日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎ユーモアの精神で「老い」「病」を生きる(天野忠の詩集から)

〇内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』のなかの小編「あなたなしでは生きてゆけない」から、自分にとって「かけがいのない人」について考えてみた。まず浮かぶのは妻である。面と向かってはいわないが、心の底にはあるだろう。

 70歳を過ぎた私たちや高齢年代の友人夫婦を見ていて、しばしば老夫婦のあり方を考えるようになる。生まれも育った環境も異なる同士が、何らかの機縁で共に暮らすようになり、長年の間にはお互いの長所・短所、いいところ・気になるところも見え見えで、認知の衰えや大病などにより、どちらかに相当の負担がかかってきたときにどのようになっていくのだろうと思う。世間では高齢者離婚も少なからずあるようだ。

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〇わたしにとって「ああーいいな!」と思う老いの姿を巧みに描いた詩人に天野忠がいる。身の回りを鋭く観察して生まれた親しみやすい諧謔に満ちた作品が多く、澄んだ視線で老いをとらえる。老夫婦として生きる喜びとユーモアの精神がクッキリと浮かんでくる。

「老い」や「病」を考えるときに天野忠のような視線は大事にしたいと思う。

 いくつか挙げてみる。

 

・「覚悟」

真剣勝負せねばならんとしだなあ

この世の瀬戸際まできたんだから。

つくづく、じいさんはそう思う。

しかし

その真剣が見つからん・・・・

誰と勝負だって?

ばあさんが台所でひょいと顔をあげる。

昨日年金を貰ったので

今夜は久しぶりにうなぎである。

特上のその次のを

エイッと張りこんだ。

誰と勝負するのか

じいさんはまだ思案している。  

(天野忠『長い夜の牧歌 ー老いについての50片』書肆山田、1987より)

 

・「老衰」天野忠

十二月二十八日正午一寸前。

生まれて初めて へた、

へた、へた、と 私は大地にへたばった。

両手をついて 

足の膝から下が消えて行くのを見た。

七十八歳の年の暮れ。

スキップして遊んでいる子供がチラとこちらを見た。

走って行った家から人が出てきて

大地にしがみついている私を 抱き起こした。

「どうしました」 

冷静に 

私は答えた。

「足が逃げました」

(天野忠遺稿詩集『うぐいすの練習』編集工房ノアより)

 

 

・「しずかな夫婦」

結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。

とくにしずかな夫婦が好きだった。

結婚をひとまたぎして直ぐ

しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。

 おせっかいで心のあたたかな人がいて

 私に結婚しろといった。

キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて

ある日突然やってきた。

昼めし代りにした東京ポテトの残りを新聞紙の上に置き

昨日入れたままの番茶にあわてて湯を注いだ。

 下宿の鼻垂れ小僧が窓から顔を出し

 お見合だ お見合だ とはやして逃げた。

それから遠い電車道まで

初めての娘と私は ふわふわと歩いた。

 ――ニシンそばでもたべませんか と私は云った。

 ――ニシンはきらいです と娘は答えた。

そして私たちは結婚した。

おお そしていちばん感動したのは

いつもあの暗い部屋に私の帰ってくるころ

ポッと電灯の点いていることだった――

戦争がはじまっていた。

祇園まつりの囃子がかすかに流れてくる晩

子供がうまれた。

次の子供がよだれを垂らしながらはい出したころ

徴用にとられた。便所で泣いた。

子供たちが手をかえ品をかえ病気をした。

ひもじさで口喧嘩も出来ず

女房はいびきをたててねた。

戦争は終った。

転々と職業をかえた

ひもじさはつづいた。貯金はつかい果した。

いつでも私たちはしずかな夫婦ではなかった。

貧乏と病気は律義な奴で

年中私たちにへばりついてきた。

にもかかわらず

貧乏と病気が仲良く手助けして

私たちをにぎやかなそして相性でない夫婦にした。

子供たちは大きくなり(何をたべて育ったやら)

思い思いに デモクラチックに

遠くへ行ってしまった。

どこからか赤いチャンチャンコを呉れる年になって

夫婦はやっとやっともとの二人になった。

三十年前夢見たしずかな夫婦ができ上がった。

 ――久しぶりに街へ出て と私は云った。

   ニシンソバでも喰ってこようか。

 ――ニシンは嫌いです。と

   私の古い女房は答えた。

(天野忠詩集『昨日の眺め』(1969年10月刊行)より)

 

参照・安心感と信頼感に支えられる(2015-03-17)

・「あなたなしでは生きてゆけない」(内田樹『ひとりでは生きられないのも芸のうち』より)(2019-01-11)