦しむ人」とを比較し、前者が後者よりも大きい場合をいうのです。(p59)》
作為過誤と不作為過誤のジレンマ、つまり、予防接種をしたことで副反応が発生した人とワクチン非接種で感染症に罹った人の割合を見ると、大きな影響を及ぼす疾病や症状に対してはかなりの差があり、予防接種の有効性は歴史的に証明されている。
ただ、割合的には少ないが、予防接種の副作用で難儀を抱えている方も少なからずいる。
これについては、「3章 感染症とワクチンの日本史――戦後の突貫工事」「4章 京都と島根のジフテリア事件――ワクチン禍を振り返る」「6章 1976年の豚インフルエンザ――アメリカの手痛い失敗」など、歴史的な事例をあげている。
そして次のことを述べる。
《実際には99%以上の方はワクチンにおける被害を受けていないのです。ほとんどの場合は、うまくいっているのです。そのような事業をやっていて、まれにイレギュラーな事態が起きた時にそれを激しく糾弾する、という世界観を、僕は是として欲しくありません。(p97)》
これについては、マスコミなどの弊害をあげている。マスコミの多くは特異なケースをあげがちで、被害者・加害者の図式による責任論を強調し、それに便乗して、殊更問題視する風潮もあり、そのことの本質をきちんと分析することよりも社会的な話題になる事があり、影響される人も出てくる。
こういう現象はワクチンに限ったことではないが。
さらに、著者は次のことも述べている。
《僕は、ワクチンの副作用に苦しんだ人はわずかなマイノリティに過ぎないのだから気にしなくてもよい、と主張しているわけでは決してありません。それどころか、このような理不尽な苦痛を被った人たちこそ、僕らは十分にケアする義務があると強く思っています。(p98)》
どんなことにもリスクはあり、ゼロリスク希求症候群はヒステリックな議論になってしまいがちになる。リスクとベネフィット(利益)をリアルにクールに議論し無くてはならないと著者はいう。
この本では繰り返し、「好悪と正邪のすり替え」には注意しないといけないという。
《「ワクチン嫌い」の言説は、好き嫌いから生じていると僕は思います。最初は好き嫌いから始まり、そして「後付けで」そのことに都合の良いデータをくっつけ、科学的言説であるかのように粉飾します。都合の悪いデータは罵倒するか、黙殺します。(p203)》
この著を読んで、とても考えさせられたし、つぎのことを思った。
私たちの言動を大きく左右する、「よい・わるい」、「正しい・間違い」の判断も、よく調べていくとその基準は時代や地域によって全く違った捉え方になったりする。
「正しい」というのは「それが自分にとって心地いい」かどうかと言い換えてもいいぐらいだと思う。その方が精神的には安定するから、それを無意識に求めてしまう。
自分が「心地よく」感じて「好感」を覚えるものを、「正しい」と判断しやすい。
普段の生活の中で、だれかに対して「それは間違っているよ」と注意したりする。その「間違っている」を、「おれはその態度が嫌いだ」と言い換えてもいい場合もある。「正しいよ」と言ったりするのも、「俺はその思い方が好きだ」と言っている場合が多い。
「正しい・間違い」については、ワクチンに限らないが、ほとんど無意識的に、個人的なあるいは社会的な意味での「好悪」のバランスの問題になっているときも多いのではないだろうか。