日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎寺田寅彦の災害観について学ぶ②(「津波と人間」「日本人の自然観」より)

〇「津波と人間」より

《昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙なぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。

 

 さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。

 

 しかし困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。(昭和八年五月記)》

           

 毎年8月になると戦争関連、3月には東日本大震災関連の情報が多くなる。

 近年の科学技術の発展、映像技術の優れた効果などもあり、ありとあらゆるメディアによっていろいろな角度から伝えられ続けてきた。とらえる視点で一面的にはなるが。

 

 今年は東日本大震災10年目ということで、NHKをはじめ各番組があり、その被害状況は凄まじく伝わってくる。渦中にあった一人ひとりの思いまでは、とらえきれないにしても。

 

 懇意にしている福島の友人は東日本大震災関連の映像はいまだに見ることはできないという。

 

 それらの知見から、整理、分析して明日に繋げることが肝心なことと思う。

 大概ものごとは、一人ひとりの意思が集まって、大きな力となる。

 関係する行政に携わる人々や関連する専門家などに任しきりにするのではなく。

 

 その観点からも寺田寅彦の「防災の格言」は押さえておきたい。

〈・科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。

・「知らない」と「忘れた」とは根本的にちがう。

・疑うがゆえに知り、知るがゆえに疑う

・ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい。

・地震の研究に関係している人間の目から見ると、日本の国土全体が一つのつり橋の上にかかっているようなもので、しかも、そのつり橋の鋼索があすにも断たれるかもしれないというかなりな可能性を前に控えている

・文明がすすむほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防護策を講じなければならないはずである。〉

 

 そして、次のことも考える

 東日本大震災の特徴は、大きな地震、津波による災害であるとともに、原発事故に象徴されるように、いまだ経験したことのないような大きな文明災であり、私たちの身近な暮らしにつながっているものであり、今の実態をつかんでいくことはしていきたい。情報の吟味が欠かせないが。

 

 原発に関しては、順調に稼働していて事故が起きない限り、一度に大量に電気を経済的に発電する事が可能で、エネルギー確保のメリットがあるが、それが破綻をきたすと、修復が困難なものになり、損害が計り知れない。また、そこから派生する放射性廃棄物などにより長年にわたって環境汚染となる。さらに人々の心理面に不安をかきたてるものとなる。

 

 日本国内では、原発に私たちの暮らしに直結する電気エネルギーの多くを依存しているので、今すぐどうこうとはいかないものの、ものごとはいつも秩序から混沌へと流れていき、この度のようなことは必ず起きるので、代替案を産み出し縮小するあるいはやめる方向でみたいと思っている。

         ☆

 

〇「日本人の自然観」より

《われわれは通例便宜上自然と人間とを対立させ両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は実は合して一つの有機体を構成しているのであって究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。人類もあらゆる植物や動物と同様に長い長い歳月の間に自然のふところにはぐくまれてその環境に適応するように育て上げられて来たものであって、あらゆる環境の特異性はその中に育って来たものにたとえわずかでもなんらか固有の印銘を残しているであろうと思われる。(-----)

 

 自然の驚異の奥行きと神秘の深さに対する感覚を助長する結果にもなるはずである。自然の神秘とその威力を知ることが深ければ深いほど人間は自然に対して従順になり、自然に逆らう代わりに自然を師として学び、自然自身の太古以来の経験をわが物として自然の環境に適応するように務めるであろう。前にも述べたとおり大自然は慈母であると同時に厳父である。厳父の厳訓に服することは慈母の慈愛に甘えるのと同等にわれわれの生活の安寧を保証するために必要なことである。(-----)

 

 西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本とで自然の環境に著しい相違のある事を無視し、したがって伝来の相地の学を蔑視して建てるべからざる所に人工を建設した。そうして克服し得たつもりの自然の厳父の振るった鞭の一打ちで、その建設物が実に意気地もなく壊滅する、それを眼前に見ながら事故の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近頃頻繁に起こるように思われる。》(昭和十年十月記)

 

 

 古来日本人の自然観は、自然を人間に対立するものではなく、そこに溶けこむところと見ていた。

 唐木順三が「田作りは人間の恣意、己の我執を離れて、山河大地の自然に従順しながら、天地の恵みをここに結晶してゆく行事であった」(『日本人の心の歴史』)というように、畏敬の対象でもあり、農の営みは自然と人為の調和的なものであった。

 

 自然現象に対して人の能力には限界があり、人間にはどうにも左右できないものが果てしなくあり、自然は畏怖の対象となるものでもあった。地震や風水の予測し難い災禍の頻繁なこの国土に住む人々は、その自然の中で、永年に亘って様々な知恵を寄せ合い、そこに溶け込む暮らし方、考え方、互助精神などを培い育んできたのではないだろうか。

 

 一方明治以後の西洋化・近代化により、近代科学・技術は生活の隅々まで浸透してくるようになる。

 

 近代科学は操作する人間と操作される側と明確な切断をすることで驚異的な発展をしてきた。人間の力で自然や何事をも克服せんとする努力が西洋における科学の発達を促したともいえる。それは、人間と自然との明確な分離、意のままに自然をコントロールするという志向性を生むことになり、そこに基礎をおくテクノロジーの浸透によって、人間の操作的思考法でなんでも実現できる、自然を征服することができるというような錯覚も蔓延するようになり、この思考法の破綻や限界が言われるようになってきた。

 

 現在の私たちの考え方や暮らし方には、近代科学・技術の操作的思考法、自然の生態系への配慮を欠いた産業や開発、物的な豊かさの過剰な追求、過度な便利さへの欲求、人間の意識中心主義など、相当にしみこんでいると思われる。

 

 

※随筆「津波と人間」(昭和八年五月記)→池内了編『科学と科学者のはなし-寺田寅彦エッセイ集』(岩波少年文庫、2000)

 随筆「日本人の自然観」(昭和十年十月記)→「寺田寅彦随筆集 第五巻」(岩波文庫、1997年)所収。