日々彦「ひこばえの記」

日々の出来事、人との交流や風景のなかに、自然と人生の機微を見いだせてゆけたら、と思う。※日々彦通信から一部移行。

◎病気を楽しむ心とは

〇「今年のささやかな抱負」

・一日一万歩:退院後から続いている。ぎこちなくても歩くことを大事に。さまざまな出会いを楽しみ、同時に自然界のもろもろについての感度を磨いていきたい。

・日録に一日一句添えて:病と向き合うことで老いる・生きることについてみていきたいと考えている。句日記として中断していたが、再開する。(※日々彦の文芸欄)

・高次脳機能障がい支援の『アイズ』に関わる:身体が衰える前、50歳から15年ほど介護、福祉関係の活動をしてきた。主に精神障がい者や重度心身障がい者・児。そのとき対象者という目線で見ていたことが多かった。昨年難病を得ることで自分のこととなり、交流しながら共に探っていきたいと思っている。

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〇「正岡子規 病気を楽しむ」

  ここに来て、正岡子規が一層身近になってきた。

 晩年の仰臥状態になっても、『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病床六尺』とさやかな日録を書きつづけ、短歌・俳句を詠んで、自分を客観視しつつ綴っている。

 

 随筆『病床六尺』の「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事」、「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない」などの言葉は、子規の症状を鑑みるとなお一層身に迫るものがある。

 子規よりはるかに軽微であるが、私の今の座右にしたい言葉でもある。

 

 子規(1967-1902)31歳の1899年(明治33年)夏頃以後は脊椎カリエスからほとんど病床を離れえぬほどの重症となり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになる。苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け、母や妹の介護を受けながら後進の指導をし続けた。こうした地獄のような苦しみに耐えかねて、一度、自殺を企てたことがある。

 

 このような中で、『墨汁一滴』が1901(明治34)年「日本」に1月~7月まで164回にわたり掲載された。その後9月、10月と『仰臥漫録』を書き、中断があり、翌年5月5日から『病牀六尺』を連載し始め、その年の9月に亡くなる。享年34歳。

 

『墨汁一滴』一月二十四日に次の文がある。

〈年頃苦しみつる局部の痛の外に左横腹の痛去年より強くなりて今ははや筆取りて物書く能はざるほどになりしかば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。斯くては生けるかひもなし。はた如何にして病の牀のつれづれを慰めてんや。思ひくし居るほどにふと考へ得たるところありて終に墨汁一滴といふものを書かましと思ひたちぬ。こは長きも二十行を限とし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病の間をうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり。されどかかるわらべめきたるものをことさらに掲げて諸君に見えんとにはあらず、朝々病の牀にありて新聞紙を披きし時我書ける小文章に対して聊か自ら慰むのみ。(一月二十四日)〉

 

『墨汁一滴』は、一行以上二十行以下の文章の日録、つまり筆に一度だけ墨をつけて、それで書ける長さの文章との意。また、新聞「日本」に掲載したものを読んで、自らを慰めるものとの意図もあった。

 ※「日本」に1892年入社の子規はしばしば投稿していた。1898年には『歌よみに与ふる書』を連載した。

 

 四月十五日と四月十九日に次の言葉がある

〈ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛をこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや。(四月十五日)

 

 をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。しかし痛の烈しい時には仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、または黙つてこらへて居るかする。その中で黙つてこらへて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。(四月十九日)〉

 

 これについて、坪内稔典は次のように述べる。

〈「墨汁一滴」における転換と客観がもっとも見事に描かれた記事ではないだろうか。痛いという現実(自分)を少し離れ、すぐ傍の金魚へ視線を移す。そのちょっとした離脱の位置に子規の言葉の世界があった。(『正岡子規―言葉と生きる』岩波新書、2010)〉

 

 五月四日に、「しひて筆を取りて」と短歌が掲載されている。

・佐保神の別れかなしも来ん春にふたゝび逢はんわれならなくに

・いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす

・病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも

・世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも

・別れ行く春のかたみと藤波の花の長ふさ絵にかけるかも

・夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも

・くれなゐの薔薇ふゝみぬ我病いやまさるべき時のしるしに

・薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽摘みし昔おもほゆ

・若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱いでにけり

・いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ

 

 

 随筆『病牀六尺』は次の書き出しから始まり、二十一と七十五に上記の言葉がある。

〈一「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅わずかに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団ふとんの外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤まひざい、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪むさぼる果敢はかなさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪しゃくにさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして(五月五日)。」

 

 二十一「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」(六月二日)

 

 七十五「病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の 面白味もない」 (七月二六日)〉

 

 思い、感情などを忌憚なく書き表すことが、楽しく面白く生きる証であったようだ。

 そうした中で、諧謔精神、洒脱な遊び心があり、そこも魅力を覚える。

 ここに新年の句をいくつか挙げる

 

(子規新年の俳句から)

・一年は正月に一生は今に在り(明治30年)

・蒲団から首出せば年の明けて居る(明治30年)

・めでさたも一茶位や雑煮餅(明治31年)

・雜煮くふてよき初夢を忘れけり (明治31年)

・歌かるた知らぬ女と拉びけり(明治33年)

・大三十日愚なり元日猶愚也(明治34年)

 

(私の今年の作品から)

・大晦日仏ソワソワ神ストレッチ

・初詣よそ見していてこけにけり

・らりるれろ舌をほぐして雑煮餅

・四苦八苦一日一句筆始