〇孫はほとんど歩くようになり、ジジババに両手をもってもらうのがお気に入りで、手をつないで歩くのだが、何か興味あるものを見つけると手を放して飛んでいく。
今まではあるところまで乳母車で行き、公園や浜辺についてから自由に行動させるが、往来を歩くのは自動車の危険がある。
もう少し成長すれば、自身で注意を払うと思うが、まだそれは無理そうなので、この時期はかなりの目配りがいると思う。
最近は蒸し暑いこともあり、遠出というより、マンションの廻りで過ごすことが多くなる。
日常利用しているところなので、私はほとんど注意を払わないが、孫にとっては、ワンダーランドで、蟻やダンゴムシなど虫たちの動き、面白い石やへんてこなものをしばらく眺めていじりまわしている。
「それバッチイよ」「さわったらだめ」という声掛けは分かるので、ヘンなことにはならないが、とにかく不思議で面白いらしい。
妻は草引きが身についているので、孫を見ながらせっせと広場の雑草引きをしている。
私の場合は、花や樹々に目が行きがちになるが、蟻の動きや、虫などの動きを子細に見ていると、興味がわくのも分かるような気がする。
レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』に次の言葉がある。
「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。」
「もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっていたとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性』を授けてほしいとたのむでしょう。」
今時期から孫へ、この感性をのびのび培うのを見ていきたいと思っている。
〇レイチェル・カーソン著『センス・オブ・ワンダー』から
生物学者のレイチェル・カーソン著『センス・オブ・ワンダー』(sense of wonder・上遠恵子訳、森本二太郎写真(新潮社、1996)の中から文章をいくつかあげてみる。
本書は、彼女の死の翌年(1965年)に出版された全60ページの写真も収めた小編だ。幼い甥のロジャーとともに体験したこと、地球や生命の美しさを見て、聞いて、触れて、嗅いで感じることのよろこび、そして子どもたちが豊かな感性を育むための時間の過ごし方が、詩的な言葉で綴られている。
「センス・オブ・ワンダー」は直訳すれば「驚く感覚」ということになる。訳者の上遠恵子さんは「神秘さや不思議さに目を見はる感性」という訳を当てられている。
「印象に残った文章から」
・〈「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっていたとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性』を授けてほしいとたのむでしょう。
この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対するかわらぬ解毒剤になるのです」(p23)〉
・〈「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。
美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。
消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなにたいせつであるかわかりません。」(p24~26)〉
・〈「人間を超えた存在を意識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことは、どのような意義があるのでしょうか。自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごす愉快で楽しい方法にひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。
わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。」(p50)〉
全編が詩的な文章で、詩歌の世界にもつながっているのではないか。併せて、このような環境、それを支える人的なネットワークも大事だと思っている。