日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎寺田寅彦の災害観に学ぶ①(随筆「天災と国防」より)

〇東日本大震災の激甚災害から10年になり、また、新型コロナウィルスという厄災の渦中、NHK「100分de名著・第1回 寺田寅彦「天災と日本人」」が放送された。

 番組は寺田の災害観のエッセンスがつまった随筆集「天災と日本人」をもとに、「自然」とのつながりに焦点をあてて、大災害という予測不可能な危機にどう向き合い、どう冷静に対処するかを考える。

 

 物理学者であり、文人としても数多くの魅力あふれる随筆のある寺田は地震、火山、海洋、気象などについての研究をもとに、自然災害の多い日本の防災のために数々の提言を行っている。そして、文明が進歩すればするほど災害による被害は甚大になるという洞察をしている。

 

 ここでは、『天災と日本人』に収録されている「天災と国防」から見ていく。

 

〇「天災と国防」より

《一家なり一国なりにある年は災禍が重畳しまた他の年には全く無事な回り合わせが来るということは、純粋な偶然の結果としても当然期待されうる「自然変異」の現象であって、別に必ずしも怪力乱神を語るには当たらないであろうと思われる。悪い年回りはむしろいつかは回って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年回りの間に充分の用意をしておかなければならないということは、実に明白すぎるほど明白なことであるが、またこれほど万人がきれいに忘れがちなこともまれである。もっともこれを忘れているおかげで今日を楽しむことができるのだという人があるかもしれないのであるが、それは個人めいめいの哲学に任せるとして、少なくも一国の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診療を常々怠らないようにしてもらいたいと思う次第である。》

 

「災害は忘れた頃にやってくる」といわれるが、一つの自然現象であり、特に日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために、地震・津波・台風が頻繁に起こり、ときには劇甚な災禍を及ぼす。

 みながみな四六時中注意する必要はないとしても、行政に携わる人々や関連する専門家は防災の視点からの提言を怠らないようにし、その意見が反映するような社会を思う。

 

 そして次のことを述べる。

《しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(-----)

 

 文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であると言っても不当ではないはずである、災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやが上にも災害を大きくするように努力しているものはたれあろう文明人そのものなのである。》

 

 

 ここで「細工」という言葉を使っている。細工(さいく)とは「手先を使って細かい器物などを作ること。また、作ったもの。」との意だが、所詮、天然に対抗する人間の手掛けたものは、そのようなものにすぎないという観点も大事だと考える。

 東日本大震災の原発事故について、想定外との言葉が使われていたが、自然現象に想定外はありえないと思う。人間はそれほど賢くないとの認識からものごとを見ていくことも大切にしたい。

 

 

《二十世紀の現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障が起こればその影響はたちまち全体に波及するであろう。(-----)

 

 それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の転覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。

 

 しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。(-----)

 

 そうして付け焼き刃の文明に陶酔した人間はもうすっかり天然の支配に成功したとのみ思い上がって所きらわず薄弱な家を立て連ね、そうして枕を高くしてきたるべき審判の日をうかうかと待っていたのではないかという疑いも起こし得られる》

 

 

「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実」については次のことを思う。

 

 人の誕生から、病気、介護、看護、看取り、死亡に至るまで、生命活動の多くのことを専門機関にゆだね、いのちを繋ぐために欠かすことのできない食料の生産過程・調達、下水処理や排泄物処理、防災、防犯などの多くも専門的にシステマティックに展開されている。

 

 大きな災害が起こるたびに暮らしにとって欠かせない水などの不足に直面するが、現状の社会状況では、個々人ではどうしようもない状態となる。

 

 また、現在は過去の一切を踏まえてあり、過去の経験を大切に保存し蓄積して、そこを学びほぐして、明日につながるものを探っていく。

 

「今」は過去の蓄積の上に成り立っており、当面する「今」が未来を動かす出発点になるということを忘れてはならない。「今」をどう見るか、それにどう対処するかは、過去の反省や検討、未来への展望なしには出てこない。

 

 このことは、災害に限ったことではないと考えている。

 これがないと、私たちは目先の現象だけに一喜一憂するその日暮らしの生き方しかできなくなる。

 

※ 「天災と国防」(昭和九年十一月記)→『ちくま日本文学034 寺田寅彦』(筑摩書房、2009)